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ビザンツ帝国 (東ローマ帝国)
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| シンデレラの帝国 Cinderella |
テオドラ(Theodora)という名の女性は、ユスティニアヌス一世の妃や、1055年に女帝となったテオドラなど多くの人がいる。 |
830年初夏、宮殿は華やかな雰囲気に包まれていた。大広間には、美しい娘たちが瞳を輝かせて並んでいる。まもなく美人コンテストが始まる。審査委員長はビザンツ皇帝で、一番気に入った娘に黄金のりんごを渡し、その娘が妃となる。シンデレラを夢見る乙女たちの中に、15歳のテオドラがいた。 妃を決めるコンテストは、この国の重要な儀式だった。妃候補を探すため全国に使節が派遣された。妃の条件は何よりも美貌、次いで身長、足の大きさだった。使節は、理想の妃の似顔絵と足の大きさを測る靴を携えて全国に散った。 都に集められた女性は、まず宮殿の予備審査でふるいにかけられる。「あなたは美しい。しかしローマの皇妃にはふさわしくない」 残った選りすぐりの女性がコンテスト会場に集められた。 いよいよ皇帝が現れ近づいてくる。娘たちの胸は高鳴る。皇帝は知的な美しさをたたえた女性の前に止まった。「運のいいお方だ」とささやきが聞こえる。皇帝はぶっきらぼうにつぶやく。「女から悪が生じたのだ」。娘は答える。「良きことも女から生れました。キリストはマリア様からお生まれになり、あなたもお母様からお生まれになりました」。1本とられた皇帝がふっと横を向くと、そこに質素なテオドラが立っていた。皇帝は思わずりんごを差し出した。大きなため息が会場にもれた。 |
| 帝国の誕生 | ![]() 聖ソフィア大聖堂(現在、アヤソフィア博物館) Sophia:ギリシャ神話の知恵の女神 |
395年、ローマ帝国は東西に分裂した。西ローマはゲルマン民族に蹂躙されたが、東ローマは繁栄を続け、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで1000年以上存続した。 東ローマ帝国は、首都コンスタンチノープルがギリシアの植民都市ビュザンティオンと呼ばれたことから、ビザンツ帝国あるいはビザンチン帝国と呼ばれる。この帝国は、バルカン半島と小アジアを中心に、西はイタリアから東はシリアまでの版図を有し、東洋と西洋の文明の十字路に位置した。 政治・経済制度はローマ帝国を継承し、文化的にはギリシア・ヘレニズムを、宗教はキリスト教を国教とした。公用語は当初ラテン語が使われたが、次第にギリシア語が使われ徐々にギリシア化していった。帝国は興隆と衰退を繰り返し、領土はめまぐるしく変化した。 |
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532年、ユスチニアヌス帝の時代に増税に対する不満から大規模な反乱ニカの乱が起こった。反乱軍は聖ソフィア教会を焼き払い宮殿に迫ってきた。皇帝は逃亡を決意、港には脱出用の船が用意された。それを見て踊り子上がりの皇妃テオドラは叫んだ。「今は逃げる時ではありません。帝衣は最高の死装束です」 我に返った皇帝は、軍隊に鎮圧を命じ、3万人を虐殺した。 ユスチニアヌス帝はかってのローマ帝国復活を目指し、ゲルマン支配下の旧帝国領に進出した。まず、533年に北アフリカのヴェルダン王国を滅ぼし、535年にはイタリアの東ゴート王国をシチリアから攻め、20年かかって滅ぼした。イタリアは再度ローマ帝国領となったが、長い戦乱のため荒れ果てた。イベリア半島では、西ゴート王国を攻め、半島東南部に拠点を築いた。 ユスチニアヌス帝は、ローマ法大全を編纂した。歴代皇帝の勅令集をローマ法に集大成したもので、ヨーロッパ法律学の礎石となっている。また、建築事業にも熱心で、聖ソフィア教会の建設に力を注いだ。 |
| 混迷する帝国 |
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ユスチニアヌス帝の没後、帝国は外敵に悩まされた。613年、ヘラクレイオス帝は、シリアでササン朝ペルシアに敗れ、エジプトを失いエルサレムを占領された。この時エルサレムからキリストが磔になった「真なる十字架」が奪われた。ペルシアとの戦いは泥沼化し、両者とも疲弊していった。 この隙をついてランゴバルド族(またはロンゴバルド)がアルプスを越えて侵入し、北イタリアを奪って建国した。この王国が支配したポー川流域一帯は、ロンゴバルド人の土地と言う意味で、ロンバルディア州の語源になった。 更にイスラム勢力の侵攻が始まった。636年にヤルムーク河畔の戦いで惨敗、シリア、パレスチナ、エジプトを失った。翌年にはササン朝ペルシアもイスラムに滅ぼされる。655年には小アジア南岸のリュキア沖の海戦でイスラム艦隊に敗れ、地中海の制海権を失った。697年、アフリカの最後の拠点カルタゴが占領された。そして首都コンスタンチノープルはしばしばイスラム海軍に包囲されるようになった。 |
| キリスト教会分裂 | ![]() カール大帝の戴冠(Wikipedia) |
バルカン半島では、スラブ民族が定住しはじめた。681年、ブルガリアは最初に国家を作った。このブルガリア王国は1014年にビザンツ帝国に滅ぼされるまで存続した。 800年、ローマ教皇レオ3世はフランク王カール大帝を西ローマ皇帝として戴冠した。これによりキリスト教会は東西に分裂、それぞれ独自の道を歩むこととなった。 ローマ皇帝を自認するビザンツ皇帝は、カール大帝がフランク人の皇帝と名乗ることは認めたが、西ローマ皇帝とは認めなかった。 |
| 繁栄と衰退 | ![]() 中央がキリスト、左がコンスタンティノス9世、右は女帝ゾエ 聖ソフィア教会南回廊のモザイク画 |
753年、イスラム世界はウマイヤ朝からアッパス朝に代った。アラブの中心がダマスカスからバグダードに移ったため、脅威は薄らいだ。863年、ミカエル3世はララカオン川の戦いでアラブ軍を全滅させ、これ以降イスラムの侵攻は途絶えた。 対外的な危機を乗り越えた帝国は、アルメニア、小アジア、バルカン半島を取り戻した。平隠な時代のマケドニア朝(867〜1056)の200年は、帝国の繁栄期だった。クレタ島征服、アンティオキア奪回、ブルガリア征服など帝国は拡大していった。 この王朝の末期には、享楽的なコンスタンティノス8世やその娘のゾエの結婚相手が皇帝となり帝国は衰退しはじめた。 1054年、ビザンツ教会はローマ教会と完全分裂(大シスマ)し、西欧との関係が悪化する。1071年にはマラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い)でセルジュークトルコに惨敗し小アジアを失った。同じ年に、南イタリアの拠点バーリをノルマン人のシチリア王国に奪われる。また、ロベールギスカルがバルカン半島に迫って来るなど帝国は滅亡寸前の状態に陥った。 |
| 十字軍 | ![]() ビザンツ時代の城砦(ミストラ: ギリシア) |
東西から敵が迫っていた1081年、アレクシオス1世がコムネノス朝を発足し改革に着手した。西のノルマン人に対してはヴェネツィアに援助を求め、東のイスラム勢力に対してはローマ教皇に十字軍を要請した。 その子のヨハネス2世や孫のマヌエル1世の時、シリアやイタリアに遠征し対外攻勢に出る。しかし、イタリア侵攻は、神聖ローマ帝国やシチリア王国、ヴェネツィアとの対立を深め、ヴェネツィアとは国交断絶状態になった。 1176年、ミュリオケファロンの戦いでトルコ軍に惨敗、バルカンでは第2次ブルガリア王国やセルビア王国の攻勢に苦しめられた。 崩壊寸前の帝国にヴェネチアがとどめを刺した。1204年、第4回十字軍は聖地に向かわず、ヴェネツィア海軍の支援を得てコンスタンチノープルを占領、ラテン帝国を建てた。ビザンツ皇帝テオドロス1世は小アジアのニカイアへ逃れ亡命政権を樹立した。 |
| オスマントルコの侵略 | ![]() |
その後、モンゴルの侵略により、トルコやブルガリアが衰退するとニカイア帝国は急速に力をつけた。1261年、ミカエル8世はコンスタンチノープルを奪回し、帝国最後のパレオロゴス王朝を開いた。 しかし、その領土は狭く、バルカンではセルビア、小アジアはオスマントルコに浸食され国力は疲弊した。そして、1381年、ついに東ローマ帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。 バルカン半島に進出したオスマン軍はトラキア、ブルガリアを併合し、1389年のコソボの戦いや1396年のニコポリスの戦い(Nicopolis)でセルビアやハンガリを破った。この結果、バルカン半島の大部分がオスマントルコの支配下に入り、帝国は孤立した。 危機に陥った帝国を救ったのが、ティムール。1402年、ティムール率いるモンゴル軍がオスマン軍をアンカラの戦い(アンゴラの戦い)で破り、オスマン帝国は一時的に崩壊した。しかし、ティムールの死後オスマントルコは再興され、1451年にコンスタンティノープル攻略に燃える若きメフメト2世が即位した。 |
| コンスタンティノープル包囲 | ![]() ルメーリヒサール(向こうの海がボスポラス海峡、対岸はアジア側) |
1452年になるとボスポラス海峡を封鎖する要塞の建設が始まった。アジア側にアナドール・ヒサールが、対岸にはルメーリ・ヒサールが建設され、黒海への航行を阻止した。また、ハンガリー人ウルバンに城壁を打ち砕く能力がある巨砲を作らせた。 コンスタンチノープルは、防衛体制を強化した。西側には鉄壁の三重の城壁が築かれ、海側はベネチアやジェノヴァの艦隊が守った。北側の金角湾の入口は鉄鎖で封鎖し艦船の侵入を防いだ。 |
| コンスタンティノープル陥落 | ![]() |
1453年4月、10万を超えるトルコ軍がコンスタンチノープルを包囲した。中央にスルタン直属のイエニチェリ軍団、それをはさんでセルビア王国などのバルカン騎兵を中心とするヨーロッパ軍団、そしてアジアからのアナトリア軍団、ジェノバ居留区のガラタにはサガノスパシャの軍団が布陣した。迎え撃つビザンツ軍は僅か4773人とヴェネチアやジェノバの援軍2000人、それでも最後の皇帝コンスタンティノス11世は降伏より戦いを選んだ。 戦いは50日を超えた。それでもコンスタンチノープルは落ちなかった。連日の砲撃に耐え、数度の総攻撃をはね返した。海戦ではトルコ艦隊を打ち破った。しかし、メフメト2世は卓越したスルタンだった。封鎖された金角湾に進出するため、船を陸に上げ、山越えして湾内に浮かべる作戦を行った。北の守りは崩れた。 5月28日、トルコ軍の総攻撃が始まった。ビザンツ軍は押し寄せる敵をその都度撃退した。見事な戦いぶりだった。夜明け前、精鋭のイエニチェリ軍団が攻撃を開始、ついに城壁にトルコの三日月の旗が翻った。それを見たコンスタンティノス帝は敵軍に突進していった。 |
| その後 |
コンスタンティノープルの陥落は、ローマ帝国を母体としていた西欧の人々に大きな衝撃を与えた。フランク王国や神聖ローマ帝国の国王がローマ皇帝を名乗っても、かってのローマ皇帝のような権威はなかったのである。 ローマ皇帝の名に値するのはビザンツ皇帝だけだった。また、キリスト教という宗教的な共通性がより結びつきを強めていた。その精神的なよりどころとなる帝国が消えてしまったのである。 |
1472年、最後の皇帝コンスタンティノスの姪ソフィアがロシアのイヴァン3世に嫁いだ。それ以降、ロシアはローマ帝国、ビザンツ帝国に続く第3のローマ帝国としてツァーリ(皇帝)の称号を使い、またビザンツと同じ双頭の鷲の紋章を用いることになった。 しかし、フランス人やドイツ人の皇帝にさえなかなか権威を認めなかった西欧人は、単に皇女と結婚して皇帝の紋章を使ったロシア人皇帝を、ローマ皇帝と認めなかった。 |
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【参考資料】
世界の歴史 11 井上浩一、栗生沢猛夫 中央公論社 コンスタンティノープルの陥落 塩野七生 新潮文庫 バルカンの歴史 柴宜弘 河出書房新社 |