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大航海時代
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| 大航海時代と日本 | セウタに残る要塞 セウタは、1580年にスペイン領となり、現在に至る |
1543年8月、種子島にポルトガル人が漂着し鉄砲が伝えられた。鉄砲は驚異的なスピードで日本中に広まり、日本の歴史に大きな影響を与えた。 ポルトガル人が日本にたどり着くには長い年月がかかった。1415年、北アフリカのセウタを占領、イスラム教徒から奪ったその町を基点に、西アフリカ航路の開拓に力を注いだ。1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、インドやマラッカ、中国南部に進出した。そしてセウタ攻略から130年後、ようやく日本にたどり着いた。 同じ頃、逆方向からスペイン人がアジアに迫っていた。1492年、コロンブスが大西洋を横断してアメリカ大陸を発見、マゼランが太平洋横断に成功。それ以後、メキシコからアジアに船団を送り、フィリッピンにマニラを建設した。コロンブスの航海から100年目の1591年に、スペイン人が日本にやって来た。 ヨーロッパ人は、鉄砲、時計、印刷機をはじめ天文学、医学など新しい文化を持ち込んだ。1549年にはキリスト教がフランシスコ・ザビエルによって伝えられ、日本人の目は外に向かって大きく開かれた。 |
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| ヴェネツィアとジェノバ | ![]() |
12世紀頃の地中海貿易は、アマルフィ、ピサ、ヴェネツィア、ジェノバなどイタリアの海事都市が独占していた。これらの都市は、1096年から始まった十字軍を支援する艦隊を派遣し、シリア沿岸に拠点を築くなど大いに繁栄していた。 海事都市のうち、シチリアに近いアマルフィは、ピサの支援を得たノルマン王国に支配され没落する。ピサ(Pisa)は、1284年のメロリアの海戦(Meloria島)でジェノバに敗れ、コルシカ、サルディニア島を失い衰退した。やがてヴェネツィアとジェノバにも争いが始まり、1378〜80年のキオッジアの海戦(Chioggia)でヴェネツィアが勝利し、ビザンツ、シリア、エジプトとの東地中海貿易を独占した。 ジェノバとの海戦で捕虜になったヴェネツィア人マルコ・ポーロはジェノバの牢獄で東方見聞録を執筆した。そこに紹介された黄金の国ジパングが大航海時代のきっかけになった。 東地中海から締め出されたジェノバは、西へ向かった。元々ジェノバは、ジブラルタル海峡を越えて北西アフリカやフランドル地方(オランダ、ベルギー)と交易していた。フランドル行きの船団はポルトガル沿岸を北上するため、リスボンなどポルトガルの港に多くのイタリア人が住むようになった。 ポルトガル商人はイタリア人から航海術や造船術を学び、海洋国として発展していった。 |
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1415年、ポルトガルのジョアン1世は、ジブラルタル対岸のセウタを占領し、海外進出の拠点とした。その息子エンリケ(航海王子)は西アフリカへの航海を行い、シエラレオネまでの航路を開拓した。アフリカ西海岸の探険が進むと、黄金、象牙、奴隷の貿易が盛んとなった。 次のジョアン2世の時代は、インド航路の発見が目標となった。1488年バーソロミュー・ディアス(BartolomeuDias)が喜望峰に到達した。その10年後の1498年、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を越えてインド洋を横断し、インド西岸のカリカット(Calicut:綿織物キャラコの語源。現在のコジコーデ)に着いた。 ガマは、カリカットの領主ザモリンに面会した。ザモリンは、ガマが差し出したみすぼらしい貢物を見て取り合わなかった。現地人からも馬鹿にされ、わずかな香料を手に逃げ出すようにリスボンに戻った。 屈辱を味わったポルトガルは、強力な武装船団を派遣した。1500年、ペドロ・アルバレス・カブラルは13隻の大船団で出帆した。しかし、西に流されブラジル北東部に漂着、この日からここブラジルはポルトガルの植民地になった。11日後、再び海に出た船団は東に航海を続け、7隻がカリカットに到達し、大量の香料を仕入れてリスボンに戻った。 その後ポルトガルは、1510年にゴアを、翌年にはマラッカを占領してアジア貿易の拠点とした。この2つの土地はアジアでの最初の植民地になった。1548年にはマカオに居留権を獲得し、中国や日本との貿易を行った。 |
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| コロンブス | ![]() バルセロナにあるコロンブスの塔 コロンブスに大きな影響を与えたフィレンツェの天文学者トスカネリは、地球球体説を唱え、インドへは大西洋を西航した方が近道と考えた。トスカネリが作成した地図には、ジパングは今のメキシコの辺りとされていた。 |
ジェノバ人クリストファー・コロンブス(Columbus)は、ポルトガル王に大西洋横断計画を提案をしたが断られ、スペインのイサベル女王に援助を申し出た。 1492年、イベリア半島最後のイスラム拠点グラナダを落した女王は、コロンブスに航海の許可を与えた。サンタ・マリア号他2隻に90人の乗組員を乗せて、ポルトガル国境の港町パロス(Palos de la Frontera)を出帆した。見送り人もほとんどいない寂しい船出だった。2ヵ月後にバハマ諸島のサン・サルバドル島に到達、近くのエスパニョラ島に金山があることを知り、ここが目的地ジパングと確信する。その後、キューバ、ハイチを探険し、エスパニョラ島に39名の部下を残して帰帆した。 スペインに戻ったコロンブスは、バルセロナでイサベル女王とその夫フェルナンドの歓迎を受け、発見地の総督に任命された。 続いてコロンブスは2回目の航海を計画し、千数百人を乗せた17隻の大船団がカディスを出帆した。この航海は植民目的で、多くの農民や坑夫を連れてドミニカ島に到着した。一攫千金を夢見るスペイン人は貪欲で、現地人を奴隷にして金山開発を行った。このため重労働や疫病のため多くの住民が死亡し人口は激減した。イサベル女王は憂慮し、調査委員を派遣した。コロンブスは慌てて本国に戻り釈明した。 1498年、6隻の船で3回目の航海に出発、ベネズエラに上陸した。しかし、植民地での紛争は収まらず、本国から派遣された査察官に逮捕され送還された。罪に問われることは免れたが、全ての地位は剥奪された。 それでもコロンブスは4回目の航海を企画した。王からの援助は小型のボロ舟4隻だけだった。1502年に出航、パナマ周辺を6か月さまよい、最後は難破して救助されスペインに戻った。帰国後は病気になり、1506年に西インド諸島をインドの一部と信じたまま没した。 |
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| トルデシリャス条約 | ![]() |
コロンブスの新大陸発見後、スペインは教皇アレクサンデル6世に働きかけ、教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、子午線の東に発見される非キリスト教の土地はポルトガルに、西はスペインに与えると定めた。 これにポルトガルが抗議し協議の結果教皇子午線を西に800マイルずらして世界を2分することで合意、1494年にスペインのトルデシリャスでトルデシリャス条約(Tratado de Tordesillas)が締結された。カブラルが漂着したブラジルは、この線より東にあったのでポルトガル領となった。 1497年、イギリスのヘンリー7世の支援を受けたフィレンツェ人カボット(Cabot)は北アメリカを発見、フィレンツェ人アメリゴ・ヴェスプッチは、コロンブスが発見した大陸はアジアとは別の新大陸であると報告した。新大陸はその名にちなんで、アメリカと呼ばれるようになり、コロンブスの名はコロンビアという国名に残った。 また、スペイン人のバルボア(Balboa)は、1513年パナマを横断して太平洋を発見した。 トルデシリャス条約ではアジアの境界線が決まっていなかった。1529年のサラゴサ条約で、モルッカ諸島付近(香料諸島:ボルネオ島の東)を境界線とした。また、アジア経営に苦しんでいたスペインは、モルッカ諸島の権利をポルトガルに売り飛ばした。 |
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| マゼランの世界一周 |
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ポルトガル人マゼラン(Magellan)は、若い頃にゴアやマラッカの征服に参加し東洋通だった。彼は西回り航路でマラッカに至る計画をポルトガル王に提示したが拒絶され、スペインに亡命した。そこで、スペイン王カルロス1世の援助を得ることができた。 1519年8月、5隻の船に265人を乗せてセビリアを出航、同年12月にリオデジャネイロに到達、そこから一気に南下しパタゴニア南部に着いた。そこで5ヶ月越冬、その間に乗組員の反乱や船を1隻失う事件が起こった。パタゴニアからさらに南下し、1520年10月、ついにマゼラン海峡を発見した。 海峡通過に1ヶ月かかり、3隻に減った船団は、ついに太平洋に出た。それまでの荒れた海と違ったこの静かな海を太平洋(Pacific Ocean)と命名した。 以後100日を越す航海は悲惨なものだった。一度も陸地を発見せず、水と食料は底をつき、ねずみを食べ、ひもの皮をかじってしのいだ。壊血病にも苦しめられ、行き絶え絶えになった頃、ようやくグァム島に着いた。久し振りに新鮮な食料と水を補給し、更に西に進んで1521年3月、フィリピンに到達した。フィリピンの島々を探検中にセブ島に上陸するが、現地人との戦闘に敗れマゼランは戦死した。 残った部下115人は、2隻の船でセブ島を脱出、モルッカ諸島を経由し、喜望峰を回る苦難な航海の末、1522年9月にスペインに帰国した。帰ってきたのはぼろぼろの1隻の船と18人の乗組員だけだった。 こうして最初の世界周航が成し遂げられ、地球が球形であると実証された。 |
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| マヤ文明の崩壊 | ![]() マヤの神殿(ピラミッド):メキシコ |
スペイン人は原住民を奴隷として虐待したため、現地の人口は激減した。そのため新たな奴隷を確保するため、新しい土地を捜していた。1517年、キューバのエルナンデス・デ・コルドバは西に向かっての航海中にメキシコのユカタン半島に到達、そこでマヤ文明を発見した。 この発見にキューバのスペイン人は湧き立ち、1519年、フェルナンド・コルテスを指揮官に、兵500人、砲14門、16頭の馬を11隻の船に乗せてハバナを出航した。ユカタン半島に上陸し、マヤ軍との会戦では騎兵の威力で一蹴する。メキシコには牛や馬のような大型の家畜がいなかったため、マヤ人は騎兵を馬と人間が一体となった怪物と思い込み逃げ回った。 更に西に進み、アステカ王国の首都テノチティトランに入る。そこで皇帝モクテスマを捕らえて監禁し、国内からおびただしい金を集めさせた。その後、アステカ人の一斉蜂起により退却するが、反アステカのトラスカルテ族とともに反撃、8ヶ月にわたる凄惨な戦いの末、1521年に首都を攻略した。 テノチティトランは廃墟となるが、その上にメキシコ市(メヒコ)が築かれ、アステカ王国は、ヌエバ・エスパニャ(新スペイン)王国というスペインの植民地になった。 |
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| インカ帝国征服 | ![]() ![]() インか帝国の遺跡:ペルー(マチュピチュ) |
アステカ王国征服の知らせは、大陸内部にある幻の黄金帝国発見競争に火をつけた。パナマを横断したバルボアの部下フランシスコ・ピサロは、パナマから太平洋を南下するルートで探検に乗り出した。1回目はコロンビア北部まで、2回目はエクアドルを越えてペルー北部に到達した。この探検で原住民の集落や太陽神殿を発見し、黄金帝国の存在を確信した。 1531年1月、180人と37騎が3隻の船でパナマを出港した。エクアドル北部のアダカメスに上陸、そこから陸路を南下し、トゥンベスに着いた。2ヶ月の滞在後トゥンベスを出発、ついに人の手で作られた道路を発見する。更にカハマルカという町にインカ皇帝アタワルパ(Atahualpa)が住んでいる情報を得る。 カハマルカに乗り込んだピサロは、広場で数千のインカ兵に護衛された皇帝アタワルパに謁見した。従軍司祭バルベルデが皇帝の前に進み出て、キリストの教えを説き、聖書を手渡した。皇帝は聖書をちょっと開いてポンと投げ捨てた。これが合図となり一斉に攻撃が開始された。またたく間に数千のインカ兵が鋼鉄の剣でなぎ倒され、アタワルパは捕虜となった。1000万人以上の人口を持つインカ帝国は一瞬のうちに崩壊した。 幽閉されたアタワルパは、スペイン人が黄金に異常な関心を示すのを見て、部屋の壁に線を引き、この高さまで黄金を集めるから釈放して欲しいと申し出た。ピサロは承諾した。全国からの金銀は部屋を満たし、約束通りアタワルパは釈放された。しかし、すぐに治安維持の名目で再逮捕され、絞首刑にされた。 1533年、ピサロは首都クスコを占領し、破壊と略奪のかぎりをつくす。1535年、クスコを弟のエルナンドに任せ、リマを建設した。インカ皇帝の子孫達はアンデス山中に退いて抵抗したが、1572年に最後の皇帝トゥパック・アマル(Tupaq Amaru)が捕らえられて処刑された。 |
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| まとめ |
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レコンキスタを達成したスペインとポルトガルは、国王による中央集権化が進み、イスラム教徒を追い出した勢いで海に乗り出していった。新しい領土を獲得し、香辛料がもたらす莫大な利益により、王室の財政はうるおった。 さらに カトリック教会が、航海ブームに拍車をかけた。教会は、新領土民に対する布教活動のため、イエズス会やフランシスコ会の会員を派遣した。押し付けがましくキリスト教を布教する宣教師が、結果的に多くの残忍な侵略者を呼び込んだ。植民地の人口が激減すると、今度はアフリカから奴隷を送り込んだ。 大航海時代には画期的な地理上の発見が相次いだが、発見の後には征服が続いた。ヨーロッパ繁栄の始まりであったが、アジア、アフリカ、南アメリカにとっては暗黒時代の到来となった。ヨーロッパによる植民地経営やアメリカの黒人問題は、現在に至るまで大きなしこりを残している。ポルトガルは中継貿易が中心だったが、スペインは領土的な野心が強く、徹底的に原住民を痛めつける植民活動を行った。 大航海時代を先駆けたポルトガルとスペインは、スペインから独立したオランダやエリザベス女王のイギリスが割り込んでくると急速に衰退していった。 |
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【参考資料】
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