大航海時代
大航海時代と日本
セウタに残る要塞  

 セウタは、イスラムのイベリア半島進出の拠点となった町である。1415年にポルトガルがセウタを奪取し、ポルトガル領となった。1580年、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、セウタはスペイン領となり、現在に至る。

 1543年、種子島にポルトガル人が漂着して日本に鉄砲が伝えられた。鉄砲は驚異的なスピードで日本中に広まり、日本の歴史に大きな影響を与えた。

 ポルトガル人が日本にたどり着くには長い年月がかかった。1415年、ポルトガルは北アフリカのセウタを占領し、イスラム教徒から奪ったその町を基点に、西アフリカ航路の開拓に力を注いだ。1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、続いてインドやマラッカ、中国南部に進出した。そしてセウタ攻略から130年後にようやく日本にたどり着いた。

 同じ頃、逆方向からスペイン人がアジアに迫っていた。1492年、コロンブスが大西洋を横断してアメリカ大陸を発見し、マゼランが太平洋横断に成功した。それ以降、スペインはメキシコからアジアに船団を送り、フィリッピンにマニラを建設した。コロンブスの航海から100年目の1591年に、スペイン人が日本にやって来た。

 ヨーロッパ人は、鉄砲、時計、印刷機をはじめ天文学、医学など新しい文化を日本に持ち込んだ。1549年にはキリスト教フランシスコ・ザビエルによって伝えられ、日本人の目は外に向かって大きく開かれた。

ヴェネツィアとジェノバ

 12世紀頃の地中海貿易は、アマルフィ、ピサ、ヴェネツィア、ジェノバなどイタリアの海事都市が独占していた。これらの都市は、1096年から始まった十字軍をシリア沿岸に運ぶ仕事を行いって大いに繁栄した。

 十字軍が下火になると、まずアマルフィが、シチリア王国やピサの侵略を受けて没落した。続いてピサ(Pisa)は、1284年のメロリアの海戦(Meloria島)でジェノバに敗れ、コルシカ、サルディニア島を失い衰退した。そして1378〜80年のキオッジアの海戦(Chioggia)で、ヴェネツィアがジェノバを破り、ビザンツ、シリア、エジプトなどとの東地中海貿易を独占した。

 ジェノバとの海戦で捕虜になったヴェネツィア人マルコ・ポーロはジェノバの牢獄で東方見聞録を執筆した。そこで紹介された黄金の国ジパングが大航海時代のきっかけになった。

 東地中海から締め出されたジェノバは、西へ向かった。以前からジェノバは、ジブラルタル海峡を越えて北西アフリカやフランドル地方(オランダ、ベルギー)と交易していた。フランドル行きの船団はポルトガル沿岸を北上したため、リスボンなどのポルトガルの港には多くのイタリア人が住むようになった。ポルトガル商人はイタリア人から航海術や造船術を学び、海洋国として発展していった。

【マルコ・ポーロ】1271年に父と叔父に連れられて中国に向い、3年半後にに到着した。彼らはフビライに気に入られて元の官吏となり、17年間も中国で暮らした。1294年に船で中国を離れ、シンガポール、セイロンを経由してヴェネツィアに戻った。帰国後、ジェノヴァとの海戦で捕虜になり、獄中で囚人達に旅の話をし、これが東方見聞録になった。

ポルトガル

 1415年、ポルトガルのジョアン1世は、ジブラルタル対岸のモロッコの町セウタを占領し、海外進出の拠点とした。その息子エンリケ(航海王子)は西アフリカへの航海を行い、シエラレオネまでの航路を開拓した。アフリカ西海岸の探険が進むと、黄金、象牙、奴隷の貿易が盛んとなった。

 次のジョアン2世の時代は、インド航路の発見が目標となった。1488年バーソロミュー・ディアス(BartolomeuDias)が喜望峰に到達した。その10年後の1498年、ヴァスコ・ダ・ガマ (Vasco da Gama)は喜望峰を越えてインド洋を横断し、インド西岸のカリカット(Calicut:綿織物キャラコの語源。現在のコジコーデ)にたどり着いた。

 カリカットはアラビアとの交易で非常に栄えた町で、ガマは、その領主ザモリンに面会した。ザモリンは、ガマが差し出したみすぼらしい貢物を見て相手にしなかった。また、現地人やアラビア商人からも馬鹿にされ、わずかな香料を手に逃げ出すようにリスボンに戻った。


ゴアに残るポルトガルの要塞

 屈辱を味わったポルトガルは、強力な武装船団を派遣することにした。1500年、ペドロ・アルバレス・カブラル(Cabral)は13隻の船を率いてリスボンを出帆した。しかし、船団は西に流されブラジル北東部に漂着、この日からブラジルはポルトガルの植民地になった。11日後、東に向けて航海を再開し、7隻がカリカットに到達し、大量の香料を仕入れてリスボンに戻った。

 その後ポルトガルは、1510年にインドのゴアを、翌年にはマレーシアのマラッカを占領してアジア貿易の拠点とした。この2つの土地はアジアでの最初の植民地になった。1548年には中国のマカオに居留権を獲得し、中国や日本との貿易を行った。

 ポルトガルによるゴアの植民地支配はインド独立後の1961年まで続いた。

コロンブス
(Christopher Columbus)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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バルセロナ万博(1888年)の時に建てられたコロンブスの塔

コロンブスに大きな影響を与えたフィレンツェの天文学者トスカネリは、地球球体説を唱え、インドへは大西洋を西航した方が近道と考えた。トスカネリが作成した地図には、ジパングは今のメキシコの辺りとされていた。

 ジェノバ人のクリストファー・コロンブスは、大西洋を西に進めばマルコポーロが記した黄金の国ジパングにたどり着けるのではないかと考えた。彼はこの案をポルトガル王に話し援助を申し入れたが、アフリカ航路開拓中の王は興味を示さなかった。そこでスペインに移り住み、イサベル女王に大西洋横断計画を持ちかけた。

 1492年、イベリア半島最後のイスラム拠点グラナダを落した女王は、コロンブスに航海の許可を与えた。彼はサンタ・マリア号他2隻に90人の乗組員を乗せて、ポルトガルとの国境の町パロスを出帆した。見送り人もほとんどいない寂しい船出だった。2ヵ月後にバハマ諸島のサン・サルバドル島(聖なる救世主という意味)に到達、近くのエスパニョラ島に金山があることを知り、ここが目的地ジパングと確信した。その後、キューバ、ハイチを探険し、エスパニョラ島に39名の部下を残して帰帆した。

 スペインに戻ったコロンブスは、バルセロナでイサベル女王とその夫フェルナンドの歓迎を受け、発見地の総督に任命された。ただちに2回目の遠征隊が組織され、千数百人を乗せた17隻の大船団が出帆した。この航海は明らかに植民目的で、多くの農民や坑夫がエスパニョラ島に上陸した。しかし、島に残した39名の部下は皆殺しになっていた。それでも一攫千金を夢見るスペイン人は貪欲で、現地人を奴隷にして金山開発を行った。原住民との紛争が絶えず、多くの住民が重労働や弾圧のため死亡していった。島は無秩序状態となり、コロンブスは植民地再建のため本国に戻った。

 1498年、6隻の船で3回目の航海に出発、ベネズエラを探検してから、エスパニョラ島に到着した。しかし、植民地の混乱は更にひどくなっていた。島の人口はスペイン人がもたらした天然痘によって激減していた。王室は事態収拾のため査察官を派遣した。コロンブスは鎖につながれて本国に送還され、全ての地位が剥奪された。

 それでもコロンブスは4回目の航海を企画した。王からの援助は小型のボロ舟4隻だけだった。1502年に出航、パナマ周辺を6か月さまよい、最後は難破して救助されスペインに戻った。帰国後は病気になり、1506年に西インド諸島をインドの一部と信じたままこの世を去った。

トルデシリャス条約
(Tratado de Tordesillas)

 コロンブスの新大陸発見後、スペインは教皇アレクサンデル6世に働きかけ、教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、子午線の東に発見される非キリスト教の土地はポルトガルに、西はスペインに与えると定めた。

 これにポルトガルが抗議し協議の結果教皇子午線を西に800マイルずらして世界を2分することで合意、1494年にスペインのトルデシリャスでトルデシリャス条約が締結された。カブラルが漂着したブラジルは、この線より東にあったのでポルトガル領となった。

 1497年、イギリスのヘンリー7世の支援を受けたフィレンツェ人カボット(Cabot)は北アメリカを発見、フィレンツェ人アメリゴ・ヴェスプッチは、ポルトガル王の命により新大陸へ航海し、コロンブスが発見した大陸はアジアとは別の新大陸であると報告した。新大陸はその名にちなんで、アメリカと呼ばれるようになり、コロンブスの名はコロンビアという国名に残った。 また、スペイン人のバルボア(Balboa)は、1513年パナマを横断して太平洋を発見した。ちなみにパナマの通貨は彼の名前をとってバルボアである

 トルデシリャス条約ではアジアの境界線が決まっていなかった。1529年のサラゴサ条約で、モルッカ諸島付近(香料諸島:ボルネオ島の東)を境界線とした。また、アジア経営に苦しんでいたスペインは、モルッカ諸島の権利をポルトガルに売り飛ばした。

マゼランの世界一周


リスボンのテージョ川河口にある海洋発見記念碑



マゼランが航海に使ったヴィクトリア号

 ポルトガル人マゼラン(Magellan)は、若い頃にゴアやマラッカの征服に参加し東洋通だった。彼は西回り航路でマラッカに至る計画をポルトガル王に提示したが拒絶された。そこで、スペインに行き、スペイン王カルロス1世の援助を得ることができた。

 1519年8月、5隻の船に265人を乗せてセビリアを出航、同年12月にリオデジャネイロに到達、そこから一気に南下しパタゴニア南部に着いた。そこで5ヶ月越冬、その間に乗組員の反乱や船を1隻失う事件が起こった。パタゴニアからさらに南下し、ついにマゼラン海峡を発見した(1520年10月)。

 海峡通過に1ヶ月かかり、3隻に減った船団は太平洋に出た。それまでの荒れた海と違ったこの静かな海を太平洋(Pacific Ocean)と命名した。

 以後100日を越す航海は悲惨なものだった。一度も陸地を発見せず、水と食料は底をつき、ねずみを食べ、ひもの皮をかじってしのいだ。壊血病にも苦しめられ、行き絶え絶えになった頃、ようやくグァム島に着いた。久し振りに新鮮な食料と水を補給し、更に西に進んで1521年3月、フィリピンに到達した。フィリピンの島々を探検中にセブ島に上陸するが、現地人との戦闘に敗れマゼランは戦死した。フィリピンという名は当時スペインの皇太子だったフェリペ2世の名に因んでいる。

 残った部下115人は、2隻の船でセブ島を脱出、モルッカ諸島を経由し、喜望峰を回る苦難な航海の末、1522年9月にスペインに帰国した。帰ってきたのはぼろぼろの1隻の船と18人の乗組員だけだった。こうして最初の世界周航が成し遂げられ、地球が球形であると実証された。

マヤ・アステカの崩壊
マヤの神殿(チチェン・イッツァ メキシコ)

 スペイン人は原住民を奴隷として酷使したため、人口は激減した。そのため新たな奴隷を確保する必要があり、現地人の集落を捜し求めていた。1517年、キューバのエルナンデス・デ・コルドバは西に航海してメキシコのユカタン半島に到達、そこでマヤ人とマヤ文明を発見した。

 この発見にキューバのスペイン人は湧き立ち、1519年、エルナン・コルテスは、兵500人、砲14門、16頭の馬を11隻の船に乗せて出航し、ユカタン半島に上陸した。早速、マヤ人の攻撃を受けるがこれを蹴散らし、更に西に進んでアステカ帝国の首都テノチティトランに入城した。コルテスは皇帝モクテスマを捕らえて監禁し、国内からおびただしい金を集めさせた。その後、アステカ人の一斉蜂起により退却するが、反アステカの現地部族を結集して反撃、8ヶ月にわたる凄惨な戦いの末にアステカ帝国を滅ぼした。

 テノチティトランは廃墟となり、その跡地にメキシコ市(メヒコ)が築かれ、ヌエバ・エスパニャ(新スペイン)王国の中心地になった。

インカ帝国征服

 アステカ帝国征服の知らせは、大陸内部の幻の黄金帝国発見競争に火をつけた。パナマを横断したバルボアの部下フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)は、パナマから太平洋を南下するルートで探検に乗り出した。

 1回目はコロンビア北部まで、2回目はエクアドルを越えてペルー北部に到達した。この探検で原住民の集落や太陽神殿を発見し、黄金帝国の存在を確信した。


ピサロ像(リマ)

 1531年1月、180人と37騎が3隻の船でパナマを出港した。エクアドル北部のアダカメスに上陸、そこから陸路を南下し、トゥンベスに着いた。2ヶ月の滞在後トゥンベスを出発、ついに人の手で作られた道路を発見する。更にカハマルカという町にインカ皇帝アタワルパ(Atahualpa)が住んでいる情報を得る。

 カハマルカに乗り込んだピサロは、広場で数千のインカ兵に護衛された皇帝アタワルパに謁見した。従軍司祭バルベルデが皇帝の前に進み出て、キリストの教えを説き、聖書を手渡した。皇帝は聖書をちょっと開いてポンと投げ捨てた。これが合図となり一斉に攻撃が開始された。またたく間に数千のインカ兵が鋼鉄の剣でなぎ倒され、アタワルパは捕虜となった。1000万人以上の人口を持つインカ帝国は一瞬のうちに崩壊した。


インカ帝国の遺跡マチュピチュ(ペルー)

 幽閉されたアタワルパは、スペイン人が黄金に異常な関心を示すのを見て、部屋の壁に線を引き、この高さまで黄金を集めるから釈放して欲しいと申し出た。ピサロは承諾した。全国からの金銀は部屋を満たし、約束通りアタワルパは釈放された。しかし、すぐに治安維持の名目で再逮捕され、絞首刑にされた。

 1533年、ピサロは首都クスコを占領し、破壊と略奪のかぎりをつくした。1535年、クスコを弟のエルナンドに任せ、リマを建設した。インカ皇帝の子孫達はアンデス山中に退いて抵抗したが、1572年に最後の皇帝トゥパック・アマル(Tupaq Amaru)が捕らえられて処刑された。

【インディアス事業】新大陸(インディアス)での事業はインディアス事業と呼ばれ、「先住民に福音を伝え、インディアスをキリスト教国に育成する」という大義があった。しかし、現実はインディアスから搾取した大量の富をスペインに送り込む事業だった。

まとめ
ポルトガル
スペイン
1415
 
1488
 
1492
 
1494
1498
 
1500
 
1510
 
1513
 
1521
 
1522
 
1532
 
1543
種子島に漂着
 
1549
キリスト教伝来(フランシスコザビエル:スペイン人)
1550
 
1588
 
無敵艦隊敗れる
1804
 ハイチ独立。その後、ラテンアメリカの独立開始

 レコンキスタを達成したスペインとポルトガルは、国王による中央集権化が進み、イスラム勢力を追い出した勢いで海に乗り出していった。新大陸では、少ない人数で広大な領土を驚異的なスピードで獲得した。金銀や香辛料がもたらす莫大な利益は、王室の財政をうるおした。

 さらに カトリック教会が、航海ブームに拍車をかけた。教会は新領土の民衆に布教するため、イエズス会やフランシスコ会の会員を派遣した。押し付けがましくキリスト教を布教する宣教師が、多くの残忍な侵略者を呼び込んだ。彼らが持ち込んだ疫病と過酷な労働によって人口が激減すると、今度はアフリカから奴隷を送り込んだ。

 大航海時代には画期的な地理上の発見が相次いだが、発見の後には征服が続いた。ヨーロッパ繁栄の始まりは、アジア、アフリカ、南アメリカの暗黒時代の到来だった。ヨーロッパによる植民地経営やアメリカの黒人問題は、現在に至るまで大きなしこりを残している。ポルトガルは中継貿易が中心だったが、スペインは領土的な野心が強く、徹底的に原住民を痛めつける植民活動を行った。

 大航海時代を先駆けたポルトガルとスペインは、スペインから独立したオランダエリザベス女王イギリスが割り込んでくると急速に衰退した。そして、ナポレオン戦争がラテンアメリカの独立運動を呼び起こし、19世紀になると相次いで独立していった。

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【参考資料】
南米ポトシ銀山 青木康征 中公新書