インカ帝国
アンデス文明
ナスカの地上絵(ハチドリ)

 1万2千年前、アジアのモンゴロイド(モンゴル人)は、マンモスやトナカイを追って凍ったベーリング海峡を渡った。彼らはそれから長い時間をかけてアメリカ大陸全域に定住していった。

 BC3000年頃、リマ北方に大神殿を持つカラル文化が栄えた。BC1800年頃から土器の使用が始まり、チャビン文化が発達した。1世紀には、北部のモチェ川流域にモチェ文化が、ナスカ市付近にナスカ文化が興った。地上絵で有名なナスカ文化は、800年頃まで栄えた。アヤクーチョ付近にはワリ文化が発達し、多くの建造物が作られた。

【ナスカの地上絵】 1939年にアメリカの考古学者ポール・コソックにより発見された。地上絵の解明作業は、ドイツの数学者マリア・ライヘ(Maria Reiche)に引き継がれた。彼女はナスカに住み着いて地上絵の解明と保護に生涯を捧げた。

インカ帝国
第9代皇帝パチャクテク(クスコのアルマス広場)

 1200年頃、ケチュア族(インカ族)のマンコ・カパックが、ペルー南部のクスコにクスコ王国を建国した。この王国はインカ帝国の前身で、クスコ周辺から海岸部へと勢力を拡大していった。

 1438年に即位した第9代皇帝パチャクテクは、周辺諸国を次々に征服し、エクアドルからチリにおよぶ広大なインカ帝国(Inca)を作り上げた。インカ帝国はケチュア語を公用語とし、太陽を崇拝した。皇帝は太陽の化身として専制的な権力をふるい、数多くの神殿や要塞、道路を建設した。

 特に道路はエクアドルからペルー、チリ中部まで帝国を縦断していた。谷には吊り橋がかかり、石畳の道や階段が整備された。この道路は帝国の発展に大きく貢献したが、スペイン人の侵略の手助けにもなった。沿道にはチャスキと呼ばれる飛脚が配備され、クスコまで走って情報を伝えた。伝達は口頭によるものだったが、キープと呼ばれる結縄も使われた。

 急峻な地形のため人力あるいはリャマ、アルパカに載せて物資を輸送するしかなく、車輪は発明されなかった。

ピサロ
ピサロ像(リマ)

 スペイン人フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)は1502年に新大陸にやってきた。当時のスペインは新大陸ブームに沸き、多くの野心家が黄金卿(エルドラド)を求めて海を渡った。バルボアもその一人だった。彼は「南に黄金の国がある」との噂を信じ、探検隊を組織した。この隊にピサロも参加した。1513年、彼らはパナマ地峡を探検中に太平洋を発見した。バルボアは一躍有名になったが、原住民に対する残虐行為の罪で処刑された。この年にパナマ市が建設され、中南米に対する本格的な探検が開始された。

 1524年、ピサロはアルマグロと聖職者ルーケを仲間にし、南の黄金の国を探す探検に出発した。しかし、航海は困難をきわめ、また原住民の攻撃も激しく、パナマからわずか300Km南下したところで挫折した。2年後、ピサロは2回目の探検に出かけた。航海は順調に進み、ついにエクアドルの海岸でいくつかの集落を見つけた。更に南下するとトゥンベスという大きな町に着いた。そこには神殿があり、数知れぬ財宝が眠っていた。

 ついに黄金の国の存在をつかんだピサロはパナマに引き返し、資金集めとペルー征服の許可を得るためスペインに戻った。スペイン王カルロス1世は新たな領土発見に関心を示し、ペルー征服と副王(総督)就任の許可を与えた。

南へ

 

 

 

 

 

 

 

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 1531年、ピサロは180人の兵と馬37頭を連れて3回目の探検に出発した。船は一気に南下してエクアドル北部のアタカメスに上陸、そこから11ヶ月かけて陸路を南下しトゥンベスに着いた。そこはすでに廃墟となっていたが、インカ帝国に関する詳しい情報をつかんだ。

 インカ帝国は6年前に皇帝ワイナカパックが病死し、クスコのワスカルが第12代皇帝となった。しかし、北部の町キトを支配する弟のアタワルパ(Atahualpa)が反乱を起こし内戦が始まった。アタワルパは戦いに勝ち、ワスカルを捕虜にした。そして、8万の兵を率いてクスコに向かう途中にカハマルカに立ち寄った。

 カハマルカに皇帝がいることを知ったピサロはトゥンベスを発った。険しい山中にもかかわらず、すばらしい道路が作られていた。道に沿って水路が走り、1日の行程ごとに宿舎が用意されていた。カハマルカまで来ると、山の斜面にインカ陣営の白いテントが見えた。おびただしい数である。スペイン人たちは、インカ兵のあまりの多さに震え上がり動転した。しかし、前に進むしかなかった。

 アタワルパはスペイン人の動きをつかんでいた。そして、200人足らずのスペイン軍を完全に見くびっていた。何度か両軍の使者が接触し、アタワルパとピサロが会見することになった。

インカ帝国滅亡

歴代のインカ皇帝を描いた絵画(ラファエル・ラルコ・エレラ博物館 リマ)
アタワルパの次には15代皇帝としてスペイン王カルロス1世が描かれている

 ピサロは20人の歩兵とともにカハマルカの広場にやってきた。残りの兵は3隊に分けて広場の周囲に潜ませた。アタワルパは数千のインカ兵に守られ、輿の上で待っていた。従軍司祭バルベルデが皇帝の前に進み出て、キリストの教えを説き聖書を手渡した。皇帝は聖書をちょっと開いてポンと投げ捨てた。これが合図となった。いきなり砲がとどろき、ラッパが鳴り、驚愕するインカ兵を騎兵が蹴散らした。またたく間に多くのインカ兵が鋼鉄の剣でなぎ倒された。ピサロは皇帝の輿に突進し、アタワルパを生け捕りにした。

 インカ兵は鉄器や鉄砲を知らなかった。また疾駆する馬で突進する騎兵を怪物と思い逃げ回った。何世紀もイスラム教徒と戦ってきたスペイン兵は強く、インカ兵は一方的に殺戮された。こうしてインカ帝国は一瞬のうちに滅んだ。

 幽閉されたアタワルパは、スペイン人が金に異常な関心を示すことを知った。彼は部屋一杯の金銀を身代金として差し出したが許されず、処刑された。処刑の前日、彼はキリスト教に改宗させられた。改宗すれば火刑から絞首刑に減刑されると聞いたからである。洗礼名はフランシスコ・アタワルパだった。

クスコ入城
太陽の神殿跡に建てられたサンドミンゴ教会(クスコ)

 ピサロはアタワルパの弟トゥパック・ワルパ(Tupac Huallpa)を傀儡皇帝に即けた。インカでは、人を動かすには皇帝の命令が必要だったからである。1533年、ピサロは皇帝を先頭に立ててクスコに向けて出発した。スペイン軍は800人に増援されていた。途中のハウハにスペイン人の町を建設し、ペルーの最初の首都とした。

 ハウハを出るとアタワルパの部下だったキト派インカの抵抗が強まった。ピサロは多大な犠牲をはらいながら前進し、ついにクスコに入城した。カハマルカに乗り込んでから1年が過ぎていた。

 クスコの町はあまりにも美しく、大きくて立派だった。スペイン人たちはその姿に驚いたが、すぐに掠奪を開始した。大量の金が集められ、それらはハウハに運ばれて金の延べ棒に変わった。黄金で輝く太陽の神殿(コリカンチャ:コリは黄金、カンチャは部屋)は壊され、その石組みの上にサンドミンゴ教会が建てられた。

クスコ包囲戦
サクサイワマン城砦(クスコ)

 傀儡皇帝トパック・ワルパは、ハウハに滞在中にスペイン人が持ち込んだ天然痘で急死した。僅か数ヶ月の在位だった。ピサロは内戦で敗れたクスコ派インカのマンコ・インカ・ユパンキを皇帝に就けた。彼はキト派インカを憎み、ピサロと手を組んで抵抗を続けるキト派インカを制圧していった。

 キト派インカの抵抗が弱まった1535年、ピサロは新しい首都リマを建設し、そこに移り住んだ。ピサロの盟友アルマグロは、チチカカ湖を越えてチリの探検に出発した。ヨーロッパ人として最初にチリに足を踏み入れ、コピアポ付近まで南下した。クスコの支配はピサロの弟たちに任された。

 マンコはピサロの弟たちに冷遇された。また、スペイン兵がインカ人を虐待する様子が毎日のように報告された。彼は反乱を決意、クスコを脱出して10万の兵を集めた。1536年、反乱軍はサクサイワマン城砦(Saksaq Waman)を拠点にクスコを包囲した。包囲戦は10カ月に及んだがクスコは落ちなかった。やがてスペイン軍の反撃が始まり、反乱軍はウルバンバ川沿いのオリャンタイタンボに後退した。

最後の抵抗

 

 

 

 

 

 

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オリャンタイタンボの近くを流れるウルバンバ川

 アルマグロは2年におよぶチリの探検から戻ってきた。何の成果もない命からがらの帰還だった。無一文になった彼はクスコの富を要求し、突然クスコを占領した。征服者たちの醜い争いが始まった。1年におよぶ内戦はピサロが制圧し、辛苦をともにしてきたアルマグロを処刑した。

 インカ反乱軍はウルバンバ川支流の更に山深いビルカバンバに追い込まれた。それでもスペイン人への抵抗は続き、ゲリラ部隊はリマとクスコ間の交通路を頻繁に襲った。

 ピサロは何度も兵を派遣した。また、交通路の安全確保のためにアヤチョーク市を建設した。インカの抵抗が徐々に弱まってきた頃、ピサロはアルマグロの息子によって暗殺された(1541年)。インカを征服し、ばく大な富を手に入れた男のあっけない最後だった。

 インカの抵抗は、1572年に最後の皇帝トゥパク・アマルが捕らえられるまで続いた。彼がクスコの処刑台に引きずり出されると、群集は悲しみの叫び声をあげた。彼は毅然としてさっと右手を上げた。群集は一瞬にして静まり返り、彼の最後の言葉に耳を傾けた。彼は斬首されインカ帝国は完全に消滅した。

マチュピチュ
 マチュピチュ

 ビルカバンバの更に山奥にマチュピチュがある。インカ帝国の滅亡から400年後、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムは、標高2,057mの尾根に広がるマチュピチュを発見した。この遺跡がビルカバンバと考えられていたが、マチュピチュは第9代皇帝パチャクテクが造った王族や貴族のための避暑地といわれている。

 ちなみに発見者ハイラム・ビンガムは、映画インディ・ジョーンズの主人公のモデルとなった。

 マチュ・ピチュとはケチュア語で老いた峰という意味で太陽の神殿がある。遺跡の向こうの高い山がワイナ・ピチュ(若い峰)で月の神殿がある。

スペインの支配
アルマス広場(クスコ)
左:カテドラル(大聖堂)、右:ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会

 スペインは植民地支配のためエンコミエンダ制(Encomienda)という制度を採用した。これはスペイン王室がスペイン人入植者に土地と住民(インディオ)を与え、その代わりに彼らを保護しキリスト教徒に改宗させるという制度である。この制度は、インディオを酷使しても構わないと解釈され、インディオはポトシ銀山など多くの鉱山で過酷な労働を強いられた。更にヨーロッパから持ち込まれた天然痘や多くの疫病が追い討ちをかけ人口は激減した。すると今度はアフリカから奴隷を運んできて労働力不足を補った。

 スペイン王は植民地を支配するため、王の代理人である副王を派遣した。中南米にはヌエバ・エスパーニャペルーの2人の副王がいた。ヌエバ・エスパーニャはメキシコシティを首都とし、メキシコ、中米、北米、カリブ海、フィリッピンを統治した。ペルー副王はリマを首都としてブラジルを除く南米全域を支配した。

 スペインの中南米支配は19世紀のラテンアメリカ独立運動が起こるまで続いた。

アンデス文明の特徴
縄の結び目で情報を記録したキープ
(ラファエル・ラルコ・エレラ博物館 リマ)
 世界の文明は大河沿いに発展し、米や麦などの穀物を主食とした。これに対してアンデス文明は山間部や高原地帯で発展し、ジャガイモやサツマイモを主食としていた。 穀物はトウモロコシを栽培したが、主食ではなくチチャという酒の原料に使った。貨幣はなく、物々交換によって経済活動が行われていた。文字や鉄器、車輪を知らなかったため、スペイン人に簡単に滅ぼされてしまった。
1.
文字を持たなかった 文字の代わりに縄の結び目の形や数で数字を記録するキープが使われた。
2.
鉄器を知らなかった 鉄器だけでなく青銅器もほとんど利用されず、新石器文明に近かった。しかし、金や銀の鋳造は発達していた。
3.
車輪を知らなかった 戦車や荷車は作られず、ラクダ科のリャマを荷運び用に使った。その他の家畜では、アルパカが毛を利用するために、テンジクネズミ(クイ)が食用として飼育された。しかし、乳の利用はなかった。
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【参考資料】
ラテンアメリカ 大井邦明、加茂雄三 朝日新聞社
アステカとインカ 黄金帝国の滅亡 増田義郎 小学館