マヤ、アステカ
オルメカ文明、サポテカ文明


巨石人頭像(ハラパ(Xalapa)人類学博物館 メキシコ)

 中央アメリカでは、BC1300年頃から高度な古代文明がおこった。この古代文明が繁栄した地域をメソアメリカ(MesoAmerica)といい、最初の文明がオルメカ文明(Olmeca)である。この文明は、メキシコ湾岸のベラクルス州に起こったアメリカ大陸最古の文明で、高さ2m 重さ10トンもある巨石人頭像(Colossal Head)を多く残した。巨石人頭像は、アフリカの黒人の風貌に非常に似ており、オルメカ人はアフリカから渡って来たのではという説もあるが、どこからか来たのかは謎のままである。
 オルメカ文明は1000年以上の長きに渡っても栄え、マヤ文明に大きな影響を与えたが、紀元前後にジャングルの中に消えていった。

 BC500年頃になると、メキシコ南部のオアハカ盆地に神殿都市モンテ・アルバン(Monte Alban)が建設された。建設した民族はサポテカ人で、モンテ・アルバンを中心に栄えた文明をサポテカ文明という。サポテカ文明では、メソアメリカで最古の文字(サポテカ文字)や、260日暦が使われた。 モンテ・アルバンはAD800年頃から急速に衰退し放棄された。

テオティワカン (Teotihuacan)
月のピラミッドから見たテオティワカン

 BC200年頃には大ピラミッドがあるクィクィルコ(Cuicuilco)や巨大な宗教都市テオティワカン(Teotihuacan)が建設された。クィクィルコは紀元前後に火山の噴火で壊滅し、テオティワカンがメソアメリカの支配者となった。テオティワカンは4世紀頃が最盛期で、都市の面積は約20Ku、10〜20万人が生活していた。しかし、650年頃に異民族に侵略され町は放棄された。

 時は流れて12世紀頃、北から南下してきたメシカ人(アステカ人)は廃墟となったテオティワカンを発見した。彼らはこの町のあまりの大きさに驚き、「神々の都市:テオティワカン」と命名して崇拝した。
 右の写真は、メキシコシティのソカロ広場で発見された太陽の石(アステカ・カレンダー)で、マヤ文明が非常に正確なマヤ暦を使っていたことを示している(1年=365.2420日で、我々の暦と0.002日しか誤差がない)。


メキシコ国立人類学博物館
マヤ文明
チチェン・イッツァ

 BC300年頃からメキシコのユカタン半島から太平洋岸にかけてマヤ文明が栄え、各地に町が建設された。今でも残っている有名な町が、メキシコのパレンケウシュマルチチェン・イッツァ(ChichenItza)、ベリーズのラマナイ、グアテマラのティカル(Tikal)などである。マヤ文明は8世紀ころが絶頂期で、特にチチェン・イッツァは広大な地域を支配した。9世紀頃からマヤの都市国家は食糧不足や疫病、戦争などにより次々と衰退し、マヤ人は都市を捨ててユカタン半島に移動していった。

 マヤ人は統一国家を樹立することなく、各地に点在する都市国家で生活していた。そのため、16世紀にスペイン人が侵入してくると、簡単に征服されていった。それでもスペイン人がマヤ全域を支配するには長い時間がかかり、最後まで抵抗していたタヤサル(グアテマラ)が陥落したのは1697年のことだった。

 マヤ文明は、ピラミッド型の神殿を築き、正確な暦を使っていた。数学が発達し、20進法を使ったり、ゼロの概念を発明したといわれている。マヤ文明の記録はスペイン人の征服により消滅した。

アステカ帝国
スペイン人が船から発見したトゥルムのマヤ遺跡

 メキシコ高原のテスココ湖にやってきたメシカ人は、蛇をくわえた鷲がサボテンにとまっている姿を見た。彼らはこれを神のお告げと信じ、湖の中に人工の島を造り、そこにテノチティトランという都市を築いた。1325年のことである。蛇をくわえた鷲の伝説は、メキシコ国旗の中央に描かれている。

 メシカ人は次第に力をつけ、15世紀前半にアステカ帝国(Azteca)を建国、周辺の都市を次々に征服していった。1502年に即位したモクテスマ2世は南の太平洋沿岸まで版図を広げた。武力による強引な征服は周辺諸国の反感を買い、スペインの来襲時には多くの国が離反して敵に回った。

 マヤやアステカではペルーのアンデス文明と同様に、鉄や車輪を知らず、スペイン人に簡単に征服された。また、人間の新鮮な心臓を捧げれば太陽は消滅しないという信仰があり、日常的に人身御供が行われた。ことばはナワトル語を話し、文字種が4万もあるマヤ文字を使用した。アボガドやトマトはナワトル語が語源である。

スペイン人のメキシコ遠征

 1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見すると、レコンキスタを終えたスペインでは新大陸ブームが起こり、多くのスペイン人が新大陸にやってきた。金のあるところにスペイン人が現れ、スペイン人が来ると現地の社会は破壊された。

 カリブ海の島では、エンコミエンダ制による過酷な労働と、スペイン人が持ってきた天然痘などの病気によって人口が激減していた。エスパニョーラ島では100万の人口が1万に減り、カリブ海の多くの島から人が消えていった。

 1517年、労働力不足を補うため奴隷狩りに出かけた船が嵐にあい、偶然ユカタン半島に流れ着いた。そこで、カリブ海の島に住む人とは異なる人種のマヤ人に出会い、多くの金製品を手に入れた。スペイン人たちはさらに西へ進み、カンペチェ(Campeche)付近で神殿群を発見した。やがて、マヤ人との戦いが始まり、スペイン人たちは追い払われた。

 翌年、2回目の探検隊がキューバを出帆し、トゥルム付近でマヤの神殿を発見した。さらに西に進んでベラクルス付近でマヤ人とは異なる住民と接触し、多くの金を手に入れた。この探検隊の報告にキューバのスペイン人たちは狂喜した。

エルナン・コルテス(Hernan Cortes)

 

 

 

 

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スペインの旧1000ペセタ紙幣に刷られたエルナン・コルテス


裏面はインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ

 キューバ総督ベラスケスは本格的な探検隊を組織した。この探検隊のリーダーに34歳のエルナン・コルテスが任命された。彼はベラスケスの部下としてキューバ征服に参加しその働き振りが認められていた。彼は武術に優れ人望があったが、上司の言いなりになるタイプではなかった。彼は強引に準備を進め、しばしばベラスケスと対立した。

 1518年11月、準備が完了した6隻の船隊はサンチアゴを出帆した。船隊は途中の港で兵員や馬、食料を勝手に調達しながら西へ進んだ。コルテスに探検隊を任せたベラスケスは後悔し、出発延期の命令を出した。コルテスはこの命令を無視した。1519年2月、600人の乗組員と馬16頭、大砲14門を載せた12隻の船隊はキューバを離れユカタン半島に向った。

 タバスコに上陸したコルテスは、早速マヤ人の攻撃を受けた。しかし、大砲や騎兵の威力で10倍の敵を一蹴した。降伏したマヤの首長たちは金や宝石を贈り、更に20人の乙女を差し出した。その中にコルテスの妻になった17歳のマリンチェがいた。彼女は非常に聡明な女性で、通訳としてコルテスを支え、後に彼の子マルティンを産んだ。 →「コルテスとマリンチェ」 サン・イルデフォンソ学院(メキシコシティ)
モクテスマ2世
(Moctezuma II)


モクテスマ2世

 ベラクルス付近まで前進すると、アステカの使者が金や食料を持って表敬訪問にやってきた。コルテスも国王からの返礼として、肘掛け椅子やガラス製品を贈った。コルテスは使者の目の前で大砲を発砲し、騎兵を突進させて威嚇した。

 アステカ王モクテスマ2世は使者の報告を受けた。彼は初めて聞く恐ろしい事実に驚愕し、スペイン人を自分達の神ケツァルコアトルと思い込んだ。モクテスマができることは、スペイン人が欲しがるものを与えて早々に立ち退いてもらうことだった。

 モクテスマは更に多くの贈り物を使者に持たせた。その中には、太陽と月を表わす直径2mほどの金の輪と少し小さめの銀の輪があった。スペイン人たちは大いに喜び、国外退去するどころか、ますます黄金への欲望をつのらせた。

【ケツァルコアトル(Quetzalcoatl)】 アステカの最高神、マヤではククルカンという。ケツァルコアトルは平和を愛し、人々に人身供犠をやめさせた。しかし、悪魔の計略によってアステカから追放された。彼は必ず戻ってくると言って姿を消した。コルテスがやって来た1519年が偶然にもケツァルコアトルが戻ると言い残した年で、メシカ人たちはコルテスをケツァルコアトルの再来と思い込んだ。

ケツァルコアトル
アステカ(Azteca)を目指して
チョルーラ遺跡の上に建てられたサン・ドミンゴ教会

 コルテスはメキシコ征服の拠点としてベラクルス市を建設した。そして市議会を作り、キューバ総督ベラスケスの指揮下から離脱することを宣言した。スペインではイスラム教徒から奪った土地に町を作り、市議会を作って自治を行う伝統があった。彼はこれにならって一方的に独立を宣言し、全ての船を沈めてキューバとの関係を断ち切った。

 ベラクルスの西のセンポアランには、アステカに反感を持つトトナカ人が住んでいた。コルテスは彼らを味方につけ、更に西へ進んだ。海岸から2000m級の山に入ると気温は急激に下がり、景色は一変した。トラスカラにたどりつくと勇猛なトラスカラ族の攻撃を受けた。激しい戦闘で多くの犠牲者が出たが、大砲や銃、騎兵の威力で打ち負かした。トラスカラ族はメシカ人に強い反感を持っており、スペイン人に協力してくれることになった。コルテスは大きな味方を得た。

 どんどん近づいてくるスペイン人に怯えるモクテスマは、多くの贈り物を贈って、テノチティトランに来ないように懇願した。コルテスはこれを無視し、テノチティトランに向かって進軍を続けた。ほどなく、巨大なピラミッドがあるチョルーラの町に着いた。町では歓迎を受けた。しかし、その裏でひそかに攻撃の準備をしているとの情報が入った。コルテスは真偽を確かめずに攻撃し、3000人の住民を虐殺した。チョルーラでは多くの金を手に入れた。

テノチティトラン
(Tenochtitlan)


モクテスマを謁見するコルテスとマリンチェ

 海抜4000mの山を越えると大きな湖が現れた。テスココ湖である。その周りには多くの集落や町が見え、トウモロコシ畑が広がっていた。一行は峠を下り、湖の南端の町に着いた。その町と湖の中のテノチティトランとは提道で結ばれていた。湖には無数の舟が行きかっていた。

 1519年11月、コルテスは提道を進み、テノチティトランの入り口に着いた。モクテスマは多くの部下を従えてこれを迎え、壮大な宮殿に案内して恭順の意を示した。

 テノチティトランには20万の人が暮らしていた。当時のヨーロッパでこれだけ大きな町はなかった。町の北側には市場があり、数万人もの人が集まって交易していた。市場の脇には大神殿があった。114段の階段を上ると祭壇があって、生きた人間から取り出した心臓が捧げられていた。

 モクテスマはコルテスに会うたびに多くの贈り物をした。コルテスはこれに満足せず全ての金を差し出させた。その量は1トンにのぼったという。

追討軍との戦い

 

 

 

 

 

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サン・ファン・デ・ウルア要塞(ベラクルス)
(San Juan de Ulua)

 コルテスの活躍はキューバに伝わってきた。キューバ総督ベラスケスは、自分の命令を無視してメキシコに渡り、勝手に黄金を手に入れているコルテスを許せなかった。そして、ナルバエスを指揮官とする900人の討伐軍を派遣した。

 正体不明の大船団が現れたとの報告に、コルテスはすぐに動いた。部下のアルバラードと120人の兵にテノチティトランを守らせ、自身は80名の兵を連れてベラクルスに引き返した。

 ナルバエス軍は大部隊だったが寄せ集めの軍隊で士気が低かった。コルテスはナルバエスの使者や捕虜に黄金を与えてかく乱する心理作戦を行った。ナルバエス軍から多くの脱走者が出始めた。ある大雨の夜、コルテスは一気に急襲しナルバエスを捕虜にした。コルテスは降伏した兵を吸収し、彼の兵力は一気に1200人に膨れあがった。

 ナルバエスは3年間獄につながれたが、その後釈放されフロリダの探検を行っている。

メシカ人の反乱
アステカの神殿跡(テンプルマヨール メキシコシティ)

 コルテス不在のテノチティトランでは盛大な雨乞いの祭りが開催された。この祭りでは神の化身とされた青年が生贄として捧げられ、人々は神と一体になるためその肉を食べた。民衆は華やかな衣装を身に着け、狂ったように歌い踊った。町中に太鼓や笛が鳴り響き、恍惚状態になった人々の喚声や絶叫があふれた。

 この異様な雰囲気にスペイン人は怯え、反乱とみなして群集に斬りかかった。広場の入り口を全てふさいで、逃げ惑う人々を無差別に虐殺した。祭りの広場は殺戮の広場に変わり、血が川のように流れた。やがて我慢の限界に達したメシカ人達の反撃が始った。スペイン人に対する怒りはすざましく、討たれても討たれても次々に襲ってきた。スペイン人たちは宮殿の中に追い詰められた。

 急報を受けたコルテスはテノチティトランへ急ぎ、籠城中のスペイン兵と合流した。コルテスの動きを静観していたメシカ人は再び激しい攻撃を開始した。彼らは塔や屋根の上から石や槍を投げつけ、矢を放った。また、スペイン軍の陣地に火を放ち、多くの兵を焼き殺した。

アステカ帝国の滅亡
最後の皇帝クアウテモック(Cuauhtemoc)
メキシコシティ レフォルマ通り

 すざましい攻撃に手を焼いたコルテスは、モクテスマに群集を説得するよう指示した。しぶしぶ壁の上に立ったモクテスマが話し始めると、群集は次々と石が投げつけてきた。もはや彼の言葉に耳を傾ける者はいなかった。重傷を負ったモクステマは静かに息を引き取った。

 万策尽きたコルテスは、テノチティトランからの脱出を決意した。敵に背を向けた部隊ほど哀れなものはない。スペイン兵は次々と討ち取られ、掠奪した金を抱えたまま湖の底に沈んでいった。コルテスは命からがらトラスカラまで逃げた。1000人以上いたスペイン兵は300人あまりに減っていた。この事件をスペイン人は悲しき夜(ノチェ・トリステ)と呼んでいる。アステカ王には25歳のクアウテモックが即位した。

 コルテスは1年かかって軍を立て直し、再びテノチティトランに向った。メシカが支配する周辺の町を一つ一つ落とし、その町の部族を味方につけていった。ほとんどの部族はメシカに強い不満を持っていた。そして、1000人を越えるスペイン兵と15万のインディオ軍がテノチティトランを包囲した。何度も降伏勧告がなされたが、覚悟を決めたクアウテモックは拒否した。総攻撃が始まった。メシカ軍は激しく反撃し、凄まじい攻防戦は3ヶ月におよんだ。


メシカ軍が最後の戦いを挑んだトラテルロコ遺跡
(メキシコシティ)

 メシカ軍はじりじりと島の北部のトラテロルコに追い詰められた。食料や水が欠乏し餓死者が出始めた。陸から迫る大軍と水上から砲撃する13隻の船隊に攻撃されて、もうどうすることもできなかった。1521年8月、クアウテモックは隠し持っていた50隻のカヌーで部下とともに脱出をはかった。しかし、すぐにスペイン軍に発見され、クアウテモックは捕えられた。

 テノチティトランは徹底的に破壊され、そこにスペイン式の都市メヒコが建設された。現在のメキシコシティである。メヒコはスペインのヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領の中心地となり、中央アメリカやカリブ海の島々を統治した。

 1523年、コルテスは待望のヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)総督に任命された。翌年にはホンジュラスに遠征し、その軍に捕虜のクアウテモックも同行させた。この遠征は困難を極め、それはクアウテモックのせいにされた。彼は反乱の罪で有罪となり、木に吊るされて処刑された。アステカは完全に滅んだ(1525年)。

 2年かかった遠征から戻ると、コルテスは総督の座を追われた。もはやスペイン王室は彼を必要としなかった。彼は1547年にスペインに戻り、セビリアで死去した。63歳だった。

征服者たちのその後
メキシコ国旗の中央部
湖の岩にはえたサボテンに、蛇をくわえた鷲がとまっている

 コルテスの右腕だったペドロ・デ・アルバラードは、1524年にグアテマラに上陸、先住民の王国を征服した。翌年にはエルサルバドルに遠征した。その後太平洋の探検やペルー遠征を行うが失敗、メキシコで先住民との戦闘に巻き込まれ戦死した。

 コルテス討伐軍の指揮官だったパンフィロ・デ・ナルバエスは、捕虜生活から解放されると、一旦スペインに戻った。その後、フロリダの知事に任命され、5隻の船と700名の隊員を連れてスペインを出航した(1527年)。フロリダに着いたナルバエスは、内陸部を探検するが、黄金も財宝も見つけることができなかった。インディアンとの戦闘に疲れ、船でメキシコに戻る途中に嵐にあって難破した。生き残った80人は、はるか遠くのメキシコシティーを目指して歩き始めた。8年かかって4名がメキシコシティーにたどりついた。

 1546年にはサカテカスで銀山が発見され、ポトシ銀山とともにスペイン帝国の財政を支えた。しかし、採掘された銀は、オランダなどとの対外戦争の戦費に消えていった。

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【参考資料】
アステカとインカ 黄金帝国の滅亡 増田義郎 小学館
マヤ文明 青山和夫 岩波新書