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イギリスの歴史
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| 古代 | ![]() ストーンヘンジ(Stonehenge) |
ブリテン島(イギリス)には石器時代から人が住んでおり、BC2500年〜BC2000年頃にストーンヘンジが作られた。ストーンヘンジは、ロンドンの西のソールズベリー近郊にある環状列石(ストーンサークル)のことである。 BC700年頃、ケルト人が鉄器を携えて大陸からやって来た。彼らはいくつかの部族に分かれて暮らし始めた。 BC55年と54年に、ガリア戦争を行っていたローマのユリウス・カエサルが遠征し、ケルト部族を服従させた。ローマはケルト人のことをブリトン人と呼んだ。 |
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| ローマの支配 | ![]() ハドリアヌスの長城 |
クラウディウス これに対してケルト人部族は反乱を起こすがすぐに制圧され(ブーディカの乱)、ブリタニア南部はローマに支配された。一方、北部は絶えず蛮族の侵入に悩まされ、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの2代にわたって防衛壁を建設した。 |
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| アングロサクソン人 | ![]() ウェールズのコンウィ城 |
4世紀に入ると、西部からはアイルランド人が、東部からはサクソン人が侵略してきた。407年、ついにローマはブリタニアを放棄し大陸に引き上げた。ローマが撤退すると、残されたケルト人が小国家を作るが、デンマークや北ドイツにいたゲルマン人の一派アングロサクソン人が進入してきた。一時ブリトン人の伝説の王アーサーが押し戻すが、7世紀頃にはアングロサクソン人の7つの王国(七王国:ヘプターキー/Heptarchy)がイングランドを支配した。彼らの言葉が英語の基礎となった。 追われたブリトン人は、西部のウェールズや南西部の不毛地帯コーンウォールに移り住んだ。また、海に逃れたブリトン人は、小ブリタニア(フランスのブルターニュ地方)に移り住んだ。小ブリタニアと区別して、ブリテン島は、大ブリテン(グレートブリテン)と呼ばれるようになった。 また、スコットランドとアイルランドもゲルマン人に征服されず、ケルト系部族国家が続いた。
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![]() ルーアン大聖堂にあるロロの墓 |
9世紀になるとノルマン人の動きが活発となり、北フランスやイングランドなどヨーロッパ各地を侵略し始めた。ノルマン人はスカンディナヴィアやバルト海沿岸に住んでいた北方系ゲルマン人で、ヴァイキング(Viking)とも呼ばれる。
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1016年、デーン人のデンマーク王カヌートはイングランドを占領し、イングランド、デンマーク、ノルウェーを支配する北海帝国を築いた。彼の死後、北海帝国は分裂、サクソン人でウェセックス王家のエドワードがイングランド王に即位した。。このころ国王の戴冠式が行われるウェストミンスター寺院 (Westminster Abbey) が建設された。 1066年、エドワードが後継者を決めないまま死去すると、王妃の兄ハロルドが名乗りをあげてイングランド王に即位した。これに対して、ハロルドの弟トスティとノルマンディー公ギョーム(Guillaume)が異議を唱え、ハロルドは東から、ギョームは南から攻め込んだ。 ハロルドは、まずトスティを攻めこれを破ると、反転してギョーム軍と対峙した。ギヨーム軍はハロルド軍に苦戦を強いられたが、深追いするハロルド軍を包囲し殲滅した(ヘースティングスの戦い)。ギョームはウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠し、ノルマン王朝を開いた。イングランドはノルマン人に支配されることになり、これをノルマン・コンクエスト(Norman Conquest)という。 |
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| バイユーのタペストリー | ![]() イングランドに侵攻するギョーム(バイユーのタペストリー) |
ギョームはイングランド王となったが、一方でフランス王の臣下のノルマンディー公という微妙な立場にあった。彼の妻マティルダ(Matilda of Flanders)は、イングランドを統一したサクソン人のアルフレッド大王の血を引いていた。このため、エドワードは生前ギョームにイングランドを委ねる約束をしていたといわれている。 マティルダはノルマン・コンクエストの物語を、約70mのタペストリーに編み込んだ。このタペストリーはノルマンディー地方の都市バイユーにあるバイユー大聖堂に長く保管されていた。現在ではフランス国宝としてバイユー大聖堂内のバイユータペストリー美術館に保管されている。 このタペストリーには、ハロルドがイングランド王に即位した頃に、不吉な「火の星」が現れたことも描かれている。王とその配下たちを怯えさせたこの天体は、1066年3月に現れたハレー彗星であったことが18世紀に判明した。 |
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| アンジュー帝国 |
ノルマン朝第3代ヘンリー1世(ウィリアム1世の4男)の後継に、娘マティルダ(Matilda the Empress)が指名された。彼女は神聖ローマ帝国ハインリヒ5世と結婚して皇后(Empress)になったが、夫の死後イングランドに戻り、フランスのアンジュー伯と再婚した。 ヘンリー1世の死後、マティルダの息子のアンジュー伯アンリがイングランド王ヘンリー2世として即位し、プランタジネット朝(Plantagenet)を開いた(1154年)。プランタジネットとはマメ科の植物エニシダのことで、北フランスのアンジュー伯の紋章。 ヘンリー2世は第2回十字軍に参加したフランス王ルイ7世の元妻のアリエノール・ダキテーヌ(Alienor d'Aquitaine)と結婚し、イングランドとフランス(ノルマンディー、アキテーヌ、アンジュー、ブルターニュなど)の広大な領土を支配した。これらはアンジュー帝国と呼ばれた。 |
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![]() マグナカルタの一部が保管されているソールズベリ大聖堂 |
次に即位したヘンリー2世の息子リチャード1世(獅子心王:Lion hearted)は、第3回十字軍などの外征に明け暮れた。 留守を守ったのが弟のジョンだが、フランスのフィリップ2世と争ってフランス領の大半を失った。また、貴族や民衆に強制されてマグナ・カルタを認めたため最悪の君主といわれた。ジョンの暴政に反抗した義賊の物語がロビン・フッド(Robin Hood)の冒険である。 【マグナ・カルタ(大憲章、Magna Carta)】 |
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| ウェールズ/スコットランド侵攻 |
![]() プリンスオブウェールズの戴冠式が行われるカナーヴォン城 |
ジョンの孫エドワード1世は、1276年から4次にわたってウェールズに侵攻した。ウェールズはウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)に率いられて戦ったが敗れた。プリンス・オブ・ウェールズの称号は息子のエドワード2世に与えられ、その後はイングランドの王位継承者の称号となった。 1290年、スコットランドの王位継承争いに介入したエドワードは、スコットランドに侵攻した。この時、スコットランドの宝「スクーンの石」がイングランドに持ち去られた。この石は700年後の1996年にスコットランドに返還された(エディンバラ城に保管)。 しかし、10年後には、ウィリアム・ウォレスらがスコットランド独立戦争をおこし、1318年には再び独立を達成した。 【プリンス・オブ・ウェールズ:Prince of Wales】 現在この称号を持つのはイギリスのチャールズ皇太子である。夫人はプリンセス・オブ・ウェールズと名乗るが、妻のカミラはダイアナ妃に遠慮して名乗っていない。 |
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| 百年戦争とばら戦争 | ![]() |
1339年、フランスの王位継承をめぐって百年戦争が勃発、当初はイングランドが優勢だったが、ジャンヌダルクの活躍で劣勢になる。そして、ヘンリー6世の時、イギリス領のボルドーが陥落し敗れた。 百年戦争の敗戦によりヘンリー6世の権威は失墜し、ヨーク公リチャードがランカスター家に反旗を翻した(1455年)。ランカスター家が赤ばら、ヨーク家が白ばらを紋章としていたのでばら戦争(Wars of the Roses)と呼ばれる。 戦いを有利に進めていたヨーク公リチャードは、ウェイクフィールドの戦いで戦死してしまう。しかし、嫡男エドワードが味方を集めて反撃し、1461年にヘンリー6世を退位させてエドワード4世として即位、ヨーク朝を始めた。 ヨーク朝政権は裏切りやランカスター家の反撃があり不安定だった。エドワード4世の死後、息子のエドワード5世は、ロンドン塔に幽閉され、叔父がリチャード3世として即位した。このため国内は再び混乱し、各地に戦乱が起こった。 |
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| チューダー朝 | ![]() ヘンリー7世 |
1485年、フランスに亡命していたランカスター家のヘンリー・テューダー(Tudor)が、イングランドに上陸し、ボズワースの戦いでリチャード3世を破り、30年におよぶばら戦争は終結した。この戦争の様子はシェイクスピアの戯曲「リチャード3世の悲劇」に描かれている。 チューダーはエドワード5世の姉エリザベスと結婚してヨーク家と和解、ヘンリー7世としてチューダー朝を開いた。チューダー朝は5代目エリザベス1世(1558年〜1603年)の時に最盛期を迎える。 |
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【参考資料】
図説 イギリスの歴史 指 昭博 河出書房新社 |