イギリスの歴史
古代
ストーンヘンジ(Stonehenge)

 ブリテン島(イギリス)には石器時代から人が住んでおり、BC2500年〜BC2000年頃にストーンヘンジが作られた。ストーンヘンジは、ロンドンの西のソールズベリー近郊にある環状列石(ストーンサークル)のことである。

 BC700年頃、ケルト人が鉄器を携えて大陸からやって来た。彼らはいくつかの部族に分かれて暮らし始めた。

 BC55年と54年に、ガリア戦争を行っていたローマのユリウス・カエサルが遠征し、ケルト部族を服従させた。ローマはケルト人のことをブリトン人と呼んだ。

ローマの支配
ハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)

 AD43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスは本格的にブリタニアに進出した。ローマ軍は、ブリトン人の拠点カムロドゥヌム(コルチェスター)を占領し、ブリタニア(Britannia)をローマの属州とした。その後各方面に軍を派遣し、ケルト部族を平定していった。

 これに対してケルト人部族は反乱を起こすが武力で制圧され(ブーディカの乱)、ブリタニア南部はローマに支配された。一方、ブリタニア北部にはローマの支配は届かず、絶えず蛮族が侵入してきた。14代皇帝ハドリアヌスは122年から10年にわたってイギリスを横断する118kmの長城を作った。次の第15代皇帝アントニヌスは142年から144年にかけて、更に北方にアントニヌスの長城を建設した。

 ハドリアヌスの長城はローマの撤退後もイングランドとスコットランドの国境として長く使われた。

アングロサクソン人
ウェールズのコンウィ城

 4世紀に入ると、西部からはアイルランド人が、東部からはサクソン人が侵略してきた。407年、ついにローマはブリタニアを放棄し大陸に引き上げた。ローマが撤退すると、残されたケルト人が小国家を作るが、デンマークや北ドイツにいたゲルマン人の一派アングロサクソン人の進入が相次いだ。一時ブリトン人の伝説の王アーサーが侵略者を押し戻すが、7世紀頃にはアングロサクソン人の7つの王国(七王国:ヘプターキー/Heptarchy)がイングランドを支配した。彼らの言葉が英語の基礎となった。

 追われたブリトン人は、西部のウェールズや南西部の不毛地帯コーンウォールに移り住んだ。また、海に逃れたブリトン人は、小ブリタニア(フランスのブルターニュ地方)に移り住んだ。ブリテン島は、小ブリタニアと区別して大ブリテン(グレートブリテン)と呼ばれるようになった。

 また、スコットランドとアイルランドもゲルマン人には征服されず、ケルト系部族国家が続いた。

ノルマン人(Normanean)


ルーアン大聖堂にあるロロの墓

 9世紀になるとノルマン人の動きが活発となり、北フランスやイングランドなどヨーロッパ各地を侵略し始めた。ノルマン人はスカンディナヴィアやバルト海沿岸に住んでいた北方系ゲルマン人で、ヴァイキング(Viking)とも呼ばれる。

ノルマンディー公国
911年、北フランスを侵略したノルマン人の部族長ロロ(Rollo)は、西フランク王国のシャルル3世からノルマンディー地方を与えられて建国した。ロロはキリスト教に改宗し、名をロベール(Robert)と改めた。
イングランド
(デーン朝)
1016年、デンマーク王カヌート(クヌート)がイングランドを征服した。
シチリア王国
ノルマンディー公国のロベール・ギスカールが南イタリアを征服する。
ノヴゴロド公国
862年、リューリク(Rurik)はロシアに侵入し、ノヴゴロド公国を建国、882年には彼の親族オレグキエフ大公国を建国した。

ノルマン王朝

 

 

 

 

 

 

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ウィリアム1世が築城を命じたドーヴァー城

 1016年、デーン人のデンマーク王カヌートはイングランドを占領し、イングランド、デンマーク、ノルウェーを支配する北海帝国を築いた。彼の死後、北海帝国は分裂、サクソン人でウェセックス王家のエドワードがイングランド王となった。。このころ国王の戴冠式が行われるウェストミンスター寺院 (Westminster Abbey) が作られた。

 1066年、エドワードが後継者を決めないまま死去すると、王妃の兄ハロルドがイングランド王に即位した。これに対して、ハロルドの弟トスティが反発し、フランスのノルマンディー公ギョーム(Guillaume)も異議を唱えた。ギョームはエドワードのいとこの子供で、エドワードから王位継承を約束されたといわれている。ハロルドは東から攻め、ギョームはイングランド南部のヘースティングズに上陸した。

 ハロルドは反撃し、まずトスティを攻めてこれを破ると、反転してギョームと対峙した。ギヨームはハロルドに苦戦を強いられたが、深追いしてきたハロルドを包囲し殲滅した(ヘースティングスの戦い)。彼はウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠しノルマン王朝を開いた。イングランドはノルマン人に支配されることになり、これをノルマン・コンクエスト(Norman Conquest)という。

バイユーのタペストリー
イングランドに侵攻するギョーム(バイユーのタペストリー)

 ギョームはイングランド王となったが、一方でフランス王の臣下であるノルマンディー公という微妙な立場にあった。彼は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して子飼いの功臣に与え、強大な王権を樹立した。ノルマン人は徐々にアングロ・サクソン人に同化し、文化も融合していった。

 ギョームの妻マティルダ(Matilda of Flanders)は、イングランドを統一したサクソン人のアルフレッド大王の血を引いていた。彼女はノルマン・コンクエストの物語を、約70mのタペストリーに編み込んだ。このタペストリーはノルマンディー地方の都市バイユーにあるバイユー大聖堂に長く保管されていた。現在ではフランス国宝としてバイユー大聖堂内のバイユータペストリー美術館に保管されている。

 このタペストリーには、ハロルドがイングランド王に即位した頃に、不吉な「火の星」が現れたことも描かれている。王とその配下たちを怯えさせたこの天体は、1066年3月に現れたハレー彗星であったことが18世紀に判明した。

アンジュー帝国

ヘンリー2世が息を引き取ったシノン城(フランス)
映画「冬のライオン」の舞台となったお城

 ノルマン朝第3代ヘンリー1世(ウィリアム1世の4男)の頃にイングランドの王権は強化され、国内は安定した。その後継に、ヘンリー1世の娘マティルダ(Matilda the Empress)が指名された。彼女は神聖ローマ帝国ハインリヒ5世と結婚していたが、夫の死後子供がいなかったためイングランドに戻り、フランスのアンジュー伯と再婚した。

 マティルダの息子のアンジュー伯アンリがイングランド王ヘンリー2世として即位し、プランタジネット朝(Plantagenet)を開いた(1154年)。プランタジネットとはマメ科の植物エニシダのことで、北フランスのアンジュー伯の紋章。

 ヘンリー2世はフランス王ルイ7世の元妻のアリエノール・ダキテーヌ(Alienor d'Aquitaine)と結婚した。彼女はフランスにノルマンディー、アキテーヌ、アンジュー、ブルターニュなど広大な領土を持っていた。このためヘンリー2世はイングランドとフランスの大半を支配することになり、これらはアンジュー帝国と呼ばれた。二人の間には後のイングランド王リチャード1世とジョンが生まれた。

 ヘンリー2世とフランス王ルイ7世は領土をめぐって激しく争い、このことが200年後の百年戦争の遠因となった。

マグナカルタ
(大憲章)


マグナカルタの一部が保管されているソールズベリ大聖堂

 ヘンリー2世の次に息子リチャード1世(獅子心王:Lion hearted)が即位した。彼は、第3回十字軍に参加しアラブの英雄サラディンと戦った。1192年、帰路に着いたリチャードは、一緒に十字軍に参加したフランスのフィリップ2世やオーストリア公レオポルト5世の陰謀によりオーストリアで捕らえられた。

 翌年、莫大な身代金を払って開放されたリチャードは、一旦イングランドに戻るがその後、フランスに遠征しフィリップ2世と各地で戦った。1199年、肩に受けた矢の傷が原因で41歳の生涯を終えた。リチャードはジョンを後継者に指名した。

 王位に就いたジョンは、フランスの領土をめぐってフィリップ2世と戦った。しかし、戦いにことごとく敗れ、フランスのイングランド領の大半を失った。このため彼は欠地王(John the Lackland)あるいは失地王と呼ばれた。1208年には、カンタベリー大司教の任命をめぐってローマ教皇と対立、教皇はジョンを破門して屈服させた。外交上の失敗は国民の反発を招き、1215年にマグナ・カルタが制定された。ジョンの暴政に反抗した義賊の物語がロビン・フッド(Robin Hood)の冒険である。

【マグナ・カルタ(Magna Carta)】 ジョン王の権限を制限するイングランドの法である。王の権力を法で縛り、現代の法の支配や自由主義の原型となったものである。

ウェールズ侵攻

プリンスオブウェールズの戴冠式が行われるカナーヴォン城

 ジョンの孫エドワード1世は、さまざまな改革を行って国内を安定させた。1277年、エドワードはウェールズに4次にわたって侵攻した。ウェールズがイングランドへの忠誠を拒否したためである。戦いは一方的にイングランドが勝利を収めた。

 エドワードはウェールズ人の反感を抑えるため、身重の王妃エリナーをウェールズのカーナーヴォン城(Caernarfon)に住まわせた。そして生まれてきた王子、つまりウェールズで生まれた王子に、ウェールズの君主であるプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)の称号を与え、王子がウェールズの支配者であることを国民に納得させた。生まれてきた王子エドワード2世はエドワード1世の子供であるが、ウェールズの王であり、次のイングランド王を約束された人であった。

 こうしてイングランドの王位継承者がプリンス・オブ・ウェールズと名乗る習慣ができた。現在この称号はイギリスのチャールズ皇太子が持っている。夫人はプリンセス・オブ・ウェールズだが、妻のカミラはダイアナ妃に遠慮して名乗っていない。

スコットランド侵攻
エディンバラ城から見たエディンバラの町

 1290年、エドワード1世はスコットランドの王位継承紛争に介入し、スコットランドを侵略した。スコットランドは屈服し、スコットランド王が戴冠式の時に使う「スクーンの石」が奪われた。この石は700年後の1996年に返還され、現在はエディンバラ城に保管されている。

 イングランド支配に対して、ウィリアム・ウォレス(William Wallace)がゲリラ戦を展開するが鎮圧される。彼の生涯は映画「ブレイブハート(Braveheart):1995年アメリカ」に描かれている。

 1307年、エドワード1世が亡くなると、スコットランド王ロバート1世が立ち上がりイングランドに奪われた要衝を1つ1つ取り返していった。1320年、ロバート1世はローマ教皇によって正式にスコットランド王として承認された。1328年、エドワード3世と正式に和睦し、スコットランド独立戦争が終わった。

 イングランドとスコットランドはその後も争うが、1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王となって区切りがついた。

百年戦争とばら戦争

 1339年、フランスの王位継承をめぐって百年戦争が勃発、当初はイングランドが優勢だったが、ジャンヌダルクの活躍で劣勢になる。そして、ヘンリー6世の時、イギリス領のボルドーが陥落しフランスから駆逐された。

 百年戦争の敗戦によりヘンリー6世の権威は失墜し、ヨーク公リチャードがランカスター家に反旗を翻した(1455年)。ランカスター家が赤ばら、ヨーク家が白ばらを紋章としていたのでばら戦争(Wars of the Roses)と呼ばれる。

 戦いを有利に進めていたヨーク公リチャードは、ウェイクフィールドの戦いで戦死してしまう。しかし、嫡男エドワードが味方を集めて反撃し、1461年にヘンリー6世を退位させてエドワード4世として即位、ヨーク朝を始めた。

 ヨーク朝政権は裏切りやランカスター家の反撃があり不安定だった。エドワード4世の死後、息子のエドワード5世が継ぐが陰謀によりロンドン塔に幽閉され、王位継承権を剥奪された。そして、この事件の首謀者の叔父がリチャード3世として即位した。このため国内は再び混乱し、各地に戦乱が起こった。

チューダー朝
ヘンリー7世

 1485年、フランスに亡命していたランカスター家のヘンリー・テューダー(Tudor)が、イングランドに上陸し、ボズワースの戦いでリチャード3世を破り、30年におよぶばら戦争は終結した。この戦争の様子はシェイクスピアの戯曲「リチャード3世の悲劇」に描かれている。

 チューダーはヨーク家のエリザベス(エドワード5世の姉)と結婚してヨーク家と和解、ヘンリー7世としてチューダー朝を開いた。この結婚に伴い、ヨーク家の白ばらとランカスター家の赤ばらを融合したテューダー・ローズ(Tudor rose)の紋ができた。

 チューダー朝は5代目エリザベス1世(1558年〜1603年)の時に最盛期を迎える。

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図説 イギリスの歴史  指 昭博 河出書房新社