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ローマ帝国 (最盛期〜衰退)
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| 五賢帝 | ![]() |
ドミティアヌス帝が暗殺されると、次に元老院議員だったネルウァが皇帝に就き、人類が最も幸福だった五賢帝時代(パクス・ロマーナ:Pax Romana)が始った。この時代は経済活動が盛んで、アジアの香辛料や絹が運ばれてきた。また、ロンドン、パリ、ウィーンなど多くの都市が建設された。 続くトラヤヌス帝は、拡大政策をとり、ダキア(ルーマニア)、メソポタミアを占領した。次のハドリアヌス帝の時代に、ローマ帝国は最盛期を迎えた。132年にはエルサレムでユダヤ人の反乱(バル・コクバの乱)が発生するが、3年後にこれを鎮圧しユダヤ人を追放した。また、ブリタニアにハドリアヌス帝の長城を建設し、 ここを北辺国境と定めた。 次のアントニヌス・ピウス帝の時代も平穏だった。最後のマルクス・アウレリウス帝の頃に辺境の蛮族との戦いが激しくなった。しかし、帝国は何とか安定を保っていた。彼の息子コンモドゥスは、快楽と欲望に身をつつみ国内は荒れ、192年に親衛隊に暗殺されてしまう。 |
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![]() ハドリアヌスの長城とローマ軍駐屯地跡(イギリス) |
コンモドゥス帝後の数人の皇帝は、いずれも暗殺、敗北死という惨めな最後を遂げた。 そんな中、193年にセプティミウス・セウェルス帝(初のアフリカ出身の皇帝)が即位し、一時的に安定する。その息子カラカラ帝は、全自由民にローマ市民権を与えた。 セウェルス帝の死(235年)からディオクレティアヌス帝の即位(284年)までの50年間は、26人の皇帝が乱立する混乱の時代で、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う軍人皇帝の時代となった。 その頃には元老院の権威は失墜し、北方のゲルマン人や東方の ササン朝ペルシアの進入が激しくなる。260年、エデッサの戦いでウァレリアヌス帝はペルシア王シャープール1世の捕虜になりそこで生涯を終える事態まで発生した。 |
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分割統治 |
![]() 4人の王(サン・マルコ寺院 ヴェネツィア) 1204年にコンスタンティノポリスの宮殿から略奪されたもの |
286年、ディオクレティアヌス帝は将軍マクシミアヌスを共同皇帝に取り立て、ディオクレティアヌスは帝国東部を、マクシミアヌスは西部を統治する2分割支配を行った。 そして293年に、それぞれの正帝の補佐役として副帝を加えた。東方副帝ガレリウスと西方副帝コンスタンティウスである。2人の正帝は20年の任期で引退するとされており、2人の副帝は各正帝の後継者であった。この4分割統治をテトラルキアという。 305年、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは任期満了で退位し、副帝ガレリウスとコンスタンティウスが正帝に昇格した。あらたにマクシミヌスが東方副帝に、セウェルスが西方副帝に選任された。 |
| キリスト教公認 |
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306年、西方正帝コンスタンティウスが死ぬと権力争いが生じ、最終的にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌス(大帝)が帝国を再統一した。ここにテトラルキア体制は崩壊した。 コンスタンティヌスは、313年にキリスト教を公認し(ミラノ勅令)、330年にビザンチウムをコンスタンティノープルと改称して遷都した。 |
| 東西分裂〜西ローマ帝国滅亡 | ![]() テオドリック大王の墓(ラヴェンナ イタリア) |
コンスタンティヌス帝の改革も帝国の衰退を防げなかった。378年、アドリアノープルの戦いでローマ軍は西ゴート族に敗れ皇帝ウァレンスは戦死する。 これにより、トラキア地方はゴート族に占領された。 その後、テオドシウス帝が皇帝に就き、392年にキリスト教を国教にする。そして395年に帝国は東西に分裂、ローマとコンスタンチノープルが首都となった。 東ローマ帝国はその後1000年余り続くが、 西ローマ帝国は、ゲルマン民族の侵攻に悩まされ、次々とゲルマン諸王に侵略されていった。 402年、ホノリウス帝は西ローマ帝国の首都をローマからラヴェンナに移した。410年、ローマはアラリック率いる西ゴート族に略奪され、455年にヴァンダル王ガイセリックに侵略された。476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させ、ここに西ローマ帝国は滅亡した。 493年にオドアケルは、東ローマ皇帝ゼノンが派遣した東ゴート族のテオドリック大王に殺される。 |
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【参考資料】
ローマ人の物語 塩野七生 新潮文庫 ウィキペディア(Wikipedia) |