ローマ帝国 (最盛期〜衰退)
五賢帝時代
(パクス・ロマーナ:Pax Romana)

 ドミティアヌス帝が暗殺されると、人類が最も幸福だったといわれる五賢帝時代が始った。この時代は経済活動が盛んで、アジアの香辛料や絹が運ばれてきた。また、ロンドン、パリ、ウィーンなど多くの都市が建設された。
ネルウァ
(Nerva)
元老院に推挙され65歳という高齢で帝位についた。15ヶ月後に病没した。
トラヤヌス
(Trajanus)
ダキア(ルーマニア)やペトラを中心に栄えたナバテア王国(ヨルダン)を併合、パルティアに勝利するなど拡大政策をとった。帝国の領土は最大となった。
ハドリアヌス
(Hadrianus)
帝国の最盛期。エルサレムで起こったバル・コクバの乱を鎮圧しユダヤ人を追放した。ブリタニア(イギリス)ではハドリアヌスの長城を建設し、 ここを北辺国境とした。
アントニヌス・ピウス
(Antoninus Pius)
学問や芸術、文化を保護し、多くの劇場や神殿を建設した。ローマは相変わらず平和だった。
マルクス・アウレリウス
(Marcus Aurelius)
辺境の蛮族との戦いが激しくなったが、帝国は何とか安定を保っていた。

軍人皇帝

 

 

 

 

 

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ハドリアヌスの長城とローマ軍駐屯地跡(イギリス)

 マルクス・アウレリウスの息子コンモドゥス(Commodus)は、快楽と欲望にふけり国は荒れた。彼やその後の数人の皇帝は、暗殺や敗北死という惨めな最後を遂げた。193年にセウェルス帝が即位した。彼は東方に積極的に進出し、オスロエネ王国を滅ぼしパルティアの首都クテシフォンを占領した。その息子カラカラ帝(Caracalla)は、カラカラ浴場を建設したり、全ての属州民にローマ市民権を与えた(アントニヌス勅令)。しかし彼はローマ史上に残る暴君の一人で、パルティア遠征中に部下に殺害された

 その後の50年間は、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う軍人皇帝の時代といわれ、26人の皇帝が乱立した。 元老院の権威は失墜し、北方のゲルマン人や東方の ササン朝ペルシアの進入が激しくなった。260年にはエデッサの戦いウァレリアヌス帝がペルシアのシャープール1世の捕虜になり、そこで生涯を終える事態まで発生した。

分割統治


サン・マルコ寺院にある4人の王(ヴェネツィア)
1204年にコンスタンティノポリスから略奪したもの

 284年にディオクレティアヌス帝が即位した。彼は軍人皇帝時代の混乱を収拾するため皇帝に権力を集中させ(専制君主制)、キリスト教を激しく弾圧した。また、広大な帝国を円滑に統治するため、マクシミアヌスを西方正帝に取り立て、自身は東方を治める東方正帝になった。さらにそれぞれの正帝の補佐役として副帝を任命し(293年)、帝国は4人の皇帝が分割統治することになった(テトラルキア)。

 2人の正帝は任期20年で引退し、ガレリウスコンスタンティウスが正帝に昇格した(305年)。翌年、西の正帝コンスタンティウスが突然亡くなると、息子のコンスタンティヌスが自分が正帝になると宣言した。これに元の西の正帝マクシミアヌスやその息子のマクセンティウスなどが反発し内乱がはじまった。内乱は20年続いたがコンスタンティヌスが勝者となり、一人の皇帝がローマを統治する時代に戻った。

コンスタンティヌスの凱旋門

 彼は330年に首都をビザンティオン(トルコのイスタンブール)に遷し、コンスタンティノープルと改名した。この町は、1453年にオスマン帝国に攻め滅ぼされるまで、ローマ帝国、東ローマ帝国の首都として栄えた。右の写真はイスタンブールに残るローマ時代の水道橋(ヴァレンス水道橋)である。

キリスト教公認


ローマ時代の水道橋(スペインのタラゴナ)

 コンスタンティヌスは313年にミラノ勅令を発布しキリスト教や他のすべての宗教を公認した。自らもキリスト教を信仰し、ローマで初めてのキリスト教徒の皇帝となった。

 再統一されたローマは相変わらず蛮族の侵入に悩まされていた。378年、ローマ領内に侵入してきた西ゴート族がトルコのエデルネで反乱を起こした(アドリアノープルの戦い)。ローマ軍は惨敗し、皇帝ウァレンスは戦死した。 これにより、トラキア地方(バルカン半島東部)はゴート族に占領された。ウァレンスの次のテオドシウス帝ニカイア宗教会議で正統と認められたアタナシウス派のキリスト教をローマの国教にした(392年)。この勅令によってキリスト教以外の宗教は禁止され、女神ウェスタに仕えて聖なる火を守る女祭司制度やゼウスに捧げる古代オリンピックが廃止された。

西ローマ帝国滅亡
テオドリック大王の墓(イタリアのラヴェンナ)

 395年にテオドシウスが亡くなると長男が東を、次男が西を統治し東西に分裂した。西ローマ帝国はゲルマン民族の侵略に悩まされ、首都をローマからミラノ、そしてラヴェンナに遷した(402年)。皇帝がいなくなったローマはアラリック率いる西ゴート族に蹂躙され(410年)、455年にはヴァンダル王国ガイセリックに掠奪された。

 西ローマ帝国は内乱によって衰え、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにとどめを刺された。476年、彼は最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させ、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝に返上した(西ローマ帝国滅亡)。東ローマ皇帝はオドアケルにイタリアの統治を任せたが、その後対立し東ゴート族のテオドリック大王に討伐させた(493年)。テオドリックはイタリア王を名乗ることが許され、東ゴート王国が誕生した。

 東ローマ帝国はその後も栄え、15世紀にオスマン帝国に滅ぼされるまで1000年余り存続した。

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【参考資料】
ローマ人の物語  塩野七生 新潮文庫