混乱の時代 |
ローマはカルタゴを滅ぼしギリシアやシリアに大きく勢力を拡げた。しかし、内外に多くの問題を抱え混乱の時代を迎えた。
|
|
||||||||||||
![]() ポントス王国 |
|
|||||||||||||
ポンペイウス (Pompeius) |
![]() 古代ローマ遺跡フォロ・ロマーノ |
BC78年にスッラが亡くなるとポンペイウスが権力を握った。彼はスペインに遠征し、セルトリウス率いる反乱軍を4年かかって平定した。この戦役中に彼の名にちなんで作られたバスク地方の町が、牛追い祭り(サンフェルミン祭り)で有名なパンプローナ(Pamplona)である。 スペインから帰還したポンペイウスは、直ちにスパルタクスの乱の残党を掃討し、BC70年にクラッススとともに執政官に就任した。ポンペウスの活躍は続き、BC67年には地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐、翌年には小アジアに遠征してポントス王国を滅ぼした。BC64年にはシリアに進軍してセレコウス朝シリアを滅ぼし、続いてユダヤへ軍を進めてエルサレムを陥落させた。この一連の遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からカフカス、シリア・パレスティナまで広がった。 ポンペイウスの権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、元老院がこれに反発し彼から軍事権を取り上げた。この時、ポンペイウスに手をさしのべたのが41歳のカエサルだった。ポンペイウスはカエサルの娘ユリアを新しい妻として迎えた。 |
||||||||||||
ユリウス・カエサル(Gaius
Julius Caesar) 英語読み:ジュリアス・シーザー |
【カエサル】 ローマ皇帝の称号になる。ドイツ語のカイザーやロシア語のツァーリなど皇帝を示す言葉になった。 |
シリア方面を担当したクラッススは、パルティアに遠征するがカルラエの戦いで息子とともに戦死した(BC53年)。クラッススの死により三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まった。 ポンペイウスは元老院と手を結び、カエサルの軍事権を剥奪してガリアからの帰還命令を出した(BC48年)。 一人で帰れば命が危ない。軍団を連れて帰れば反逆者となる。悩んだカエサルは決断した。「さあ進もう。神々と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」と叫び、軍団を率いてルビコン川を渡った。ローマには軍を連れて行けなかったが、彼は反逆者となってローマへ進軍した。不意をつかれたポンペイウスはギリシアに逃れた。ローマを制圧したカエサルはポンペイウスを追撃し、 ギリシアのファルサルスの戦い(Pharsalus)で破った(BC48年)。 ポンペイウスはエジプトに逃げた。 |
||||||||||||
|
![]() クレオパトラの死(フィラデルフィア美術館) |
カエサルは終身独裁官に就き、元老院を無視して独裁政治を始めた。元老院は反発し暗殺の謀議を始めた。 BC44年3月15日、いつもより遅れて元老院に現れたカエサルを待ち受けていたブルートゥスが刺した。 彼は「ブルートゥス、お前もか・・・」と叫び絶命した。55歳だった。ブルートゥスはカエサルの愛人の息子(元の夫の子供)だった。 カエサルの死後、部下のアントニウスとレピドゥスが権力を握ったが、カエサルの遺言状によりオクタウィアヌス(Octavianus)が後継者になった。 |
||||||||||||
アウグストゥス Augustus |
![]() アウグストゥス像:サラゴサ(スペイン) |
オクタウィアヌスはBC63年にローマで生まれた。父は元老院議員で彼が4歳の時に死亡、母はカエサルの姪のアティアだった。カエサルが暗殺された時、彼はまだ18歳だった。国外にいた彼は急いでローマに戻り、アントニウス、レピドゥスと第2回三頭政治を始めた。彼らはカエサルの仇のブルトゥスやカッシウスを追い、ギリシアのフィリッピの戦いで討ち果たした。そして、それぞれの支配地域をオクタウィアヌスは帝国の西半分、アントニウスは東半分、レピドゥスは北アフリカと決めた。 やがてオクタヴィアヌスとアントニウスの対立が始まった。オクタウィアヌスは関係を修復するため姉のオクタウィア(Octavia)とアントニウスを結婚させた。しかし、アントニウスは、タルソス(トルコ)で知り合ったクレオパトラに夢中になりエジプトで暮らし始めた。ローマ市民はエジプトに魂を奪われたアントニウスを非難した。アントニウスは名誉挽回にとパルティアに遠征するが惨敗、やがてオクタウィアとも離婚した。オクタウィアヌスは、アントニウス討伐を決断した。 もう一人のレピドゥスはオクタウィアヌスと対立して失脚した。 |
||||||||||||
アクティウムの海戦 | ![]() アクティウムの海戦が行われた海 (ギリシアのプレヴェザの要塞にて) |
BC31年、アクティウム沖で両軍合わせて500隻以上の艦船による決戦が行われた。当初はアントニウス艦隊が有利だったが、やがて形勢は逆転しクレオパトラ艦隊が戦線を離れた。アントニウスは彼女の後を追い、指揮官不在となったアントニウス艦隊は総崩れとなった(アクティウムの海戦)。 アントニウスとクレオパトラはエジプトにたどり着いた。オクタヴィアヌスは二人を追撃し、アントニウスは自害した。数日後クレオパトラも自害し、二人は同じ墓に葬られた。カエサルとの間に産まれたカエサリオンも殺され、プトレマイオス朝は滅んだ。
|
||||||||||||
五賢帝時代へ | ![]() ティトゥスの凱旋門 (ローマ) |
アウグストゥスの次に即位したティベリウス帝は皇帝権を磐石なものとした。彼の時代にエルサレムでキリストの処刑が行われた。続いてカリグラ、クラウディウス、ネロが皇帝についた。クラウディウスはブーディカの乱などのケルト人の反乱を抑えて、本格的にイギリスに侵攻した。第5代皇帝ネロは政治・芸術面では優れていたが、近親者やキリスト教徒を迫害したため暴君といわれている。 ネロは元老院によって自殺に追い込まれ、アウグストゥスの血筋は途絶えた。その後、血縁関係のない皇帝が乱立し国内は乱れたが、69年に60才のヴェスパシアヌスが皇帝に就いて帝国は再び発展した。彼は息子のティトゥスをエルサレムに派遣してユダヤ人の反乱を鎮圧した。これを記念してティトゥスの凱旋門が建てられた。 ヴェスパシアヌスの次に名君ティトゥス(Titus)が即位した。しかし、ローマの大火やヴェスヴィオス火山の噴火(ポンペイの遺跡)、疫病の流行などの災害が続いた。彼は被災した人々の救援を惜しまなかった。続いてティトゥスの弟ドミティアヌスが即位したが残虐な政治を行ったため、元老院に暗殺された。その後、ローマ帝国は、最盛期の五賢帝時代を迎える。 |
||||||||||||
年表に戻る | 【参考資料】 ローマ人の物語 塩野七生 新潮文庫 |