パルティア
イラン国家

 南ロシアにいたイラン人はイラン高原に移動し、BC715年ころメディア王国を建国した。メディア王国はアッシリアの滅亡後、強国となるが、BC550年頃ペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア)に滅ぼされる。

 ペルシア帝国はアレクサンドロスの遠征で滅亡する。彼の死後、アレクサンドロス帝国は分裂しイランにはセレウコス朝が興った。セレウコス朝は、エジプトを除くアケメネス朝ペルシアの領域を継承した。しかし、この広大な領域を支配しつづけることはできず、ギリシア人国家のバクトリアやペルシア人国家のパルティアが次々と独立した。

 セレウコス朝は、ローマとパルティアに圧迫され最終的にはシリア周辺を支配するだけの小国に転落した。BC64年、ローマのポンペイウスによって滅ばされた。


パルティアン・ショット(Parthian Shot):
馬上から後ろ向きに矢を射る射法。英語で捨てぜりふの意味

パルティア建国
Parthia

 セレウコス朝の力はBC250年頃から衰え、まずアフガニスタン北部のバクトリアが独立した。同じ頃、カスピ海東南に住んでいたイラン系遊牧民がパルティア(中国名:安息 あんそく)を建国した。アルケサス朝パルティアともいう(アルケサスは初代の王の名で、その後は王の称号)。

 パルティアはセレウコス朝をシリアへと圧迫しながら領土を広げた。BC171年にミトラダテス1世(Mithradates)が即位するとパルティアは飛躍的な拡大を遂げた。東方ではバクトリアを平定してインドに入り、西方ではセレウコス朝の中心であるバビロニアへ領土を拡大していった。

 この頃、首都をバグダッド南東のクテシフォンに移す。


ネムルート山(トルコ)

ローマとの戦い

 BC64年、セレウコス朝がローマに滅ぼされると、パルティアはローマと国境を接した。8次にわたる戦いが繰り広げられたが、パルティアは騎兵の機動力によりローマ軍を翻弄した。BC53年、クラッスス率いるローマ軍が侵攻し、カルラエの戦い(Carrhae:現トルコのハランHarran)が起こった。この戦争でクラッスス親子は戦死し、パルティアが勝利を収めた(第1次パルティア戦争)。

 その後、アウグストゥスやネロの時代にローマと休戦協定が結ばれたが、シリアやアルメニアを巡る両者の争いは続いた。113年、ローマのトラヤヌス帝がパルティアに侵攻し、アルメニア、メソポタミアを奪った。しかし、トライアヌス帝が死ぬとローマはメソポタミアを放棄、ユーフラテス川を両者の国境とした。

 217年にはカラカラ帝が侵攻してきたが撃退し、多額の賠償金を支払わせた。カラカラ帝はカルラエ付近の陣中で暗殺される。


カルラエの戦いが行われたハランの荒野
滅亡

 ローマとの戦いで疲弊したパルティアでは、国内に反乱が多発するようになった。220年、国内の混乱に乗じて有力者アルデシール1世が反乱を起こし、226年にパルティアを滅ぼした。

 アルダシール1世は、クテシフォンを首都としてササン朝ペルシアを建国した。


ハトラ遺跡(イラク:BC1世紀頃建設されたパルティア人の都市)
http://www.ne.jp/asahi/hikyo/yamaya/iraq3.html
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【参考資料】