| フン族 (Hun) |
![]() コンスタンティノープルの城壁(イスタンブール) |
南ロシアの草原地帯からアルタイ山脈を越えてモンゴル高原に入り、中国に至るのが草原の道である。その道を通って東西に活躍したのが騎馬民族で、その始まりはBC6世紀のスキタイ族だった。彼等は機動力と武力で各地を侵略した。 BC4世紀には、匈奴、烏孫、月氏が栄え、中でも匈奴が最強だった。秦の始皇帝は万里の長城を築いて侵入を防ぎ、蒙恬(もうてん)率いる討伐軍を派遣たため匈奴は衰退した。BC2世紀に冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于:君主のこと)が匈奴の王になると勢いを盛り返し、漢の劉邦(高祖)の軍を打ち破った(白登山の戦い)。 漢の武帝は匈奴を圧迫して北に退け、追われた匈奴は西に移動し始めた。その移動は400年かけてゆっくりと行われ、4世紀中頃に黒海北岸にたどり着いた。そして匈奴はフン(Hun)という名で歴史に登場した。匈奴は「フンヌ」とも読め、匈奴とフン族は同じといわれている。 フン族は、あぶみを発明した。あぶみは槍を構えて突進でき、戦闘力を飛躍的に高めた。また、非常に強力な複合弓を持ち、あぶみに立って、前後左右に矢を放つことができた。 |
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| ゴート族 (Gothe) |
![]() ゴート族 |
BC1世紀頃、ゴート族はスカンディナビア半島からバルト海を渡り、ポーランドのグダンスク付近に定住した。1世紀半ばに、再び旅に出てキエフ付近に住み着き、その後西ゴート族と東ゴート族に分かれた。 ゴート族は、しばしばローマ領内に侵入して略奪を働き、ローマ軍と激しく争った。 370年頃、突然フン族が東から来襲し、東ゴート族を黒海沿岸からロマ帝国国境のドナウ川河畔に追いだした。そこには西ゴート族が住んでおり、西ゴート族はたまらず西の東ローマ領内に侵入した。 ローマはトラキア地方に西ゴート族の移住を認めた。しかし、ゴート族はギリシア北部で略奪を始め、皇帝ウァレンス自ら鎮圧に向かった。しかし、ローマ軍は大敗しウァレンスは戦死した(アドリアノープルの戦い、378年)。 |
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アッティラ
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![]() アッティラと会見するレオ1世(バチカン宮殿) |
フン族は433年にアッティラが王となり、最盛期を迎えた。東ローマ帝国は、国内に侵入してくるフン族に貢物をして懐柔した。
アッティラは、新たな略奪の対象をイタリアに求めた。教皇レオ1世は、アッチラと会見し、莫大な貢納金を渡して撤退させた。453年、アッティラが死亡すると服従していた東ゴート族が蜂起し、フン帝国は崩壊した。 |
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| ゲルマン民族の大移動 |
375年、フン族に追われた西ゴート族が移動すると、西ゴート族に追われた部族が移動し、玉突きのようなゲルマン民族の大移動が起こった。これらの部族はローマ領内に侵入し各地に王国を建設した。 ゲルマン民族移動後のエルベ川以東やバルカン半島には、スラブ民族が勢力を拡大していった。
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【参考資料】
東ゴート興亡史 松谷健二 中央文庫 ヴァンダル興亡史 松谷健二 中央文庫 |