フランク王国
メロヴィング朝
(Merowinger)

 ゲルマン民族の一派フランク族は、ローマ帝国が弱体化すると徐々にガリア(フランス)で勢力を拡大していった。481年、フランク族のクローヴィス(Clovis)は部族を統一し、ガリア北部にフランク王国を建国した。クローヴィスの祖父はメロヴィクスで、その名前からこの王朝はメロヴィング朝と呼ばれる。

 西ローマ帝国滅亡後もガリアはローマの司令官シャグリウス(Syagrius)が支配していた。クローヴィスはシャグリウスに戦いを挑み、ソワソンの戦いで打ち破った(486年)。さらにガリアで最大の勢力だった西ゴート族をヴイエの戦いで破りトゥールーズを占領した。フランク王国は南ガリアまで勢力を拡大し、西ゴート族はスペインに追い出された。

 496年、クローヴィスは王妃クロティルダ(Clotilda)の勧めでランス大司教サン・レミから洗礼を受け、キリスト教に改宗した。これ以後、歴代のフランス王はランスで戴冠式を行うようになった。他のゲルマン諸族は異端のアリウス派を信仰していたが、フランク族は正統のアタナシウス派だったため、ローマ系住民やカトリック教会と良好な関係を保つことができた。



クローヴィスの洗礼
(ランスのサン・レミ・バジリカ聖堂)

宮宰

 クローヴィスの死後、王国は4人の子によって分割された。その後、統一と分裂を繰り返しながら6世紀後半には、アウストラシアネウストリアブルグンドの3つの王国に分立した。650年にカロリング家のピピン1世(大ピピン、Pippin)がアウストラシアの宮宰になった。宮宰とは王家の執事のような役割だったが、次第に行政や裁判を行うようになり権力を強めていった。

 その子のピピン2世(中ピピン)が宮宰になると、彼はアウストラシアの事実上の統治者となり、カロリング家が宮宰を世襲するようになった。さらに687年のテルトリーの戦いでネウストリアを破り、アウストラシア、ネウストリア、ブルグントの3王国の宮宰となり、全フランク族を統治した。ピピン2世の次にフランク王国を支配したのは庶子のカール・マルテル(Charles Martel)である。

 711年、アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム軍西ゴート王国を滅ぼし、さらにピレネー山脈を越えて南フランスに進出した。720年にナルボンヌを占領、ここを基地としてアキテーヌに進軍した。アキテーヌを支配していたウード(Eudes)は、トゥールーズの戦いでイスラム軍を破ったが、ボルドーを掠奪され敵対していたカール・マルテルに援軍を求めた。


フランク王国

トゥール・ポワティエ間の戦い

 

 

 

 

 

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 イスラム軍はボルドーを攻略後、ポワティエのイレーヌ教会を略奪し、トゥールに進軍してきた。カール・マルテルはこれを迎え撃ち、7日にわたる激戦の末に撃退した。これがトゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラムのヨーロッパ侵攻を食い止めた(732年)。
聖イレーヌ教会(ポアチエ)
聖マルチン聖堂(トゥール)



トゥール・ポワティエ間の戦い
カロリング朝

 戦いに敗れたとはいえイスラム軍は依然として南フランスを占領していた。カール・マルテルがプロヴアンス地方からイスラム教徒を追い払ったのは738年になってからで、息子のピピン3世がナルポンヌを奪回したのは759年だった。これ以降イスラム勢力はイベリア半島に封じ込められた。

 カール・マルテルの死後、息子のピピン3世(小ピピン)が宮宰になり、メロヴィング朝の最後の皇帝を廃して王位につき、カロリング朝(Karolinger)を開いた(751年)。ローマ教皇ザカリアスはこのクーデターを承認した。

 北イタリアではゲルマン人のランゴバルド王国がラヴェンナを攻撃しローマに迫ってきた。ピピン3世はローマ教皇の救援要請を受けてイタリアに出兵し、ランゴバルド王国を討伐した。そしてラヴェンナとその周辺をローマ教皇に寄進した。これはピピンの寄進と呼ばれ、教皇領の起源となった。


ナルボンヌの大聖堂(フランス)
ローマ皇帝の戴冠

 ピピンの子カール大帝(シャルル・マーニュ)が王位につくと積極的に外征を行い領土を広げた。まず、イタリアのランゴバルド王国を、続いてザクセンやアジア系のアヴァール王国(Avars) を征服し西ヨーロッパを統一した。また、イスラムの再侵入に備え、ヒスパニア辺境領を設置した。この辺境領はその後アラゴン・カタルーニャ連合王国となり、イベリア半島東部から南イタリアを領有する地中海国家として発展した。さらに後ウマイア朝が支配するスペインのサラゴサを攻撃したが、その帰路にピレネー山中でバスク人の攻撃による大損害を受けた。この事件を題材とした物語がローランの歌である。

 カールは国を多くの州に分け、各州に(はく)をおいて統治させた。また、首都アーヘンに人材を集めて教育や文化を奨励した(宮廷学校)。この学校は各地の修道院に広がり、ラテン語の教育が盛んに行われた。ラテン語は小文字表記(カロリング小文字体)ができるようになり、本は巻物からコデックス(冊子)に、紙はパピルスから羊皮紙に変わっていった。

 フランク王国はビザンツ王国にならぶ強国となり、800年12月25日、カール大帝は教皇レオ3世によりローマ皇帝の戴冠を受けた(カールの戴冠)。これは西ローマ帝国の復活であり、民族の大移動以来混乱していた西ヨーロッパに平和が訪れた。また、ローマ教会はビザンツ皇帝から独立した地位を得ることができ、やがてギリシア正教会ローマ・カトリック教会に分裂する(1054年)。


城塞都市カルカソンヌ(フランス)
フランク王国の分裂

 その後フランク王国は相続争いによって衰退し、843年のヴェルダン条約で三分割され、870年にはメルセン条約により中部フランク王国が東・西フランク王国に併合された。

 異民族の侵入は激しく、東からはマジャール人、北からはノルマン人(ヴァイキング)、南からはアラブ人(ムスリム)が王国を荒らしまくった。ノルマン人は911年に西フランク北部(ノルマンディー地方)にノルマンディー公国を建国した。異民族の侵入で辺境防衛にあたった貴族は力をつけ、王権は弱まった。

 やがて、それぞれの王国でカロリング家は断絶し、イタリア王国、ドイツ王国、フランス王国が誕生した。東フランクでは王を選挙で選ぶようになり、10世紀に王位に就いたザクセン家のオットー1世が戴冠して神聖ローマ帝国皇帝となった(962年)。西フランクでもパリ伯ユーグ・カペーが王に選出されカペー朝フランス王国が始まった(987年)。イタリアでは各地の諸侯や東フランクがローマ皇帝位と同一視されるイタリア王位を求めて争い国は乱れた。


フランク王国の分裂
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カペー朝→ 

【参考資料】