フランスの歴史2

カペー朝(Capet)
987〜
1328年

 987年、カロリング朝の最後の王ルイ5世が亡くなると、パリ伯ユーグ・カペーがフランス国王に推挙されカペー朝を開いた。フランス国王といっても権力はなく、パリ周辺だけを統治する領主にすぎなかった。フランスでは各地に広い領地を持つ諸侯たちが割拠していた。そんな中、第6代国王ルイ7世のころから王権を強化する動きが始まった。

 ルイ7世は広大な領地を持アキテーヌ公の娘アリエノール・ダキテーヌ(Alienor d'Aquitaine)と結婚した。領地は一気に拡大した。そして、1147年に第2回十字軍に参加、彼女も軍を率いて同行した。フランス軍はルーム・セルジュク朝の攻撃をかわしながら、彼女の叔父レーモンが統治するアンティオキア公国に入った。レーモンは、ルイに「エルサレムに行かず、ここでイスラムと戦って欲しい」と懇願した。ルイは要請を断り、エルサレムに向った。ほどなくレーモンはイスラム軍に敗れ戦死した。アリエノールは非常に悲しみ、ルイを恨んだ。

 十字軍から戻ると二人はすぐに離婚した。アリエノールは2ヵ月後に、ノルマンディー公でありアンジュー伯でもあるアンリと再婚した。二人の領地を合わせると、ノルマンディやアキテーヌなどフランス国土の半分を占めた。さらにアンリはイングランド王に即位しヘンリー2世となった。彼はイングランドとフランスの半分の王国を支配する王になった(アンジュー帝国)。


フランス諸侯

フィリップ2世とルイ9世

 

 

 

 

 

 

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 ルイ7世の次のフィリップ2世は、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世やイングランドのリチャード1世とともに第3回十字軍に参加した。十字軍から戻ると、イングランドが支配する大陸領土(フランス国内の領地)の奪還に着手した。当初はイングランドのリチャード1世の抵抗に苦戦したが、リチャードが戦死すると次のジョン王(失地王)から、大陸領土の大半を奪い還した。フィリップ2世はその功績により、偉大な王である尊厳王(Auguste)と呼ばれた。

 キリスト教カタリ派を撲滅するためのアルビジョア十字軍は、南フランスの町を次々と攻略していった。第9代国王ルイ9世は、最後の拠点トゥールーズを制圧し十字軍は完了した(1228年)。その結果、王権は南フランスにも拡大していった。

 ルイ9世は内政にも力を入れ、フランスは大いに繁栄した。彼は敬虔なキリスト教徒で、第7回十字軍第8回十字軍を主導した。しかし、チュニジアに遠征中に病死した。カトリック教会は彼を聖ルイ(SaintLouis)として列聖した。アメリカの都市セント・ルイスはルイ9世のことである。ルイ9世の弟がシャルル・ダンジューで、彼はシチリアに侵攻し、シチリア国王になった。


母アデルと父ルイ7世、小さい子がフィリップ2世

フィリップ4世

 フランス王権をさらに強めたのが、ルイ9世の孫のフィリップ4世である。彼はフランス国内の教会に課税しようとしたが、ローマ教皇ボニファティウス8世に反対され破門されそうになった。彼は反発し、アナーニの町にいた教皇を捕らえて監禁した(アナーニ事件)。 そして、フランス出身のクレメンス5世を次の教皇に擁立し、教皇庁をローマからアヴィニョンに移転させた。以後70年にわたり、アヴィニョンの教皇はフランス王の支配下におかれた。

 フィリップ4世は、金融業で莫大な財産を築いたテンプル騎士団に目を付けた。1307年、フランス国内の騎士団員を一斉に逮捕し、異端審問にかけて無実の罪を着せた。異端審問は、王の言いなりになったアヴィニヨンの教皇が行い、騎士団員のほとんどが異端とされた。テンプル騎士団は解散に追い込まれ、王は莫大な財産を手にした(1312年)。 現在では、この異端審問は完全な冤罪であったとし、ローマ教皇庁は裁判資料を公開した(2007年)。

 フィリップ4世以降は短命な国王が続きカペー朝は断絶した。


アルビジョア十字軍で戦われたカルカソンヌ

ヴァロワ朝(Valois)
1328〜
1589年

 

 

 

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 カペー朝の断絶後、ヴァロワ家のフィリップ6世(フィリップ4世の甥)が即位しヴァロワ朝を開いた。これに、フィリップ4世の孫のエドワード3世(イングランド王)が、フランスの王位継承権を主張して百年戦争(1337〜1453年)が始まった。当初はイギリス軍が優勢だったが、ジャンヌダルクの登場で形勢は逆転、フランスはカレー以外の領土を奪還した。フランスはこの戦争とペストの流行で人口が激減し、封建諸侯は没落した。

 百年戦争の混乱が落ち着いた1494年、シャルル8世はナポリ王の継承権を主張してイタリアに侵入しナポリを占領した。こうして、イタリアの覇権をめぐるフランス王家とハプスブルク家の戦い(イタリア戦争)が始まった。この戦争は、ローマ教皇やヴェネツィア、イングランドなど多くの国々を巻き込み、またオスマン帝国宗教改革もからんで複雑化し、65年にわたって戦われた。最終的に、戦いを主導したフランスのフランソワ1世とハプスブルグ家のカール5世(カルロス5世)が引退し、また両国の財政が破綻したため戦争は終結に向かった。カトー・カンブレジ条約が結ばれ、フランスはイタリアから撤退、イギリスはカレーをフランスに返還した(1557年)。



ジャンヌダルクがシャルル7世に謁見したシノン城

ブルボン朝(Bourbons)
1589〜
1792年

 1562年に始まったフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)は解決の糸口が見つからず泥沼化していった。1589年には国王アンリ3世がカトリック教徒に暗殺される事件まで起きた。彼には世継ぎがいなかったためヴァロワ朝は断絶し、ナバラ国王だったアンリ4世が即位してブルボン朝を開いた。彼はユグノーのリーダー的存在だったが、ユグノー戦争を収束させるためカトリックに改宗し、プロテスタントの権利を認めるナントの勅令を発布した。こうして30年以上続いたユグノー戦争は終結した(1598年)。

 彼は内戦で疲弊したフランスを立て直すために、経済の再建やパリの再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建造した。しかし、その彼も狂信的なカトリック教徒に暗殺されてしまった(1610年)。

 次にルイ13世が即位し、摂政リシュリューとともに絶対主義体制を作り上げた。またドイツで起こった30年戦争に介入し、ハプスブルク家に対抗するため新教徒側を支援した。ルイ13世やリシュリューはデュマの小説三銃士に描かれている。また、高級ブランデーにも名前が付けられた(レミーマルタン ルイ13世)。


ナントにあるブルターニュ公爵城
フランスの海外進出

 1534年、ジャック・カルティエ北米探検に出発し、ニューファンドランド島を抜けてセントローレンス湾に入り、カナダに上陸した。そして、セントローレンス川沿いの地域をヌーベルフランス(新フランス)と名付けて領有を宣言した。ユグノー戦争が終わるとフランス人の入植は盛んになり、ケベックシティやその奥のモントリオールの町が建設された。1682年にはカナダからミシシッピ川を下る探検が行われメキシコ湾に到達した。この一帯をルイ14世の名前にちなんでルイジアナと名付け植民地化した。最大の町ニューオーリンズは新オルレアンという意味。

 南米には仏領ギアナに進出した(1604年)。ギアナは現在フランスの海外県でギアナ宇宙センターが設立された。カリブ海にはスペイン領イスパニョーラ島の西側に侵入しサン・ドマング(ハイチ)を建設した(1664年)。

 アフリカにはセネガルに交易拠点を作った(1659年)。ここは19世紀にフランス領西アフリカになった。1664年にはフランス東インド会社を設立し、インドのシャンデルナゴルポンディシェリに商館を置いた。

ルイ14世
(在位1643年〜1715年)

 ルイ13世の次に4才のルイ14世が即位し、教育係のマザランが宰相になった。彼は30年戦争を継続するため重税を課した。反発した貴族たちはフロンドの乱を起こした。フロンドとは投石器のことで、パリの民衆がマザラン邸に投石したことからこの名前がついた。反乱は4年後に鎮圧され、貴族の力は弱まり王権が著しく強化された。

 1661年にマザランが亡くなるとルイ14世は親政を開始した。彼は太陽王と呼ばれ「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立した。彼はオランダ侵略戦争やスペイン継承戦争などで、ヨーロッパ各国、特にイギリスとたびたび戦争した。ヨーロッパの戦争はアメリカやインドの植民地にも飛び火した。また、ヴェルサイユ宮殿を建設し、一流の芸術家や文人を集めた。表面は華やかだった太陽王の治世も、相次ぐ戦争のため軍事費が増大し、経済は混乱した。さらにナントの勅令を廃止したため、新教徒は弾圧され新大陸に逃れていった。

 ルイ14世は72年間在位し、ひ孫のルイ15世があとを継いだ。彼もオーストリア継承戦争などの対外戦争を行い、財政はさらに圧迫した。次のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、フランス革命が勃発した。


太陽王ルイ14世(ベルサイユ宮殿)
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【参考資料】