ヴェネツィア共和国
ヴェネツィア
(Venezia)

水に囲まれているヴェネツィアの町

 ヴェネツィア(英語でヴェニス:Venice)は、アドリア海のヴェネツィア湾にできたラグーナ(潟)と呼ばれる湿地帯に作られた町である。5世紀のはじめアラリックに率いられたゴート族がローマの町々を襲撃した時、各地の住民たちはこのラグーナに逃げ込んだ。そして、ここにヴェネツィアの町が建設された(421年)。

 697年、ヴェネツィアは総督(ドージェ)を中心に政治を行う共和制に移行した。ヴェネツィア共和国東ローマ帝国の支配下にあったが、事実上独立していた。836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。10世紀後半から東地中海やスペイン、シチリアのイスラム諸国との交易が活発となり、東ローマ帝国からアドリア海沿岸の海上防衛を任されるようになった。

 十字軍の遠征が始まるとアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどのイタリアの海事都市が繁栄した。その中でもっとも繁栄したのが東ローマ帝国の支配下にあったヴェネツィアだった。

繁栄










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コンスタンティノープルから略奪した4頭の馬

 1204年の第4回十字軍は、エルサレムに向かわずビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。十字軍に協力したヴェネツィアは、コンスタンティノープルから多くの財宝を略奪し、またクレタ島、エウヴォイア島やコルフ島などのエーゲ海の海外領土を手に入れた。

 13世紀から14世紀にかけてモンゴル帝国が中央アジアを制覇すると、中国やインドへの安全な道が開けた。ヴェネツィア商人は世界中を駆けめぐり、1271年にはマルコ・ポーロが陸路への旅に出発している。

 15世紀になると東方からオスマントルコが押し寄せてきた。1453年にコンスタンティノープルが陥落、1470年にエウヴォイア島(ネグロポンテ)が奪われた。ヴェネツィアはエーゲ海やギリシアから追い出されていった。

オスマントルコとの戦い
サン・マルコ寺院

 この頃すでに大航海時代が始まっていた。1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓すると、ヴェネツィアが取り扱う香辛料は1/4にまで激減した。貿易の舞台はアドリア海から大西洋に移り、ヴェネツィアは海洋国家としての地位を失った。1538年、プレヴェザの海戦でオスマン海軍に敗北、1570年にキプロス島を失った。翌年レパントの海戦でトルコ艦隊を破ったが、1669年に地中海の最後の拠点クレタ島を奪われた。

 1683年、ヴェネツィアはオーストリアと神聖同盟を結んでオスマン帝国を攻撃、ヴェネツィア軍はギリシアに侵攻したが奪還することはできなかった(カルロヴィッツ条約)。

 1797年、敗走するオーストリア軍を追ってナポレオンがヴェネツィアに迫ってきた。ヴェネツィア議会は降伏を決議し、ヴェネツィア共和国は消滅、オーストリア領となった。その後オーストリアは普墺戦争プロイセンに敗れ、ヴェネツィアはプロイセンとともに戦ったイタリア領になった。

サン・マルコ
本を開くライオン(サン・マルコ寺院)

 ヴェネツィアの守護聖人は「マルコによる福音書」の著者聖マルコ(San Marco)である。マルコはペトロから聞いた話を福音書としてまとめ、4つの福音書のうち最古の『マルコによる福音書』を記した。マルコはエジプトのアレキサンドリアに移り住み、74年ごろ殉教したと言われている。マルコはアレクサンドリア教会の初代総主教となった。

 時代が過ぎて828年、ヴェニスの商人がアレクサンドリアでマルコの墓を見つけ、遺体をヴェネツィアのサン・マルコ寺院に持ち帰った。そして、マルコを象徴するライオンが「有翼のライオン(本を開くライオン)」としてヴェネツィアの紋章となった。