ハンガリー
ハンガリー王国
マジャールの部族長達、右がアルパード
(ブダペスト英雄広場)

 かって、ハンガリー平原はパンノニア(Pannonia)と呼ばれた。BC1世紀にローマのアウグストゥスがここをローマの属州とし、4世紀後半にはフン族が支配した(433年)。フン族はアッティラの死後に消滅し、東ローマ帝国がハンガリーを支配した。9世紀になるとウラル方面からマジャール人(Magyar)が移住してきた。896年、大首長アルパードが部族をとりまとめて統一国家を建設した。

 1000年のクリスマスに、アルパードの子孫イシュトヴァーン1世(Istvan)は、キリスト教に改宗し、ローマ教皇からハンガリー王に戴冠されハンガリー王国ができた。

 カノッサの屈辱が起きた1077年、ラースロー1世が即位しトランシルヴァニアやドナウ川下流に勢力を伸ばした。また、王家が断絶したクロアチアを征服し、アドリア海沿岸のダルマチアに進出した。

モンゴル侵攻

 ハンガリーはベーラ3世(Bela、1148〜1196年)の頃に最盛期を迎えた。東ローマ帝国と同盟を結んで国内を安定させ、ボスニアやセルビア、クロアチア、ダルマチアに進出した。

 1241年、バトゥ率いるモンゴル軍がハンガリーに侵攻し、ベーラ4世率いるヨーロッパ最強のハンガリー軍をモヒ草原の戦いで撃破した。ハンガリーはモンゴルに占領され壊滅したが、翌年モンゴル軍はオゴデイ・ハンの死により撤退、ベーラ4世はハンガリーの再建に取りかかった。まず、モンゴルの再侵攻に備えてハンガリーの各地に城塞を建設した。また、破壊されたブダに新たな宮殿を築き、今日のブダペストの繁栄の基礎を築いた。彼は『ハンガリー第2の建国者』と呼ばれている。

 14世紀から15世紀には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。

オスマン帝国の支配

 

 

 

 

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ブダの王宮から見たくさり橋(対岸がペストの町)

 15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年、モハーチ平原でハンガリー王国とスレイマン1世率いるオスマン帝国と会戦し、ハンガリー軍は完敗、国王ラヨシュ2世は戦死した(モハーチの戦い)。

 1541年にブダが陥落して、ハンガリは南部と中央部をオスマン帝国、北西部はハプスブルク家によって分割支配された。最初のハプスブルク家のハンガリー王には神聖ローマ皇帝フェルディナント1世が即位した。

 1683年のオスマン軍による第2次ウィーン包囲が失敗すると、オスマン帝国は急速に衰退していった。この包囲戦をきっかけに神聖同盟各国やロシアはオスマントルコが支配しているヨーロッパ領に侵略していった。1699年のカルロヴィッツ条約により、オスマン帝国はハンガリーから奪い取った領土のほぼ全てをハプスブルク家へ割譲した。ハプスブルク家はハンガリー全土を支配するようになった。

オーストリア・ハンガリー二重帝国
ブダペスト駅構内

 18世紀になるとオーストリア継承戦争や七年戦争が起き、神聖ローマ帝国は形骸化していき、最終的にナポレオンによって消滅させられた(1806年)。ハプスブルク家は、オーストリア帝国として中東欧に広がる領域(ハプスブルク君主国)を支配した。

 1848年、ヨーロッパ中にフランス革命の余波が吹き荒れ、民族の自治を求める動きが活発化した。多民族国家であるオーストリアとハンガリーは、国内の民族問題に協力して対処するため、オーストリア・ハンガリー二重帝国を発足させた(1867年)。

 この帝国の皇太子がサラエヴォで暗殺されると第一次世界大戦が勃発、ハンガリーは同盟国側で戦うが敗れ、帝国は解体した。敗戦国ハンガリーと連合国の間にトリアノン条約(1920年)が結ばれ、ハンガリーは固有の領土スロバキア、クロアチア、トランシルバニアを周辺の戦勝国であるチェコやセルビア、ルーマニアに割譲した。ハンガリーの国土は現在の広さに大幅縮小され、多くのハンガリー人が国外に取り残された。

ハンガリー共和国
ドナウ川のほとりに建つ国会議事堂(ブダペスト)

 この状況にハンガリーは右傾化し、第二次世界大戦では枢軸国側で戦って敗れ、国土はソ連に占領された。1949年、共産主義国家ハンガリー人民共和国ができ、ソ連の衛星国となった。しかしソ連に対する反発は根強く、1956年にはハンガリー動乱が起きた。ソ連軍はただちに介入して民衆蜂起を鎮圧、数千人の市民が殺害され、25万の人々が難民となって国外へ逃亡した。

 1980年代に入ると、冷戦終結の機運が高まり、共産党独裁の限界が明らかになった。1989年、ハンガリーは一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法を改正してハンガリー共和国となった。同年5月、ハンガリーはオーストリア国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到する汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、11月にはベルリンの壁が崩壊し冷戦は終結した。

 1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。

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【参考資料】