宗教改革
宗教改革
贖宥状の販売

 ルターの贖宥状(しょくゆうじょう)批判がきっかけとなり、堕落したキリスト教会に対する革新運動に発展し、プロテスタントがカトリック教会から分離した。ドイツでおこった宗教改革は、宗教面のみならず、政治・経済・社会に大きな影響を及ぼした。

【贖宥状】 カトリック教会が販売した罪の償いを軽減する証明書。以前は免罪符と訳されていた。キリスト教徒が犯した罪は、@犯した罪を悔いる(痛悔)、A司祭に告白する(告白)、B最後に償いをすることで許された。
 ところが、お金を払えば罪が許される制度ができてきた。発端は十字軍時代で、十字軍に参加できない者は寄進を行うことで許された。その後、教会の建設費などの費用捻出のために贖宥状が販売され、簡単に罪が許されるようになった。

 メディチ家出身の教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂建築の資金調達のため、ドイツで贖宥状を販売した。このことが宗教改革の引き金になった。

95ヶ条の論題

 

 

 

 

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ヴィッテンベルク城教会(ドイツ ヴィッテンベルク Wittenberg)

 1517年、ヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン・ルター(Martin Luther)は、贖宥状の販売を非難し、ヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を張り出した。この論題はたちまちドイツ中に広まり、カトリック教会に不満を抱く多くの国民に支持された。

 教皇庁は、教皇の権威を揺るがすとして、ルターに撤回を求めたがルターは拒否した。彼は「ドイツ貴族に与える書」、「教会のバビロン捕囚」、「キリスト者の自由」などの文書を次々に発表し、教会を批判した。

 ルターの主張は、当時グーテンベルクが開発した印刷機で活字にされ、急速に広まっていった。1521年、教皇レオ10世はルターを破門した。

ヴァルトブルク城へ


ルターがかくまわれたヴァルトブルク城(Wartburg)

 神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、ルターをヴォルムスで開催する帝国議会へ召喚した。皇帝はドイツが解体することを恐れ、ルターに教会批判の撤回を迫った。ルターは拒絶した。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」。

 ルターはローマ教会から破門され、皇帝はルターをドイツから追放し、ルターの著作物を所持することを禁止する刑にした。ルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の元に逃げ、ヴァルトブルク城にかくまわれた。ここでルターは新約聖書のドイツ語訳を行った。エラスムスのギリシア語テキストをもとにしたこの聖書は、ドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれた。

【エラスムス(Erasmus)】 ネーデルラント出身の神学者。イギリスの政治家トマス・モアやヘンリー8世などと懇意。当初、ルターに対して好意的であったが、ルターの活動が政治問題化していくと、徐々に対立するようになった。エラスムスは教会の分裂を望んでいなかった。

ドイツ農民戦争

 

 

 

 

 

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Thomas Muntzer with rainbow flag in Stolberg (シュトルベルク)

 ルターの言葉は、重税に苦しむ農民に希望を与えた。農民が領主に仕えることも聖書に書かれていない。

 ルターの同志であったミュンツァー(Muntzer)は、南ドイツの農民を率いて蜂起した。これが1524年から1525年にかけてのドイツ農民戦争である。ルターは当初、農民たちに同情的だったが、運動が過激化するとこれを批判した。

 暴動は10万人の農民が殺されて鎮圧され、ミュンツァーも処刑された。この結果、南ドイツの農民はルター派から離れ、カトリックが主流となった。

アウグスブルクの和議
聖ウルリヒ(カトリック)とアフラ教会(プロテスタント)
(St.Ulrich und St.Afra Kirche アウグスブルク)

 ドイツでは、ザクセン選帝侯などルター派諸侯がシュマルカルデン同盟を結び、皇帝を中心としたカトリック勢力と争った(シュマルカルデン戦争)。

 1546年に始まったこの戦争は、9年後の1555年にアウグスブルクで和議が結ばれて決着した。ルター派は容認された。しかし、個人は自由に信仰を選択できず、領主の選択に従うものだった。

 ルター派はデンマークやスウェーデンなどのヨーロッパ北部に普及していった。

スイスの宗教改革
聖バルテルミーの虐殺(Massacre de la Saint-Barthelemy)
ローザンヌ美術館

 フランス生まれのカルヴァン(Calvin)は、スイスのジュネーブで独自の宗教改革を行った。彼の教えは厳格な禁欲主義で、「その人が救われるかどうかはあらかじめ神が決めている」という予定説を説いた。これは「商売の成功は、神の救済のあかし」という考え方と似ていて、ネーデルラント(オランダ、ベルギー)、フランス、イギリスなどの新興商工業地域に広まった。

 フランスのカルヴァン派はユグノー(huguenot)と呼ばれ、南フランスを中心に広まっていった。1562年、カトリック派が起こしたユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)を発端に、40年にわたる8次の内戦(ユグノー戦争)が発生した。特に、1572年8月24日のバルテルミー(バルトロマイ)の祝日にパリで起こった聖バルテルミーの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)は最大のもので、カトリック教徒が新教徒4,000人を殺害した。この事件は国中に広まり、オルレアンやリヨンなど多くの町で殺戮が繰り返された。

 フランスの宗教戦争は宗教上の対立に加えて、国内の権力闘争や国外の政治状況(カトリックをスペインやローマ教皇が支援、プロテスタントをイギリスやドイツのルター派諸侯が支援)がからみ、大規模な争いとなった。

 1589年に国王アンリ3世がカソリック教徒に暗殺された。その後を継いだアンリ4世ブルボン朝を開き、自身がカトリックに改宗してカトリック教徒の支持をとりつけた。そして1598年にナントの勅令を公布し、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認めることでフランスにおける宗教戦争は終息していった。

イギリス国教会
アン・ブーリン

 イギリスでは国王ヘンリー8世の離婚問題から宗教改革がはじまった。ヘンリ8世はスペイン王妃キャサリン(Catalina)と結婚するが、王妃の侍女アン・ブーリンに魅了される。

 アンブーリンが身ごもったため、その子を世継ぎとすべく、ローマ教会にキャサリンとの離婚を申請した。しかし、カソリックでは離婚を認めておらず、またスペインとの関係悪化を懸念したローマ教皇は親政を却下した。怒ったヘンリーはローマ教会と決別し、強引にアンと結婚した。教皇はヘンリーを破門したが、彼は対抗して「イングランドの統治者が教会の首長である」という首長令(国王至上法)を発布した(1534年)。こうしてイギリス国教会が成立した。

 ユートピアの著者トマス・モアはこの改革に反対し処刑された。アンとの結婚を認めない者も次々と処刑された。

反宗教改革
ザビエル城(スペイン パンプローナ近郊)

 新教の拡大に危機感をもったローマ教会は、改革に取り組んだ。これが反宗教改革である。1545年から開催されたトリエント公会議(イタリアのトレント)では、教皇の至上権、聖職者の粛正、異端の取り締まり強化が決定された。そして、ローマ教会の影響が強いイタリアやスペインは、宗教裁判や魔女狩りが頻繁に行われるようになった。ガリレオの地動説が撤回させられたのもこの時期である。

 1534年、スペインのイグナティウス・ロヨラフランシスコ・ザビエル(Javier)はイエズス会を結成し、宣教活動を開始した。イエズス会はポルトガル王の保護のもと、ポルトガル商人が出入りするアジアに進出した。

 ザビエルが日本に来たのが1549年、その後の1582年にはキリシタン大名たちがローマ教会に遣欧使節を派遣した。使節はスペインでフェリペ2世と、ローマではグレゴリオ暦を制定した教皇グレゴリウス13世に拝謁した。

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【参考資料】
世界の歴史 17 ヨーロッパ近世の開花 長谷川輝夫他 中央公論社