中国の歴史


万里の長城

 秦の始皇帝は、今までの封建制を改め、中央から地方に役人を派遣して全国を支配する郡県制をしいた。また、今まで国によってばらばらだった文字や貨幣、度量衡を統一した。一方で焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)によって言論や思想の統制をした。さらに、匈奴の侵入を防ぐための万里の長城や、阿房宮と呼ばれる壮大な宮殿、兵馬俑を建設した。

 しかし、あまりに急速な改革に国民は反発し、BC210年に始皇帝が死ぬと、陳勝・呉広の乱などの農民反乱が相次いだ。地方都市のごろつきだった劉邦や楚の猛将項羽なども旗揚げし、BC206年に秦は混乱のうちに滅んだ。

【燕雀いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや】 ツバメやすずめのような小さな鳥に、鴻鵠のような大きな鳥の志を分かるはずがない。反乱軍の陳勝がまわりの農民に言ったことば。

項羽と劉邦

 実権を握った楚の項羽と漢の劉邦は覇権をめぐって争い、連敗続きの劉邦が最後の垓下の戦いで項羽を破り、漢を建国した(BC202年)。首都は長安。世の中は、能力に優れた項羽より、人間的な魅力にあふれた劉邦を選んだのである。

【左遷】 秦の滅亡後、項羽は諸侯に領地を分配した。劉邦には約束した関中ではなく、その西側の辺境の地が与えられた。「劉邦を左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になった。

【四面楚歌】 項羽軍は垓下の城に追いつめられた。夜になると包囲軍が歌う楚の歌が聞こえてくる。こんなに多くの楚の兵士が漢軍に逃亡したのかと項羽は絶望した。完全に敵に囲まれ孤立無援の状態を四面楚歌という。

【虞美人草】 項羽は別れの宴をひらく。項羽の愛人虞美人は足手まといになることを嫌い、自ら命を絶った。彼女が倒れた地に一輪の花が咲いた。この花が虞美人草。

 漢は一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封建制を併用した郡国制の政治を行った。その後、諸侯の権力を徐々に奪っていったため、呉王ほか7国の諸侯が起こした呉楚七国の乱が発生した。しかし、この乱はすぐに鎮圧され、中央集権化が進んだ。

 漢は、BC141年に即位した7代武帝の時に全盛期を迎える。匈奴を撃退し、西の辺境に敦煌などの諸郡をおいた。また、匈奴を挟み撃ちにするため張騫を大月氏に派遣、このことから西域の事情が明らかになった。朝鮮半島では衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡などの四郡を設置した。また、ベトナムに遠征して南海などの9郡をおいた。

 これらの遠征によって国は苦しくなり、AD8年に外戚の王莽が国を奪いを建国した。しかしAD25年に漢の復興を求める反乱が起き、漢は劉秀(光武帝)によって再興された(後漢)。首都は洛陽。

 後漢は雲南に進出、また班超によって西域経営が行われた。班超は部下の甘英ローマに派遣している。後漢も安定した政治が行われ、庶民は平和に暮らすことができた。

三国時代

 

 

 

 

 

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赤壁の戦いが行われた場所

 後漢末期の184年、黄巾の乱と呼ばれる反乱がおきた。反乱軍は黄色い布を頭に巻いていた。この乱により後漢は衰退し、三国時代に移った。

 黄巾の乱を鎮圧したのは各地の豪族だった。その中でも漢の皇帝を擁していたの曹操、諸葛孔明を軍師に迎えたの劉備、江南のの孫権の三人が皇帝を名乗り、三国時代が始まった。三国の戦いは人気小説三国志演義にまとめられ多くの読者を魅了した。漫画やゲームも作られた人気の物語である。

 263年、魏は蜀を滅ぼし、その魏は部下の司馬炎に帝位を奪われとなった。晋は280年に呉を滅ぼして中国を統一した。

【三国志】 後漢末期に政治の実権を握った董卓は、暴虐の限りを尽くした。これに反発して、後漢の武将だった曹操関羽張飛と桃園の誓いをたてた劉備、南方の孫堅が立ち上がった。当初は共通の敵董卓と戦ったが、力をつけてくるとそれぞれが国を建国し皇帝となった(魏:曹操、呉:孫権(孫堅の子)、蜀:劉備)。劉備の元には優秀な武将や軍師(諸葛孔明など)が集まり最も勢いがあった。三国は赤壁の戦い夷陵の戦い五丈原の戦いなどで激しくぶつかったが最後は晋に滅ぼされた。

五胡十六国時代から隋


大運河

 中国を統一した晋は権力闘争で衰え、傭兵だった異民族の五胡(匈奴・鮮卑など5つの民族)が各地に国を興した。この時代を五胡十六国時代という。衰えた晋は南方に追われ南京に東晋を建国した(316年)。

 439年に華北を鮮卑族の北魏が統一した。華南では4つの王朝が次々と興亡した。北と南で王朝ができたこの時代を南北朝時代という。華北を征服した隋の楊堅は、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。隋は長い戦乱の経験から国家権力の強化につとめ、均田制租庸調制などを押し進めた。また、試験によって広く人材を集める科挙の制度も始めた。

 次の皇帝煬帝は、江南と華北を結ぶ大運河を建設して交通を便利にした。また、近隣に遠征軍を派遣し積極策な政策を推し進めた。しかし、3度の高句麗遠征に失敗すると国力は低下し、農民の反乱によって滅亡した(618年)。

 煬帝の時代に日本から遣隋使が派遣された。聖徳太子は第2回遣隋使の小野妹子に「日出處天子致書日沒處天子無恙・・・(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや・・・)」という文で始まる手紙を持たせた。これを見て煬帝は「日本の王が天子を名乗った」と烈火のごとく怒ったという。


大雁塔
 玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像を保存するために建立した塔

 隋末の混乱期に登場したのが618年に唐を建国した李淵(唐の高祖、煬帝のいとこ)である。唐は隋の政治を受け継ぎ、2代目太宗(李世民)の時に貞観の治で国力を充実させ、世界的な大帝国を作った。都は長安。

 第3代皇帝高宗が亡くなるとその皇后に登りつめた武則天則天武后)が初の女帝となり、国名を周(武周)と改めた。彼女は恐怖政治を行い、中国三大悪女と呼ばれている(残り二人は漢の呂后、清の西太后)。彼女の没後、国名は再び唐に戻った。この頃、日本と百済の連合軍を白村江の戦い(663年)で破り、その5年後には高句麗を滅ぼした。

 7世紀になると唐は衰退し始めたが、712年に即位した玄宗は開元の治といわれる改革を実施した。国力は回復し西域方面にも勢力を伸ばすが、750年にタラス河畔でアッバース朝に惨敗した。中央アジアはイスラム帝国の支配下になった。

 玄宗の晩年は楊貴妃を溺愛して政治がおろそかになり、763年の安史の乱で都を追われた。安史の乱は節度使の安禄山が起こした反乱である(節度使:辺境防備のため配備された軍団の長)。

 875年には困窮した農民による黄巣の乱が発生、ついに907年、節度使の朱全忠によって唐は滅ぼされた。


趙匡胤

 唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが趙匡胤で、960年にを建国した。首都は開封。

 宋は、戦乱の世を招いた節度使の権力を弱め、文官が軍隊を統制する文治主義を採った。文官は科挙で選考し、彼らを皇帝直属の国家機関に登用することで皇帝の独裁体制を強めた。しかし、軍事力が弱い宋は、周辺民族の侵略に苦しみ多額の賠償金を強要された。特に、西夏は、中国本土に深く侵入し、宋を圧迫した。

 財政困難に陥った宋は、1070年ころに王安石による改革が行われた。その後、満州の新興国である金と組んで長年の宿敵の遼を滅ぼした。遼は中央アジアに逃れ西遼を建国した。

 しかし1127年、今度は同盟国の金に首都開封を占領され、皇帝は捕らえられた(靖康の変)。皇帝の弟高宗は江南に逃れて南宋を興した。首都は臨安(浙江省杭州市)。

 南宋では、岳飛ら主戦派が金と激しく戦ったが、秦檜(しんかい)ら和平派に暗殺された。南宋は金に臣下の礼をとることで和平し、毎年銀と絹を貢ぐことで平和を取り戻した。この時代は江南の開発が進み、経済は発展した。学問では、朱熹が儒教を朱子学として体系化し、司馬光は歴史書資治通鑑を著した。


フビライの狩猟図
 金は遼や北宋を滅ぼし、西夏を服属させて中国北部を支配していた。しかし、13世紀になるとモンゴル軍の度重なる侵略を受けて、1234年に滅亡した。

 南宋はまだ独立を保っていたが、フビライ率いるモンゴル軍により1279年に滅亡する。フビライはを建国した。

 アジア大陸の大半を支配下に置いたモンゴル帝国も分裂が始まった。元ではモンゴル貴族間の内部抗争から国は乱れ、1368年に反乱軍のリーダ朱元璋に滅ぼされ、が建国された。

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