中国の歴史2


紫禁城

 元の末期には各地で反乱が発生した。1351年の紅巾の乱で頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で帝位に就き、を建国した。同年、大都(北京)を攻めて元をモンゴル高原へ追いやり、漢民族による中国統一を成し遂げた。モンゴル高原へ撤退した元を北元といい、明と北元は激しく争った。

 第2代皇帝に洪武帝の孫が即位したが、洪武帝の4男が反旗を翻し、1402年に永楽帝として即位した(靖難の変)。彼は都を北京に遷し、紫禁城を建設した。積極的に外征を行い、モンゴルを5回も親征し、ヴェトナムも支配した。

 また、イスラム教徒の鄭和を南海遠征に派遣し、南海諸国に朝貢を行わせた。鄭和の航海は7度におよび、遠くはアフリカの東岸に達した。また、ティムール帝国と和睦し、チベットや李氏朝鮮も服属させた。

 当時対立していた日本とは和解し、足利義満に倭寇の取締りを求めた。義満を日本国王に冊封して朝貢貿易を許し、義満は明との勘合貿易で巨額の利益を得ることができた。

明の衰退


現存している万里の長城の大部分は明代に作られた

 永楽帝の死後、モンゴルが勢力を盛り返してきた。1449年には皇帝が捕虜になる事件まで発生し(土木の変)、内モンゴルから撤退した。南部では、倭寇による海賊行為が激しくなり、明は対策に苦しんだ(北虜南倭)。

 ヴェトナムでは、豪族のレ・ロイ(黎利)が重臣グエン・チャイ(阮薦)とともに明への抵抗運動を続け、1428年に明から独立し大越を建国した。1592〜97年には豊臣秀吉の朝鮮侵攻が始まった。明は援軍を派遣して勝利を得たが、財政は著しく悪化し明の滅亡の一因となった。

 1627年に陝西省で起きた干ばつをきっかけに反乱が起き、指導者の李自成が北京に入城して明を滅ぼした(1644年)。しかし、その40日後、李自成は清と明の遺臣の連合軍に破れ、が天下を握った。

 明の遺臣の鄭成功は、オランダ東インド会社が統治する台湾に渡ってオランダ人を一掃し、清に抵抗した(1662年)。鄭成功はその後ほどなくして病死し、台湾も清の康熙帝によって平定された。彼の母は日本人で、平戸で生まれ、幼名を田川福松という。

 

 

 

 

 

 

 

年表に戻る


清の離宮の瀋陽故宮(中国 瀋陽市)

 1616年、満州族の愛新覚羅氏出身のヌルハチが女真族を統一し後金を建国した。その子のホンタイジは満州と内モンゴルを征服し、1636年に元の玉璽を譲り受け、国名をとした。清の初代皇帝はヌルハチ、2代皇帝がホンタイジ。第3代順治帝は、明の遺臣呉三桂の先導で万里の長城を越えて李自成を討ち、中国全土を支配した。その後、3人の賢帝が輩出し、清の支配領域は拡大した。

 第4代康熙帝は、呉三桂らが起こした反乱(三藩の乱)を鎮圧し、また台湾を併合して国内支配を確立させた。。1689年には、黒竜江(アムール川)沿いに南下してきたロシアと戦い、ネルチンスク条約で両国の国境を定めた。

 次の雍正帝は内政に力を注ぎ皇帝の独裁体制を確立した。1727年には、外モンゴルに進出してきたロシアとキャフタ条約を結んで国境を確定した。また、ダライラマを信仰するグーシ・ハーンが建国したチベット王朝を滅ぼし、チベットを南北に分割した。チベットの南側はダライ・ラマを首班とするチベット政府に自治を許したが、北側は清に組み入れた(1724年)。

 その次の乾隆帝はウィグル族の反乱を平定し、東トルキスタンを支配下においた。しかし、乾隆帝の末期には官僚の腐敗で国は乱れ、各地で反乱が起こった。なかでも、1796年に起こった白蓮教徒の乱は最大のもので、鎮圧に10年を要した。

中国の半植民地化


中国半植民地化の風刺画
イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、日本が中国を分割している。

 当時、清との貿易はイギリスが独占し、中国の安いお茶を大量に輸入していた。貿易赤字に苦しむイギリスは、インドでアヘンを生産し中国に輸出し始めた。アヘンは急速に広まり大量の銀が流出した。清はアヘンの輸入を禁止し林則徐にアヘン貿易を取り締まらせた。これに対してイギリスは自由貿易をさまたげたとして清に宣戦布告し、アヘン戦争が起こった(1840年)。近代兵器を持つイギリスは圧勝し、清は香港の割譲や多額の賠償金を課せられた。1856年にはアロー号事件が起き、これらを口実にヨーロッパ列強による中国の半植民地化が進んでいった。

 1851年には、洪秀全による太平天国の乱が起き、1864年まで続く戦乱に国内は疲弊した。清の苦しみに乗じてロシアが南進し、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約、1881年のイリ条約などでロシアに有利な国境が取り決められた。

 1894年から95年にかけては日清戦争が起き、清は敗退した。日本と清との間で結んだ下関条約により、李氏朝鮮の独立が認められ、中国王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。また、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどの列強は鉄道の敷設権を要求し、旅順や山東省などを租借するなど半ば植民地の状態に追い込んだ。

 清朝政府は改革を進めたが、欧米列強や日本による半植民地化の動きは止まらなかった。これに反発して1900年に義和団の乱が発生した。当初は秘密結社義和団による排外運動であったが、西太后がこの反乱を支持し、各国に宣戦布告した。しかし、欧米列強軍は北京を制圧、清は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされた。

 1911年に辛亥革命が起こり、各地の省が独立を宣言した。翌1912年1月1日、孫文によって中華民国の樹立が宣言された。清の皇帝溥儀は、清の実力者である袁世凱により退位させられ、清は滅亡した。

中華民国


義和団の乱を制圧した八カ国連合軍

 中華民国は成立したが、革命に参加した勢力が対立し、また各地の軍閥が自立化したため政局は混乱した。

 1913年10月、袁世凱は大総統となり、国民党に解散を命じた。翌年には国会を廃止し、中華民国約法を公布した。袁は列強から多額の借款を借り受けて軍備強化や経済政策に着手した。しかし外国依存の財政は、列強による中国の半植民地化を押し進めることになった。

 第一次世界大戦が始まると新規借款ができず、財政は行き詰まった。1915年、日本は21ヶ条要求を出し、これを受けた袁は激しく非難された。また、皇帝に即位し国号を中華帝国に改めたが、反対運動が激化し、1916年に失意のうちに没した。

 そして、軍閥が地方で割拠する時代になり、蒋介石の北伐が完了するまで続いた。

年表に戻る 【参考資料】