ティムール
ティムール朝
ティムール像(サマルカンド)

 モンゴル帝国が分裂し中央アジアにチャガタイ・ハン国ができた。やがて、チャガタイ・ハン国は14世紀に東西に分裂し、東部のモンゴル人は遊牧生活を守ったが、西部のモンゴル人は都市生活に慣れ定住生活を始めた。

 ティムールは、1336年に西チャガタイ・ハン国の貧しいモンゴル貴族の家に生まれた。当初、彼には数人の従者しかいなかったが、彼の魅力にひかれて多くの人が集まってきた。やがて西チャガタイ・ハン国の有力者に見いだされ、その側近に登用された。

 1360年、東チャガタイ・ハン国はティムールたちが住むマー・ワラー・アンナフル(サマルカンド南方の地域、ソグディアナ)を襲った。ティムールはいったんは服属するが、やがて逃亡し反撃の機会をうかがった。

 10年後、力をつけたティムールは、東チャガタイ・ハン国やホラズムに遠征して中央アジアを平定し、ティムール朝を建国した(1370年)。首都はサマルカンド。ティムールは軍事的な天才で、戦いには一度も負けなかった。戦場で片足を負傷して歩くのが不自由になり、欧米ではタメルラン(Tamerlane:跛行のティムール)というあだ名で呼ばれている。

勢力の拡大

 

 

 

 

 

50音別索引

 ティムールは、チンギス・ハンの築いた世界帝国を再現するため西アジアの征服に乗り出した。まず多くの諸侯が乱立しているイル・ハン国に進軍し、これらの諸侯を次々と攻略した。その範囲は、パキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、シリア、アゼルバイジャン、アルメニアなどの国々である。

 ティムールがコーカサス(アゼルバイジャンやアルメニア)に進出すると、南ロシアを支配するジョチ・ウルスとの国境紛争が起こった。当時のジョチ・ウルスは相次ぐ内紛のため衰退し、ルーシ諸侯は独立のチャンスをうかがっていた。そしてついに、徴税作業を任されていたモスクワ大公国が貢納を拒否した。ジョチ・ウルスは征伐軍を派遣したが、モスクワが率いるルーシ諸侯連合軍に反撃されて敗れた(1380年、クリコヴォの戦い)。

 その後、ティムールが支援するトクタミシュが、ジョチ・ウルスのハンになり、モスクワを徹底的に破壊した。やがて、トクタミシュとティムールは敵対するようになり、コーカサスで両者の決戦が行われた(1395年)。ティムールはこの戦いに勝利し、さらにジョチ・ウルスの都サライを攻略した。

アンカラの戦い

 

 

 

 

 

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バヤズィト1世のもとへ訪れるティムール

 1398年にはインドに遠征し、デリー・スルタン朝トゥグルク朝と交戦した。ティムールは圧勝しデリーを占領、破壊と略奪を行った。インドから戻ると今度は西に向かった。まず、敵対したジョージアを攻撃し、マムルーク朝が支配するシリアに進みダマスカスを占領、続いてイラクに進出しバグダードに入城した。

 シリアを平定したティムールは、オスマン帝国が支配するアナトリアに進軍した。オスマン帝国のバヤズィト1世は、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル(イスタンブール)を包囲していたが、急遽、包囲を解いてティムールを迎え撃った。1402年7月、両軍はアンカラ付近で激しくぶつかった。ティムールは、急ごしらえのオスマン軍を完膚なきまでに打ち破り、バヤズィト1世とその息子を捕虜にした。ティムールはアナトリアをオスマントルコから解放し、サマルカンドに引き上げた。

ティムールの最期

 

 

 

 

各国の歴史


チャハル・ミナール(ブハラ)

 一連の遠征で西の脅威を取り除いたティムールは、を滅ぼしたに遠征する準備を始めた。1404年11月、ティムールは20万の遠征軍を率いてサマルカンドを出発した。この年は気候が悪く、行軍は難航しティムールは病に冒された。1月にようやくオトラルにたどり着いたが、病状は悪化し病没した。69歳だった。

 ティムールの遺体はサマルカンドのグリ・アミール廟(アミールの墓)に安置された。その棺には「私が死の眠りから覚めた時、大きな災いが起こる」と刻印されていた。1941年、ソ連の調査団が棺を開けてティムールの脚の障害などを調査した。その3日後、バルバロッサ作戦(ドイツのソ連侵攻)が実行され、これに恐怖を感じた調査団は棺を封印した。これ以降、棺は開けられていない。

帝国のその後
グリ・アミール廟

 ティムールの死後しばらくしてサマルカンドとヘラートの2つの政権に分裂した。それでもティムール朝は140年続き、1507年にウズベク人に滅ぼされた。政治の中心はブハラに移り、ブハラを中心に栄えた王朝をブハラ・ハン国という。ティムールの子孫バーブルはインドのデリーに逃れ、ムガル帝国を建国した(1526年)。また、イランではシーア派のサファヴィー朝が興った。

 やがて、大航海時代が到来し、シルクロードはさびれていった。戦いに火器や巨砲が使われ始め、騎馬民族の軍事的な優位は失われた。その後二度と中央アジアに大帝国が建設されることはなく、ロシアが侵略してきた。

 19世紀には中央アジア全域がロシアに組み込まれた。1991年にソ連が崩壊するとウズベキスタンカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンの5か国が独立した。ティムールはウズベキスタンで、国民の英雄として尊敬されている。

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【参考資料】
中央ユーラシア史 小松久男 山川出版社