アレクサンドロスの遠征
マケドニア

 マケドニアはギリシア北方にあるドーリア人の国で、民主制ではなく王政の国だった。ギリシア本土とは生活習慣が異なり、同じギリシア人なのに野蛮人扱いされていた。ペルシア戦争ではペルシア側についたが、ペルシアの影響力がなくなるとギリシアに接近し国力を増大させた。都はテッサロニキ北方のペラ(Pella)。

 BC431年のペロポネソス戦争後、ギリシアはポリス間の覇権争いが起きて衰退した。その隙をついてマケドニアはギリシアに進出し影響力を強めていった。

【北マケドニア】 1991年、ユーゴスラビアからマケドニアが独立した。この国はスラブ人の国で古代マケドニアとは無関係だった。ギリシアはこの国名に異を唱え国名論争が起きたが、2019年にマケドニアは北マケドニア共和国と国名を変更した。


アレクサンドロスが生まれた町ペラ(テッサロニキ)

フィリッポス2世
(ピリッポス2世 Philippos)

 BC359年にマケドニア国王に即位したフィリッポス2世は、軍制を改革して強力な軍隊を作り領土を拡大していった。ギリシアの弱小国だったマケドニアは一躍強国になり、ポリス間の紛争に介入し始めた。アテネはテーベと同盟してこれに対抗した。

 BC338年、フィリッポスは、2千の騎兵と3万の歩兵を率いて南下し、テーベ北方のカイロネイア(Chaeronea)でギリシア連合軍とぶつかった(カイロネイアの戦い)。マケドニアはファランクスと呼ばれる長槍を持った重装歩兵の密集陣形でアテネとテーベを中心とした連合軍35,000を圧倒した。そして、スパルタを除くギリシアの全ポリスとヘラス同盟(コリントス同盟)を結び、ギリシアの支配者になった。

 フィリッポスはカイロネイアの勝利を記念して円形の建物フィリペリオンをオリンピアに献納した。更に対ペルシア戦争を発動し、小アジアに第一陣を派遣した。自らも出陣する準備を整えたが、娘の結婚式の席で部下に暗殺された。46歳のあっけない最期だった。ペルシア遠征は息子のアレキサンドロスに引き継がれた。


フィリペイオン(オリンピア)

フィリッポス2世(マケドニアのスコピエ)

アレクサンドロス(alexandros)

 

 

 

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 アレクサンドロス3世は、BC356年にマケドニアのペラで生まれた。父はフィリッ ポス2世、母は4番目の妻オリュンピアス。12歳の頃から哲学者アリストテレスに学び、ギリシアやインドに関する知識を身につけた。彼と一緒に貴族階級の子弟もアリストテレスに師事し、後に彼らはアレクサンドロスを支える将軍になった。初陣はカイロネイアの戦いで、騎馬隊を率いて奮戦しギリシア連合軍を破った。20歳の時、父フィリッポスが暗殺されマケドニア王を継承した。

 就任直後にテーベを中心としたポリスの反乱が起きたが、すぐに鎮圧しギリシアを再統一した。ギリシアの全ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニアを重臣アンティパトロスに任せ、父の意思を継いでペルシア遠征に出発した。

 アレクサンドロスは英語ではアレキサンダー(アレックス)、アラビア語ではイスカンダルという。


馬に乗るアレクサンドロス(テッサロニキ)
ペルシア遠征

 BC334年、アレクサンドロスはヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を越えてペルシア領内に侵入した。ペルシア軍はグラニコス川で迎え撃ったが、アレクサンドロスの突進を食い止めることができず敗退した(グラニコス川の戦い)。この戦いでペルシアの精鋭騎兵隊が壊滅した。続いて、ギリシア侵攻の拠点サルディスを攻略し、ミレトスなどのギリシア殖民都市を解放して、瞬く間に小アジアを制圧した。

 翌BC333年、アレクサンドロスは約4万の兵とともにトルコの地中海沿岸にあるイッソスに進出した。ペルシャのダレイオス3世も約10万の兵を率いて布陣し、ペルシア騎兵の突撃で戦闘が始まった。アレクサンドロスも騎兵を引き連れて敵の前線を突破し、ペルシア軍の中央を激しく攻めた。ギリシア軍の猛攻にペルシア軍は崩れ、ダレイオスは戦場から逃走した(イッソスの戦い)。この戦いでダレイオスの娘スタテイラを捕虜にした。彼女は後にアレクサンドロスの妻になる。

【イッソス】 現在のトルコのイスケンデルン。イスケンデルンはトルコ語でアレクサンドロスのことである。


「イッソスの戦い」を描いたモザイク画(ナポリ考古学博物館)
ガウガメラの戦い

 アレクサンドロスは、ペルシア軍を追わずに南進し、ペルシア艦隊の拠点となっているシドンティルスなどのフェニキアの都市を制圧した。

 さらに南に進みペルシアの支配下にあるエジプトに入った。エジプトは11年前にペルシアに征服されたばかりで、簡単に占領できた。エジプトの民衆はアレクサンドロスを解放者として迎え、彼はファラオに就任した。エジプトのルクソール神殿には彼がファラオだったことを示すカルトゥーシュが残っている。そして、ナイル河口にアレクサンドリアを建設した。

 エジプトで充分な休養をとったギリシア軍47,000は、ペルシアの中心部に進撃した。ダレイオス3世は10万の軍勢でチグリス川上流のガウガメラで迎え撃った。ペルシア軍は兵の数では上回っていたが、兵の練度や装備は劣り、寄せ集めの軍隊だった。戦いが始まるとアレクサンドロスは騎兵の大半を率いてペルシアの中軍に突撃し、ペルシア軍を潰走させた(ガウガメラの戦い(Gaugamela))。

ペルシア帝国滅亡

 アレクサンドロスは敗走したダレイオスを追わず、バビロンから首都スーサ(Susa)へ進軍した。スーサの住民はギリシア軍を歓迎し、ペルシアの高官も玉座についたアレクサンドロスの前に平伏した。続いてペルセポリスを無血開城し、王宮を焼き払った。

 BC330年、アレクサンドロスはダレイオスを追撃するためエクバタナへ軍をすすめた。エクバタナはペルシア王の夏の離宮がある町だった。ダレイオスはバクトリア王国の都バクトラに向けて逃走した。しかし、その途中のタムガン付近でバクトリア長官のベッソスに暗殺された。アレクサンドロスはダレイオスの遺体を手厚く葬った。

 翌年、アレクサンドロスは中央アジアへ侵攻した。まずダレイオスを裏切ったベッソスを始末し、ソグディアナのサマルカンドに進軍した。サマルカンドではバクトリアの王女で絶世の美人のロクサネ(Roxane)を妃に迎えた。


アレクサンドロス (イスタンブール考古学博物館)
更に東へ

 BC326年、29歳になったアレクサンドロスはカブールを出発し、インダス川を越えインドのパンジャブ地方へ進出した。そこにはインド王ポロスが44,000の兵と200頭の象を率いて待ち受けていた。両軍はヒダスペス川を挟んで対峙した。小競り合いが10日ほど続き、アレキサンドロスは1隊を率いて上流から密かに渡河しインド軍に襲いかかった。ギリシア軍本隊も攻撃を開始し、挟み撃ちにあったインド軍は総崩れとなった(ヒダスペスの戦い)。これが彼の最後の戦いとなった。会戦後、アレクサンドロスはブケファリアニカイアの町を作った。ブケファリアはアレクサンドロスの愛馬ブケファラスの死を悼んで、ニカイアは勝利の女神ニケに因んで命名された。

 さらに東へ進もうとするアレクサンドロスに部下が抵抗した。すでに遠征距離は1万8千kmにおよび、8年間戦い続けた兵は疲れきっていた。やむなくアレクサンドロスは部隊を3つに分けて、スーサに引き返すことにした。第一軍はカンダハル経由で、第二軍インダス川を南下し河口付近から西へ、第三軍はインダス川の河口から海路で、スーサに向かった。そしてBC324年の春に三軍.とも無事スーサにたどり着いた。10年に及ぶ東征は終わり、アレクサンドロスは31歳になっていた。

ヘレニズム文化
(Hellenism)

 スーサに戻るとすぐにギリシアとペルシアの民族融和のため、1万人のマケドニア兵と1万人のペルシアの娘の合同結婚式が行われた。アレクサンドロスもダレイオスの娘スタテイラと結婚した。

 BC323年6月、多くの将兵に愛されたアレクサンドロスは熱病にかかりその人生を終えた。32歳だった。彼の遺体は、部下のプトレマイオスによってエジプトのアレクサンドリアに葬られた。彼の死後、妻のロクサネはアレクサンドロス4世を産んだ。しかし、後継者争い(ディアドコイの争い)によって彼にゆかりの者はことごとく殺された。帝国は分裂しマケドニアはアンティゴノス朝が支配したが、BC167年にローマに征服された。

 ヘレニズムとは、ヘレネス(ギリシア人)に由来することばで、ギリシア風という意味である。アレクサンドロスは、諸民族の文化を尊重し、ペルシアの行政組織や儀礼を継承した。また自身の名を冠したアレクサンドリア市を70余り建設し、ギリシア人の東方移住を促進した。この結果、ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化が生まれた。貨幣経済も普及し、東西貿易も活発となった。


ガルニ神殿(アルメニアに残るヘレニズム建築)
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 ディアドコイの争い→  

【参考資料】
ギリシア人の物語V 塩野七海 新潮社