エジプト

初王朝時代


ギザのピラミッド (Wikipedia)

 ナイル川流域には多くの人々が暮らしていた。川を治水するために住民を統率する指導者が必要で、多くの村落(ノモス)は次第に強い指導者のもとに統合されていった。そして、ナイル川下流の下エジプトと上流の上エジプトの2つの国ができた。

 エジプトは周囲を海と砂漠に囲まれ、メソポタミアのような民族の侵入や王朝の興亡はなく、静かに独特の文化が築かれた。メソポタミアの文化も取り込まれ、シュメール人の文字が、象形文字ヒエログリフに変化した。

 BC3100年頃、上エジプト王のナルメルがエジプト全土を統一し、ファラオ(王)による統治が始まった。この王朝は第1王朝と呼ばれ、これ以降約2800年にわたって30の王朝が交代する。エジプトでは現人神である王の神権政治が行われた。国土は王が所有し、神官や役人は王から土地を与えられた。大部分は農民で、重税と労働を課せられた。

 太陽暦や象形文字が発明され、銅製の武器が使用される。

古王国時代〜中王国時代

 第3王朝から第6王朝までは古王国時代と呼ばれ、安定した平和な時代が続いた。首都はメンフィス(Menphis)。BC2600年にクフ王ギザに大ピラミッドを、BC2560年には第4代カフラーが、ギザに第2ピラミッドやスフィンクスを建設した。

 BC2200年頃から王権は弱まり、各地の諸侯が乱立して国は分裂状態となる。その中で上エジプトのテーベが力をつけ、BC2060年にメンチュヘテプ2世(Mentuhotep)がエジプトを再統一し第11王朝を開いた。その後有能な君主が現われ、平和な時代が続いた。首都テーベ(Thebes、現在のルクソール(Luxor))には国の守り神アメン神を祭る壮麗な神殿が作られた。

 BC1730年頃、シリアから遊牧民ヒクソス(Hyksos)が馬と戦車で侵入し、ヒクソス人の王朝を作った(第15、16王朝)。ヒクソス人は1世紀にわたってナイル川三角州地帯を支配し、クレタと盛んに交易した。その後、ヒクソス人はエジプト文化に同化していった。

【アンモニアとアンモナイト】 アメン神(ギリシャ名はアンモン)の神殿には大勢の人がラクダに乗って巡礼に訪れた。神殿のまわりにはラクダの排泄物がたまり、塩に似た結晶(塩化アンモニウム)がたくさんできた。これは「アメン神の塩」という名の肥料となり、その刺激臭がアンモニアと呼ばれた。
 また、アメン神の使者はヒツジで、その角に似た化石がアンモナイトとなった。また、ヨルダンの首都アンマンもアメン神に由来しているといわれている。

新王国時代

 





 

 

 

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カデシュの戦いでのラムセス2世
(エジプト:アブ・シンベル神殿:Abu Simbel)

 第16王朝末期にはヒクソスの力も衰え、テーベにエジプト人による第17王朝が興った。この王朝は対ヒクソス戦争を開始し、両者は激しく戦った。BC1565年、イアフメス1世は奇襲によってヒクソスを破り、エジプトから駆逐した。彼は第18王朝を建て、エジプトが最も栄えた新王国時代が始まった。この王朝の王はルクソールの王家の谷に葬られている。

 イアフメスの子アメンヘテプ1世はカルナック大神殿を造営し、孫のトトメス1世はシリア方面へ遠征して勢力を拡大した。BC1479年、幼いトトメス3世が即位するが、継母ハトシェプストが共同統治者となり全権を掌握した。彼女は戦争を好まず、平和外交によってエジプトを繁栄させた。彼女の死後トトメス3世が専制政治を行い、周辺諸国に遠征して輝かしい成果を上げエジプト史上最大の帝国を築いた。

 BC1346年、アメンホテプ4世イクナートン)は、アメン神の神官の勢力を抑えるためアマルナに遷都し、宗教と王権と一本化する改革を行った。その結果、宗教や権威にとらわれない写実的なアマルナ美術が開花した。しかし改革が急だったため神官達の激しい抵抗にあい、改革は失敗した。その次のツタンカーメンの時に首都は再びテーベに戻った。

ラムセス2世

 

 


ラムセス2世の胸像(大英博物館)

 BC1290年、エジプトで最も有名なファラオであるラムセス2世(Ramses)が即位した。彼は66年間在位し、90歳で没するまでに111人の息子と69人の娘をもうけたと伝えられる。

 彼はパレスチナに侵攻し、ヒッタイトの属国アムルを攻めた。ヒッタイト王ムワタリはすぐに反撃し、BC1285年にシリアのカデシュ(Kadesh)で戦いが起こった(カデシュの戦い)。エジプト軍は初戦で有力な軍団を撃破されて苦戦するが、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めた。しかし、兵力の消耗が激しく、BC1269年に平和条約を結んで休戦した(史上初の平和条約)。そして、彼はヒッタイト王女を王妃に迎えた。

 その後エジプト南部アスワン方面のヌビアに遠征し平定した。ヌビアにアブ・シンベル神殿を造営した。この神殿はアスワン・ハイ・ダムの建設によって水没の危機にさらされたが、ユネスコによってナイル川から離れた丘へ移転された。これを機に世界遺産の制度が制定された。

 彼の治世中に、出エジプト記に登場するモーゼが、イスラエル人奴隷を引き連れてエジプトを脱出したといわれている。

末期王朝時代
ラムセス2世が建てた門の遺跡(ヤッフォ イスラエル)

 その後エジプトは徐々に衰退し、シリア・パレスチナから撤退、シナイ半島も喪失した。BC1085年、混乱するエジプトを再統一したのが軍司令官スメンデスで、タニス(現在のサン・イル・ハガル)を中心とした三角州地帯を勢力下におく第21王朝を開いた。 しかし、上エジプトはテーベのアメン神官団が支配し、国内は分裂状態だった。こうした国内の混乱は南部のヌビア人など外部勢力の侵入を招き、リビアやヌビアなど異民族の王がエジプトを支配した。

 BC7世紀になるとオリエントで勢力を伸ばしていたアッシリアがエジプトを脅かし、BC673年にエジプトを占領した。アッシリアに従順な王族がエジプトの支配する第26王朝が始まった。この王朝はアッシリアが滅亡すると間もなく独立した。

 この第26王朝の平和も長くは続かず、新たなオリエントの覇者アケメネス朝ペルシアが押し寄せ、BC525年にその支配下に入った。ペルシアの支配は200年続いた。

 BC332年、マケドニアのアレクサンドロスがエジプトをペルシャの支配から解放し、アレクサンドリアを建設した。アレクサンドロスが亡くなるとその部下のプトレマイオスがプトレマイオス朝を開きファラオの時代は終った。

クレオパトラ


ヒエログリフ(大英博物館)

 プトレマイオス朝によるギリシア人の支配は300年続き、BC51年に最後の女王クレオパトラ7世が即位した。エジプトは内紛のためすっかり衰え、ローマとの同盟関係でやっと独立を保っていた。クレオパトラは、エジプトまでポンペイウスを追って来たカエサルを誘惑し、彼の愛人となった。エジプトはつかの間の安泰を得るが、ほどなくカエサルは暗殺されてしまう。

 ローマは第2回三頭政治が始まった。カエサルの部下マルクス・アントニウスはローマ帝国の東方担当となり、クレオパトラと出会った。アントニウスは彼女の美しさに心を奪われ、のめり込んでいった。アントニウスはローマ市民の支持を失い、アクティウムの海戦オクタウィアヌスに敗れた。BC30年、アレクサンドリアに追い詰められた二人は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。エジプトはローマ皇帝の直轄領となった。

ヒエログリフ(hieroglyph)】 古代エジプトで使われた文字で、エジプトの遺跡に多く記されている。ナポレオンのエジプト遠征の時に発見されたロゼッタ・ストーンを、フランスのシャンポリオンが解読して読めるようになった。ロゼッタ・ストーンにはヒエログリフとギリシア文字、エジプトの民衆文字が刻まれていた。

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【参考資料】