ハプスブルク家 (Habsburg)

あらすじ


王宮に輝く双頭の鷲、左下はオイゲン公像(ウィーン)

 ハプスブルク家は、スイスに発祥した貴族である。古代ローマのユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世になると政略結婚により広大な領土を獲得した。20世紀初頭までに、神聖ローマ帝国スペイン王国ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国などの国王や皇帝を輩出した。

 ローマ皇帝のシンボルマーク双頭の鷲は、神聖ローマ帝国の紋章となり、神聖ローマ帝国消滅後はオーストリア帝国に引き継がれた。また、この紋章はビザンツ帝国滅亡後、ロシア帝国の紋章にもなった。

 ハプスブルク家はヨーロッパ随一の名門で、正式な家名は「ハプスブルク・ロートリンゲン家」(Haus Habsburg Lothringen)である。

神聖ローマ帝国(Holy Roman Emperor)

 

 

 

 

 

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選帝侯

 ヴェルダン条約によって生まれた東フランク王国は、 911年にカロリング朝の血筋が途絶え、選挙で国王を選ぶようになった。912年に国王に選ばれたハインリヒ1世は領土を拡大し、ドイツ王国の基礎を作った(東フランク王国からドイツ王国に変貌していった)。

 次のオットー1世は東から侵入してきたマジャール人を撃退した。また、961年にはイタリアに遠征し、教皇領を脅かしていたベレンガリオ2世を倒した。そして、イタリア王位継承権を持つロターリオ2世の未亡人アデライーデと結婚し、イタリア王も名乗ることとなった。962年、オットーは教皇からローマ皇帝の冠を授かり、神聖ローマ帝国が誕生した。

 神聖ローマ帝国の皇帝は、まず7人の選帝侯といわれる有力者がドイツ国王を選び、その国王をローマ教皇がローマ皇帝に戴冠して皇帝に任命していた。一方で聖職者の任命権は国王が握っており、イタリア国王を兼ねたドイツ国王はしばしば教皇と対立した。

カノッサの屈辱

 

 

 

 

 

 

 

50音別索引


サン・ピエトロ大聖堂(ローマ)

 ローマカトリック教会は、聖職売買など世俗化していった。そのため、11世紀にはフランス西部のクリュニー修道院を中心に改革運動が始まった。教皇グレゴリウス7世は、聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、皇帝や君主が持っていた聖職叙任権を教皇の手に移そうとした。このため、教皇と神聖ローマ皇帝との間に叙任権闘争が起こり、教皇は皇帝ハインリヒ4世(Heinrich IV)を破門し王位を剥奪した。

 皇帝が破門されると、ドイツ諸侯はハインリヒ4世に叛旗を翻し、新しいドイツ王を決めようとした。窮地に陥った皇帝は教皇に許しを乞うため北イタリアのカノッサに向かった(1077年1月)。突然の訪問に教皇は戸惑うが、修道士の服装に身をつつんで城の前に立つ皇帝を見て破門を解いた。

 ハインリヒは勇躍してドイツに戻り、反対派を制圧した。その後、再び叙任権をめぐって両者は対立した。1085年にはハインリヒがイタリアに軍を進めた。教皇は辛くも脱出するが、翌年イタリア南部のサレルノで失意のまま客死した。叙任権闘争は、1122年のヴォルムス協約で、「叙任権は教皇にある」と決められるまで続いた。

大空位時代〜ハプスブルク王朝

 1138年から神聖ローマ皇帝はホーエンシュタウフェン家から選ばれるようになった(シュタウフェン朝)。初代のコンラート3世は第2回十字軍に参加した。次のフリードリッヒ1世(バルバロッサ:(赤髭王)は、5回にわたってイタリアに遠征し北イタリアの諸都市と戦った。その後、第3回十字軍に参加したがトルコで事故死した。その息子のハインリヒ6世(Heinrich)は、シチリア王女コスタンツァと結婚してシチリア王も兼ねた。

 ハインリヒ6世の子供が世界の驚異と呼ばれたフリードリヒ2世で、第6回十字軍に参加しエルサレムを交渉によって奪還した。1250年にフリードリヒ2世が亡くなるとシュタウフェン朝は断絶し、皇帝不在の大空位時代が始まった。

 空位時代は20年続いたが、1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王に選出されて空位時代は終った。1356年には、皇帝カール4世が皇帝選定の資格を七選帝侯に定めた金印勅書を出し、皇帝選出時に争いが起きないようにルールを定めた。

 1440年からはハプスブルク家が王位を世襲するようになり、1493年に選出されたマクシミリアン1世は、ついにローマ教皇の戴冠を受けずに皇帝を名乗り始めた。

 マクシミリアンの長男フィリップ(フェリペ)はカスティーリャ皇女ファナ(狂女ファナ)と結婚した。彼女はイサベル女王の娘で、やがてカスティーリャ女王となった。その息子のカール5世と弟のフェルディナントは、スペインからシチリア王国、ネーデルランド、ハンガリやボヘミア王国など広大な領土を手に入れた。

スペイン・ハプスブルク家

 

 

 

 

 

 

各国の歴史


カール5世がテュニス遠征を記念して建てたヌオーヴァ門 (シチリア パレルモ)

 カール5世の時代は、宗教改革ドイツ農民戦争、フランスとの戦いなど戦争が続いた。また、スレイマン1世率いるオスマン帝国とも戦い、ウィーン包囲をはね返したり、チュニス遠征で勝利した。しかし、アルジェ遠征には失敗し、プレヴェザの海戦でも敗れて地中海の制海権を失った。

 長年の戦いに疲れたカール5世は退位し(1556年)、スペインやネーデルラントを息子のフェリペ2世に(スペイン・ハプスブルク家)、祖父から受け継いだ神聖ローマ帝国を弟のフェルディナント1世に譲った(オーストリア・ハプスブルク家)。以後、フェルディナントの子孫が神聖ローマ帝国皇帝を世襲した。

 スペイン・ハプスブルク家は、フェリペ2世の在位中に最盛期を迎え「日の沈まぬ」大帝国となった。1571年のレパントの海戦ではオスマン艦隊を撃破した。しかし、イギリス遠征に向かった無敵艦隊がイギリス艦隊に敗れ、オランダ独立戦争やフランスとの戦いに敗北したためヨーロッパの覇権を失った。また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親結婚により病弱な王が続き、1700年にカルロス2世が死ぬと断絶した。

30年戦争
(1618〜1648年)

プラハ城入り口

 宗教改革者フスの出身地ボヘミアは、多くの住民が新教徒(プロテスタント)だったが、ボヘミア王フェルディナンドは新教徒を弾圧した。1618年、信教の自由を奪われた新教徒たちは、プラハの王宮に押しかけ王の顧問官に抗議した。激しい口論は平行線をたどり、業を煮やした抗議団は、問答無用と顧問官たちを窓から投げ落とした(プラハ窓外放出事件)。この事件が30年戦争の始まりになった。

 新教徒の諸侯たちはプロテスタント同盟を結成した。一方、南ドイツのカトリック諸侯はカトリック同盟を結成し、神聖ローマ皇帝フェルナンド2世を支えた。緒戦は皇帝軍が圧勝し、ボヘミアから新教徒の姿は消えた。

 すると新教国のデンマークが、オランダ、イギリス、フランスの支援を受けて介入してきた。皇帝軍はドイツ中央部で迎え撃って反撃した。次にスウェーデンが介入したが、スウェーデン国王が戦死すると進撃は止まった。

 そしてハプスブルク家と対立するブルボン家のフランスが新教徒側で参戦し、皇帝を支援してきたスペインも本格的に軍事介入した。

ヴェストファーレン条約
(1648年)

ザンクト・パウル大聖堂(ミュンスター)

 当初は神聖ローマ帝国内の宗教戦争だった30年戦争は、ハプスブルク家とフランス王家との戦争に発展した。泥沼の戦いは主としてフランスとスペインの戦いになった。ところがスペインはオランダ独立戦争で敗れ、国内ではカタルーニャの反乱ポルトガル独立運動が起こるなど苦境にたたされた。

 ついに皇帝は和平の道を模索し、ヴェストファーレン州ミュンスターで講和会議を開催した。この条約が初めての国際条約であるヴェストファーレン条約(ウエストファリア条約)である。この条約によって、カトリックとプロテスタントの宗教戦争(30年戦争)が終わった(1648年)。

 30年戦争はハプスブルク家が敗北し、フランスはアルザス・ロレーヌを、スウェーデンはバルト海沿岸を手に入れた。神聖ローマ帝国内の300の諸侯は主権が認められ、神聖ローマ帝国は実質的に解体した。ハプスブルク家の影響力は低下し、オランダポルトガルはスペインから独立、スイスは神聖ローマ帝国から独立した。

オーストリア・ハプスブルク家

 

 

 

 

 

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マリア・テレジアのシェーンブルン宮殿(ウィーン)

 1683年、ハプスブルク家が支配するハンガリーで反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に支援を要請した。オスマン軍は15万の大軍でウィーンを包囲、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世は各国に支援を要請した。ポーランドを中心にした対イスラム連合軍はオスマン軍を急襲し、60日におよぶ第2次ウィーン包囲を撃退した。

  1686年には、オーストリア、ポーランドなどが神聖同盟を結成してトルコに参戦した。トルコは敗れてカルロヴィッツ条約が結ばれ、オーストリアはハンガリ、トランシルヴァニア、スラボニアを手に入れた(1699年)。

 レオポルト1世の次に皇帝となったカール6世は男子に恵まれず、長女のマリア・テレジアが継いだ(1740年)。プロイセンやフランスなどはこれを不服とし、オーストリア継承戦争をおこした。オーストリアは一時苦境に陥るが、イギリスの援助を受けて挽回した。1748年にアーヘンの和約が結ばれ、マリア・テレジアのハプスブルク家相続が容認された。

7年戦争
7年戦争のロイテンの戦い
(プロイセン軍がオーストリア軍を撃破)

 マリア・テレジアはプロイセンからシレジアを奪還するため、ロシア女帝エリザヴェータとフランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と手を組んだ(3枚のペチコート作戦)。これを察知したプロイセンはオーストリアを攻撃し、七年戦争が始まった。プロイセンはイギリスの支援を受けて、オーストリア・ロシア・フランス・スペインの連合軍と戦った。また、イギリスとフランスは北アメリカやインドの植民地で戦い、イギリス海軍はスペイン植民地(ハバナやマニラ)を攻撃した。当初はオーストリア連合軍が優勢だったが、プロイセン王フリードリヒ2世の活躍でプロイセンの側に戦局は傾いた。

 1763年、戦いに疲れた両陣営は講和を結び、プロイセンのシレジア領有が決まった。フランスはインドや北アメリカから撤退、イギリスは多額の負債を植民地に押し付けアメリカ独立戦争が起こった。ロシアではピョートル3世への不満が爆発し、クーデターが発生しエカテリーナ2世が実権を握った。

 マリア・テレジアはプロイセンに対抗するためフランスとの同盟関係を深め、娘マリー・アントワネットをルイ16世に嫁がせた。しかし、フランス革命が始まり、フランス革命軍に敗れ、マリーアントワネットも処刑された。

帝国の崩壊
オーストリア・ハンガリー帝国皇后エリーザベト
(ウィーン)

 その後、ナポレオン1世によって神聖ローマ帝国は解体され、オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦となった(1806年)。オーストリアはクリミア戦争でロシアと戦い、1859年にはサルデーニャ王国に敗れてロンバルディアを失った。普墺戦争ではプロイセンに大敗し、ドイツ連邦は消滅した。

 オーストリアの衰退に伴い、諸民族が自治を求めて立ち上がった。この運動を抑えるため、マジャール人(ハンガリー人)と協力した国家オーストリア・ハンガリー二重帝国が作られた(1867年)。皇帝にはフランツ・ヨーゼフ1世が即位、その妻が美貌で有名なエリーザベトである。このドイツ人とマジャール人の協力関係をアウスグライヒ(妥協)という。この帝国は、軍事、外交、財政を共有し、その他は2つの政府が独自の政治を行う国家だった。

 ハプスブルク家の悲劇は続く。1863年、メキシコに出兵したフランスのナポレオン3世は、皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンをメキシコ皇帝に就けた。しかしヨーロッパ情勢が緊迫してフランス軍は撤退、取り残されたマクシミリアンはメキシコの自由主義勢力によって銃殺された(マクシミリアンの処刑)。

 1889年には皇太子ルドルフが心中事件で死亡、1898年には皇后エリーザベトが暗殺された。そして1914年、サラエヴォで、皇位継承者フェルディナントが暗殺され、第一次世界大戦が勃発した。オーストリアはドイツとともに同盟国として戦うが敗れ、二重帝国は解体した。1918年、皇帝カール1世は亡命し、650年間君臨したハプスブルク帝国は崩壊した。

 
 ヒットラーは自分の国を第三帝国と呼んだが、これは、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ3番目の帝国という意味である。
 1961年、カール1世の長男オットー・フォン・ハプスブルクはオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄し、オーストリア共和国に忠誠の宣誓を行ってオーストリアに入国を許された。 
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【参考資料】
ハプスブルク帝国 加藤雅彦 河出書房新社