ロシアの歴史
国家形成

 ゲルマン人が東方へ移動したあとのロシア西部には、スラヴ人(Slavs)が移り住んだ。その後ノルマン人(ヴァイキング:viking)が押し寄せ、862年にリューリクがスラブ人を征服してノヴゴロド公国を建てた。この地域は、リューリクが率いたルス族にちなんでルーシ(ギリシア語でロシア)と呼ばれるようになった。英語で奴隷のことを"slave"というのは、かってスラヴ人が奴隷として売買されていたからである。


バイキングの船(バイユー博物館)

 882年、リューリクの子供のイーゴリは交易都市キエフを征服し、キエフ大公国を建設した。そしてノルマン人たちは、徐々にスラヴ人に同化していった。キエフはウラジーミル1世の時に領土を大きく広げ、最盛期を迎えた。彼は988年にビザンツ帝国の皇帝の妹を妃に迎え、キリスト教に改宗した。

 12世紀になるとキエフ公国は内部抗争により衰退し、ウラジーミル大公国やノヴゴロド公国など多くの公国が分離独立した。

タタールのくびき

 

 

 

 

 

 

 

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アレクサンドル・ネフスキー

 1237年、モンゴル軍がロシアに侵攻し、リャザン公国など反抗する国を滅ぼし、ウラジーミルやモスクワなどの町を徹底的に破壊した。1240年にはキエフが攻められキエフ公国は滅亡した。モンゴル軍が去ったあとには、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)が建国された。生き残った公国はその支配下に入った。この支配は250年間続きタタールのくびき(Tatar-Mongol Yoke)といわれている。

 ロシアの北にあるノヴゴロド公国には、モンゴル軍は侵攻しなかった。しかし、この国はドイツ騎士団やスウェーデンなどカトリック教徒による北方十字軍の侵略を受けていた。その侵略を撃退したのがアレクサンドル1世で、中世ロシアの英雄として讃えられている。彼は1240年に来襲したスウェーデン軍を、ネヴァ河畔の戦いで撃退したことからアレクサンドル・ネフスキー(ネヴァ河の勝利者)と呼ばれている。

 アレクサンドルは自主的にジョチ・ウルスに臣従し、反モンゴル勢力を弾圧した。アレクサンドルの死後、末子のダニールがモスクワ公になった。モスクワ公国もジョチ・ウルスの手先になって周辺諸国に侵略し、勢力を拡大した。

モスクワ大公国

 

 

 

 

 

50音別索引


クリコヴォの戦い

 力をつけたモスクワ公国は、ドミトリー・ドンスコイ(ドン川のドミトリー)の時代にジョチ・ウルスに反旗を翻した。モスクワ公国は他のロシア諸侯と連合し、クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスを破った(1380年)。無敵のタタールに初めて勝利したことにより、多くのロシア人はモンゴルの支配から独立できる希望を持った。しかし、ジョチ・ウルスはすぐに巻き返し、モスクワを蹂躙して再びロシアを支配した。

 その後ジョチ・ウルスは徐々に衰え、15世紀になるとカザン・ハン国、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国、クリミア・ハン国などに分裂した。1478年、イヴァン3世は、ノヴゴロド公国に侵攻して併合し、1480年には弱体化したジョチ・ウルスからの独立を宣言した。また、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、ローマ皇帝の称号であるツァーリを名乗った。つまり、モスクワ大公国はビザンツ帝国(ローマ帝国)の後継者であると示したのである。

イヴァン4世
1530〜1584年

 

 

 

 

 

 

 

各国の歴史


イェルマーク

 次のイヴァン4世(雷帝)は、反対派を粛正して専制的な政治を始め、領土拡張に力を注いだ。東側にあったカザン・ハン国やアストラハン・ハン国を征服し、1581年にはコサックの首長イェルマーク(Yermak)が遠征隊を率いてシビル・ハン国に進出した。シベリアという地名は、シビル・ハン国の名に由来している。イェルマークはシビル・ハン国との戦いで戦死するが、その後もロシアの攻撃は続き、1598年にシビル・ハン国を滅ぼした。

 バルト海方面では、ポーランドやスウェーデンと戦った。この戦いはリヴォニア戦争と呼ばれ、1558年から25年間続いた。ロシアは敗北、バルト海進出の野望はくじかれた。

 リヴォニア戦争中の1568年には、オスマン帝国とクリミア・ハン国がロシアを攻撃した。この戦争は2年後に講和するが、その後何度も行われた露土戦争の始まりだった。続いて1571年にはクリミア・ハン国がリトアニアと同盟してロシアに侵攻した。モスクワは焼き払われたが、その後ロシア軍も反撃し撃退した。タタール人のロシア侵攻はこれが最後となった。

ロマノフ朝

 

 

 

 

 

 

 

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ピョートル大帝

 1598年にイヴァン4世の息子が死去すると、リューリク朝は断絶した。更に1605年から1618年にかけてロシア・ポーランド戦争が始まり、ポーランド・リトアニア連合軍はモスクワを占領、また、スェーデンも介入してノヴゴロドを占領した。この国家の危機にロシア国民軍が創設され、モスクワを奪い返した。そして、1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに選び、ロマノフ朝が始まった。

 1682年にピョートル大帝が即位し、国政改革や農業振興を行い国力を充実させた。軍事力を背景にシベリア進出を推し進め、ネルチンスク条約を結んで両国の国境を定めた(1689年)。また、オスマン帝国が支配する黒海北岸のアゾフを占領し、1700年から21年間、カルル12世率いる無敵のスウェーデン軍と戦い、焦土作戦で打ち破った(大北方戦争)。

 この戦争の勝利によりバルト海沿岸を獲得してサンクト・ペテルブルク(聖ペトロの町)を建設した。そして、ピョートルは皇帝を名乗り、モスクワ大公国はロシア帝国(帝政ロシア)になった。

エカテリーナ2世

エカテリーナ2世

 1762年、第7代皇帝ピョートル3世は妻のエカテリーナに廃位・幽閉され、彼女がエカテリーナ2世として即位した。彼女はまず1773〜75年にかけて発生したコサックや農奴の反乱(プガチョフの乱)を鎮圧し専制政治を強化した。更に、弱体化した周辺諸国に侵略し領土拡大を活発におこなった。

 ポーランドに対してはオーストリア、プロイセンとともに3次にわたってポーランド分割を行い、ポーランド東部を獲得した。また、オスマン帝国に侵攻して露土戦争を引き起こし、黒海沿岸やクリミア半島まで手に入れた。さらに、オスマン帝国が支配していたコーカサス地方にも侵略して併呑した。コーカサス地方への侵略は現在まで続くチェチェン紛争の原因になっている。

 アメリカ独立戦争時にはイギリスの対米海上封鎖に反対して間接的に独立を支援した。また、東方にも触手を伸ばし、オホーツク海に達する領土を獲得した。1792年には函館にラクスマン(Laxman)を派遣して江戸幕府に通商を求めている。フランス革命がおこると革命への対抗から農奴制を強化し、専制政治を厳しくする反動的な政治を行った。

 彼女の私生活は乱れていて、生涯に公認の愛人10人とそれ以外に数100人の愛人がいた。夜ごと人を変えて寝室をともにし、孫のニコライ1世は彼女のことを「玉座の上の娼婦」と酷評した。ニコライ1世は、日露和親条約クリミア戦争の時の皇帝である。

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【参考資料】