ハンガリー
ハンガリー
マジャールの部族長達、右がアルパード
(ブダペスト英雄広場)

 かって、ハンガリー平原はパンノニア(Pannonia)と呼ばれ、パンノニア族が住んでいた。BC1世紀にローマのアウグストゥスが侵攻しローマの属州となった。4世紀後半になるとフン族が侵入し支配した(433年)。フン族はアッティラの時代にローマを脅かすが、アッティラの死後消滅した。その後、東ローマ帝国がハンガリーを支配した。6世紀になるとアヴァール人(Avars)が侵入し東ローマ帝国を脅かすが、カール大帝のフランク王国に破れその支配下に入った(795年)。

 フランク王国の影響が弱まるとウラル方面からマジャール人(Magyar)が移住し、896年にアルパードが他の6人の部族長をとりまとめて統一国家を建設した。マジャール人はイタリアやドイツを侵略したが、955年にドイツのオットー1世と戦って破れハンガリー平原に定住した。

ハンガリー王国
イシュトヴァーン1世(ブダペスト王宮)

 アルパードの子孫イシュトヴァーン1世(Istvan)は、1000年のクリスマスにキリスト教に改宗した。そして、ローマ教皇からハンガリー王に戴冠されハンガリー王国が誕生した。イシュトヴァーンの死後、王位継承をめぐって内乱に突入した。

 1077年に即位したラースロー1世は、国内の混乱を収めた。彼が即位した1077年は、カノッサの屈辱が起こった年で、ドイツは叙任権闘争の最中にあった。神聖ローマ皇帝の圧力に苦しんでいたラースローは、教皇グレゴリウス7世を支持し、トランシルヴァニアやドナウ川下流に勢力を伸ばした。また、王家が断絶したクロアチアを征服し、アドリア海沿岸のダルマチアに進出した。これにより、東ローマ帝国、ローマ教皇、ヴェネツィアなどとアドリア海沿岸をめぐる抗争に巻き込まれた。

 次のカールマーン1世は、ハンガリー国内を通過する十字軍の略奪や破壊行為に苦しめられた。しかし、無法な十字軍を厳しく取り締まり、最終的にはゴドフロワ・ド・ブイヨンと協定を結んでその脅威を取り除いた。1102年、カールマーンはクロアチア王となり、ダルマチアへ遠征してヴェネツィアが領有していた町や島々を占領した。

 ハンガリーはベーラ3世(Bela、1148〜1196年)の頃に最盛期を迎え、東ローマ帝国と同盟を結んで国内を安定させた。また、ボスニアやセルビア、クロアチア、ダルマチアなどに進出した。彼の死後、相続争いで国内は乱れ、彼の次男アンドラーシュ2世(またはエンドレ2世)はロシア遠征や十字軍に失敗し衰退した。

モンゴル侵攻

 1241年、バトゥ率いるモンゴル軍がハンガリーに侵攻し、ベーラ4世はこれを迎え撃ったが、モヒ草原の戦いで惨敗し、ダルマチア沿岸の孤島に逃亡した。ハンガリーはモンゴルに占領され壊滅した。翌年、モンゴル軍はオゴデイ・ハンの死により撤退し、ベーラ4世はハンガリーに帰国、国内の再建に取りかかった。

 まず、モンゴル軍の再侵攻に備えてハンガリーの各地に城塞を建設した。さらに国内再建を優先して大貴族層と和解して政治を安定させた。また、破壊されたブダに、新たな宮殿を築き、今日のブダペストの繁栄の基礎を築いた。彼は国内の復興に成功を収め、『ハンガリー第2の建国者』と呼ばれた。

 14世紀から15世紀には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。

オスマン帝国の支配

 

 

 

 

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ブダの王宮から見たくさり橋(対岸がペストの町)

 15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年、モハーチ平原でハンガリー王国とスレイマン1世率いるオスマン帝国と会戦し(モハーチの戦い)、ハンガリー軍は完敗、国王ラヨシュ2世は戦死した。

 1541年にブダが陥落して、ハンガリは南部と中央部をオスマン帝国、北西部はハプスブルク家によって分割支配された。最初のハプスブルク家のハンガリー王には神聖ローマ皇帝フェルディナント1世が即位した。

 1683年のオスマン軍による第2次ウィーン包囲が失敗すると、オスマン帝国は急速に衰退していった。この包囲戦をきっかけに神聖同盟各国やロシアはオスマントルコが支配しているヨーロッパ領に侵略していった。1699年のカルロヴィッツ条約により、オスマン帝国はハンガリーから奪い取った領土のほぼ全てをハプスブルク家へ割譲した。ハプスブルク家はハンガリー全土を支配するようになった。

オーストリア・ハンガリー二重帝国
ブダペスト駅構内

 18世紀になるとオーストリア継承戦争や七年戦争が起き、神聖ローマ帝国は形骸化していき、最終的にナポレオンによって消滅させられた(1806年)。ハプスブルク家は、オーストリア帝国として中東欧に広がる領域(ハプスブルク君主国)を支配した。

 1848年、ヨーロッパ中にフランス革命の余波が吹き荒れ、民族の自治を求める動きが活発化した。多民族国家であるオーストリアとハンガリーは、国内の民族問題に協力して対処するため、オーストリア・ハンガリー二重帝国を発足させた(1867年)。

 この帝国の皇太子がサラエヴォで暗殺されると第一次世界大戦が勃発、ハンガリーは同盟国側で戦うが敗れ、帝国は解体した。敗戦国ハンガリーと連合国の間にトリアノン条約(1920年)が結ばれ、ハンガリーは固有の領土スロバキア、クロアチア、トランシルバニアを周辺の戦勝国であるチェコやセルビア、ルーマニアに割譲した。ハンガリーの国土は現在の広さに大幅縮小され、多くのハンガリー人が国外に取り残された。

ハンガリー共和国
ドナウ川のほとりに建つ国会議事堂(ブダペスト)

 この状況にハンガリーは右傾化し、第二次世界大戦では枢軸国側で戦って敗れ、国土はソ連に占領された。1949年、共産主義国家ハンガリー人民共和国ができ、ソ連の衛星国となった。しかしソ連に対する反発は根強く、1956年にはハンガリー動乱が起きた。ソ連軍はただちに介入して民衆蜂起を鎮圧、数千人の市民が殺害され、25万の人々が難民となって国外へ逃亡した。

 1980年代に入ると、冷戦終結の機運が高まり、共産党独裁の限界が明らかになった。1989年、ハンガリーは一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法を改正してハンガリー共和国となった。同年5月、ハンガリーはオーストリア国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到する汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、11月にはベルリンの壁が崩壊し冷戦は終結した。

 1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。

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【参考資料】