第一次世界大戦(World War I)
あらまし

 第一次世界大戦は、1914年6月に起きたサラエボ事件が発端となって1918年まで続いた戦争である。戦いはドイツオーストリアオスマン帝国、ブルガリアの同盟国と、三国協商を結んでいたイギリスフランスロシア連合国との間で行われた。日本、イタリア、アメリカなど世界の29カ国も連合国側について参戦した。主戦場はヨーロッパだったが、アフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋など世界各地で戦われた。

 開戦当初、人々はクリスマスまでには戦争が終わると楽観していた。しかし、軍隊は巨大化しており、昔のように一つの戦いで勝敗を決着させることができず、また徴兵制によって次々と兵員を補充できたため長期戦となった。特に西部戦線では機関銃の弾幕を避けるために塹壕戦が主流となり泥沼の戦いが繰り広げられた。参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられ、5年にわたる戦争で900万人以上の兵士が戦死した。

 イギリスではこの戦争は「The Great War(大戦争)」と呼ぶ。イギリス軍の戦死者は、本国:75万人、自治領:16万人、インド:7万人であり、民間人も29万人が犠牲になっている。これは第二次世界大戦の戦死者の5倍にあたる。フランスも軍人140万人、民間人35万人で第二次世界大戦の3倍の戦死者を出している。ロシアは軍人200万人、民間人100万人、ドイツは軍人205万人、民間人60〜80万人が犠牲になった。また、オーストリアやオスマン帝国、ブルガリアでも多大な被害が出た。

三国同盟と三国協商

 1867年、オーストリア・ハンガリー帝国が誕生し、ハプスブルク家がオーストリアとハンガリを統治した。この帝国はドイツ人、マジャール人など16の民族が住む多民族国家で、国内は不安定だった。一方、スラブ人国家のセルビアは、1912年のバルカン戦争で領土を2倍に拡大し、オーストリア・ハンガリー帝国内のスラブ民族独立運動を支援していた。セルビアの背後にはロシアが控えており、バルカン半島は緊迫した状態にあった。

 ドイツは普仏戦争でフランスを破り、アルザス・ロレーヌ地方を手に入れた。ドイツの宰相ビスマルクは、フランスを孤立させるためオーストリア、イタリアと三国同盟を締結(1882年)、ロシアとはバルカン半島進出を黙認する見返りに軍事同盟(独露再保障条約)を結んだ。このビスマルク体制によってヨーロッパは平和な時代を享受できた。しかし、ビスマルクが失脚するとロシアとの条約は破棄され、ロシアはフランスと露仏同盟を締結、ビスマルク体制は崩れた(1894年)。

 イギリスは、ドイツに対抗するため1904年にフランスと英仏協商を締結した。これにより両国の植民地における対立は解消され、百年戦争以来の敵対関係に終止符が打たれた。また1907年にはイラン、アフガニスタンにおけるロシアとの紛争を解消するため英露協商が締結された。こうしてヨーロッパは、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立が深まっていた。

サラエボ事件と第一次世界大戦

 オスマン帝国領ボスニア・ヘルツェゴビナは、露土戦争後オーストリアが統治していた。1908年、トルコで青年トルコ革命が発生し、革命による民族運動の激化を恐れたオーストリアはボスニアを併合した。ボスニアには多くのセルビア人が住んでおり、この併合にセルビアは猛反発した。そんな緊張が続く1914年6月、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が軍事演習視察のためボスニアのサラエボを訪問した。市内を視察する皇太子夫妻をボスニア系セルビア人が襲撃して暗殺した。

 オーストリアは暗殺計画に関与しているセルビアに懲罰的な最後通牒を突きつけた。セルビアは要求の一部を拒否、オーストリアは7月28日に宣戦布告した。当初はオーストリアとセルビアの局地的な戦争のはずだった。しかし、セルビアを支援するロシアが総動員令を発令して戦争準備に入ると、オーストリアの後ろ盾となっていたドイツはロシアに宣戦布告した(8月1日)。この動きにロシアの同盟国フランスもドイツに宣戦布告した(8月3日)。

 ドイツはフランスとロシアと同時に戦う作戦計画(シュリーフェン・プラン)を持っていた。これは、まずフランスを1ヶ月半で叩き、その後反転してロシアを攻撃するというものだった。ロシアは電信網や鉄道網が未発達で、戦闘体制が整うまで6週間はかかると見ていた。ドイツはこのプランに基づいて160万の兵力を西部国境に集結し、中立国ベルギーに侵攻した(8月4日)。

 イギリスはドイツの中立国侵犯を非難しドイツに宣戦布告した。こうしてバルカン半島の戦火はわずか1週間でヨーロッパ全土に飛び火した。イギリスの参戦によりイギリス連邦のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦、日本も日英同盟により参戦した。一方、ロシアの侵略に苦しむトルコセルビアと対立していたブルガリアは同盟国側に付いた。


サラエボ事件を描いた新聞挿絵

皇太子を襲ったのは、セルビア民族主義者の秘密組織黒手組のメンバーである

緒戦

 オーストリアはドイツと連携してセルビアを攻撃する予定だった。しかし、ドイツがフランス戦を優先し、ロシアがガリツィア(ウクライナ南西部)に侵攻してきたため作戦を大幅に修正せざるをえなかった。結局、単独でセルビアに侵攻したが、バルカン戦争で鍛えられたセルビア軍に撃退された。

 西部戦線では、ドイツ軍はベルギー軍の執拗な抵抗を排除しながらフランスに侵攻し、迎え撃つ英仏軍を圧倒しながらパリに迫った。英仏軍はパリ近郊のマルヌでようやくドイツ軍の進撃を食い止めた。そして両軍は塹壕を構築し4年にわたる持久戦に入った。両軍の塹壕は、スイス国境からベルギーの海岸まで続いた。1ヶ月半でフランス戦を終わらせるシュリーフェン・プランは完全に頓挫した。

 東部戦線では、ロシアは予想より速く軍を展開し東プロイセンに侵攻した。ドイツは西部戦線から兵力を割いて応戦しタンネンベルクでロシア軍を撃破した。勢いに乗るドイツ軍はワルシャワを占領し、ロシアをポーランドから追い出した。この戦いは1410年にポーランドがドイツ騎士団を破ったタンネンベルクの戦いと同じ名前が付けられた。


オーストリアの皇太子が襲われたラテン橋(サラエボ)

日本の参戦

 

 

 

 

 

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 日本はいち早く参戦した。名目は日英同盟による参戦だったが、本当の狙いは中国における権益の拡大だった。陸軍は中国山東省にあるドイツの租借地青島を占領、海軍はドイツが支配するパラオ、サイパン、トラックなどの南洋諸島を攻略した。日本はドイツから奪った山東省の権益を中国に返さず、さらに満洲や蒙古における権益拡大を要求する対華21カ条要求を行った。連合国は日本の動きを警戒しつつも更なる支援を要請した。日本はインド洋や地中海に艦隊を派遣し、連合国の輸送船団の護衛活動を行った。ドイツのUボートとの戦闘も行われ78名が戦死した(マルタ島に墓碑が建立されている)。

【板東俘虜収容所】青島で降伏したドイツ兵約1000人が四国の板東俘虜収容所に送られた。収容所長の松江中佐は会津藩士の子弟で、賊軍としての悲哀を味わった体験から人道的な対応をした。俘虜たちは地域の人々と交流することができ、パンやチーズ・バターなどドイツの文化を伝えた。また、日本初のベートーベン交響曲第9番の演奏も行われた。


俘虜が造ったドイツ橋(鳴門市大麻比古神社裏)
ガリポリの戦い

 オスマン帝国は、バルカン戦争で失ったバルカン半島の領土回復を願っていた。そこに、ドイツからロシアの背後を突くようにとの要請があった。親独派の陸軍大臣エンヴェルは、黒海にあるロシアの港を攻撃し(1914年10月)、コーカサス方面からロシアに攻め入った。

 ロシアは連合国に支援を要請、イギリスの海軍大臣チャーチルはダーダネルス海峡のガリポリ半島からイスタンブルに進撃する作戦を立てた。この作戦にはイギリス・フランス軍に加えて、初の海外遠征を行うオーストラリア・ニュージーランド軍も参加した。トルコはムスタファ・ケマルが率いる最精鋭の部隊で迎え撃った。連合軍はガリポリ半島に上陸はしたが、抵抗が激しく進撃できなかった。半年後、連合軍は敗退した(ガリポリの戦い)。

【アンザック・デー(ANZAC Day)】ANZACとはオーストラリア・ニュージーランド軍団のこと(Australia and New Zealand Army Corps.)。毎年、ANZAC軍がガリポリ半島に上陸した4月25日に追悼式を行っている。


ガリポリ半島(ゲリボル半島 トルコ)
オスマン帝国の戦い

 ロシアはコーカサス方面で攻勢に転じ、トルコ軍を押し返しトルコ領内に進撃した。この時トルコ軍は、ロシアに協力するアルメニア人の蜂起を恐れ、アルメニア人虐殺を行った。1917年にロシア革命が起こりロシア軍は崩壊したが、トルコ軍に追撃する余力はなかった。

 イギリスはトルコ支配下のアラブ人に独立を約束して反乱を起こさせた。この任務にあたったのがアラビアのロレンスである。ロレンスとアラブ反乱軍はトルコの拠点アカバやダマスカスを攻略した。しかし、サイクス・ピコ協定の内容が革命ロシアによって暴露され、アラブ軍はイギリスの裏切りを知った(イギリスの3枚舌外交)。

フサイン・マクマホン協定 (1915年) メッカの太守フサインとイギリスの高等弁務官マクマホンとの間でかわされた書簡 オスマン帝国支配下のアラブ人の独立を約束してアラブの反乱を起こさせた
サイクス・ピコ協定
(1916年)
イギリスのサイクスとフランスのピコとロシアによって作られたオスマン帝国分割の秘密協定 イラクとシリア南部をイギリスに、シリア北部をフランスに、コーカサスをロシアにパレスチナを国際管理下にする
バルフォア宣言(1917年) イギリスの外務大臣バルフォアがユダヤ系財閥ロスチャイルドに送った書簡

パレスチナにユダヤ人居住地の建設を認め、ユダヤから戦争資金を調達した


ゲガルド修道院(アルメニア)

 アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした。ゲガルドとはアルメニア語で槍のことで、この教会にキリストの脇腹を突いた槍(ロンギヌスの槍:ロンギヌスは兵士の名前)が保管されていた。アルメニアは第一次世界大戦後にソ連の一員となるが、1991年のソ連解体によって独立した。

イタリア戦線とバルカン戦線

 

 

 

 

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 イタリアイタリア統一運動の過程でオーストリアと戦っており、両国間には南チロルなどをめぐる領土問題が残っていた。このためイタリアはドイツと同盟関係にありながら中立を表明していた。1915年5月、連合国から有利な条件を提示されたイタリアはオーストリアに宣戦布告した。オーストリア国境の山岳地帯で戦闘が行われたが、貧弱な装備のイタリア軍は苦戦を重ね戦線は膠着した。

 1915年9月、セルビアと対立するブルガリアは同盟国に加わって参戦し、ドイツ・オーストリア軍とともにセルビアを攻撃してベオグラードを占領した。セルビア軍はアルバニアに敗走し、連合軍に救出されてギリシアのテッサロニキに送られた。その後、テッサロニキには英仏軍も上陸しバルカン半島反攻の拠点となった。1917年にはギリシャも連合国側に立って参戦した。

 1916年8月、中立を表明していたルーマニアは連合軍に参加し、オーストリアが支配するトランシルヴァニアへ侵攻した。迎え撃った同盟国軍はルーマニア軍を撃退し、逆にルーマニア領内に攻め込みブカレストを占領した。ルーマニアは当てにしていたロシアの支援を得られず降伏した。


テッサロニキの港(Thessaloniki)
一進一退の西部戦線

 1916年2月、ドイツ軍は膠着した西部戦線を打破するためにヴェルダン要塞(Verdun)に進軍した。フランス軍も必死で要塞を守った。凄惨な戦いは9ヶ月に及び、フランス軍は36万2000人、ドイツ軍も33万7000人の死傷者をだした。年末に作戦は打ち切られドイツ軍は撤退した。ヴェルダンは843年にフランク王国を3分割するヴェルダン条約が結ばれた町である。

 ヴェルダン戦が続いていた7月に、フランス北部のソンム(Somme)でイギリス軍は大攻勢をしかけた。ドイツ軍は攻撃を察知して反撃し、猛烈な消耗戦が行われた。4ヶ月にわたる戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出した。連合軍はわずか11km余りしか前進できなかった。


ヴェルダンの戦い

ロシア革命

 

 

 

 

 

 

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 ロシア皇帝ニコライ2世は積極的に前線を回った。内政は皇后アレクサンドラに委ねられ、彼女は怪僧ラスプーチンを頼りにした。ラスプーチンは彼女の息子アレクセイ皇太子の病気治療を行ったことから信頼され、政治にまで影響力を持つようになった。二人の仲は噂されるようになり国は乱れた。

 1917年2月、サンクトペテルブルクで食料配給改善のデモが行われた。長引く戦争に民衆の怒りは爆発し、また相次ぐ敗戦に嫌気がさした兵士達も加わって内乱状態になった。反乱はまたたく間に広がり、ついにニコライ2世は退陣しロマノフ朝は倒れた(2月革命ロシアの暦では3月革命)。

 革命後樹立された臨時政府は戦争の継続を表明し、ドイツ軍に攻勢をしかけた。しかし、猛烈な反撃を受け攻撃は失敗、兵士たちの厭戦気分は一気に高まった。この混乱期にレーニン率いる急進的なボリシェヴィキ(ロシア共産党)が勢力を伸ばし、武装蜂起して臨時政府を倒した(10月革命)。

 ボリシェヴィキ政府は休戦交渉を開始し、1918年にブレスト・リトフスク条約に調印して戦争から離脱した。この条約は、フィンランド、バルト3国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)、ポーランド、ウクライナの領土を割譲する屈辱的な内容だった。


演説するレーニン
無制限潜水艦攻撃

 ドイツの潜水艦は、開戦当初は中立国の船舶は攻撃せず、また攻撃対象の船舶は停船させて乗組員が救命ボートに乗り移ってから撃沈していた。戦局が逼迫してくるとこれらの手順を無視され、無警告で魚雷攻撃を加えた。

 1915年5月1日、豪華客船ルシタニア号はニューヨークを出航しリバプールに向かった。5月7日、ルシタニアは無事大西洋を横断し、アイルランド南部を航行していた。そこに帰投途中のドイツのUボート「U20」に発見された。攻撃されたルシタニアは18分で沈没、1,198名が犠牲となった。ルシタニアに乗船していた139名のアメリカ人のうち、128名が死亡した。アメリカは激怒した。

 この事件後、ドイツは無制限潜水艦攻撃を中止した。しかし、戦局が悪化すると再開した(1917年2月)。当初は多くの船が撃沈されたが、連合国も護送船団方式などの対策をとり被害は激減した。


攻撃を受けるイギリス商船ルシタニア号
乗客1,198名が死亡した(内アメリカ人は128名)

アメリカ参戦と同盟国の崩壊

 

 

 

 

 

 

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 アメリカはモンロー主義によって中立を宣言していたが、ドイツの無制限潜水艦攻撃再開によってアメリカ商船が撃沈されると世論は参戦に傾き、1917年4月にドイツに宣戦布告した。当時アメリカ陸軍は15万程度の兵力しかなかったが、すぐに徴兵制を導入して軍を増強した。

 1918年3月、ドイツはロシアと対峙していた部隊を西部戦線へ移動させ、最後の決戦を挑んだ。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突き、パリの東方100キロに迫った。そしてパリに183発の砲弾を撃ち込んだ。ヴィルヘルム2世はこの日を国民の祝日であると宣言し、多くのドイツ人が勝利を確信した。しかし、5月になると連合軍は反撃を開始し、無傷の100万のアメリカ軍の出現で西部戦線は連合軍有利に傾いた。9月には連合軍の総攻撃が開始されドイツの敗北は決定的となった。

 戦争の長期化は同盟国を苦しめ、1918年になると各国で反乱が起こった。8月にブルガリアが戦線を離脱、オーストリア・ハンガリ帝国では諸民族が次々と独立し帝国は解体した。10月にはイギリス軍とアラブ軍がダマスカスに入城し、オスマン帝国も戦線を離脱した。

 そして、11月にドイツのキール軍港で水兵の反乱が起き、皇帝ヴィルヘルム2世は退位、ドイツ帝国も崩壊した。休戦交渉はパリ郊外のコンピエーニュの森で開始され、11月11日に休戦協定が調印された。


休戦の客車アルミスティス号(Armistice:休戦) 第一次世界大戦と第二次世界大戦の休戦協定が行われた
講和会議

 1919年1月に32ヶ国が参加してパリ講和会議が開始された。講和会議はアメリカ大統領ウィルソンが提唱した14ヶ条の平和原則を基本原則にして進められた。この平和原則では、秘密外交の廃止・公海の自由などの国際協調や民族自決、国際連盟の設立などが謳われている。

 連合国とドイツの間にはヴェルサイユ条約が締結された。ドイツ以外の敗戦国ともそれぞれ講和条約が締結された。会議は戦勝国のみで行われ、敗戦国ドイツや戦線離脱したロシア(ソ連)は呼ばれなかった。ドイツにはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲、植民地の全面放棄、多額の賠償金が課せられた。ドイツのアフリカ植民地は欧米各国の委任統治領に、中国の山東半島や南洋諸島(パラオ、マーシャル諸島など)は日本の委任統治領となった。キプロス島はトルコからイギリスに割譲された。

 民族自決についてはハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、ユーゴスラヴィア、バルト3国などロシアやオーストリアに支配されていた国々が独立した。中東ではアルメニア、クルディスタンが独立、イラク、ヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治領に、シリア、レバノンはフランスの委任統治領となった。

 講和会議のもう一つの成果が、アメリカの大統領ウィルソンが提唱した国際連盟の設立である。最初の加盟国は42カ国で、イギリス・フランス・日本・イタリアといった列強が常任理事国となり、1926年にはドイツ、1934年にはソ連も加盟した。その後加盟国は60カ国になったが、徐々に脱退し減少していった。また、アメリカは上院の反対により講和条約を批准せず、国際連盟にも参加しなかった。


ヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された講和条約

普仏戦争後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世はこの部屋で戴冠式を行った

ロシア内戦とシベリア出兵

 ロシア革命後、ボリシェヴィキ政府に不満を持つ旧ロシア軍の将校たちが各地で軍事行動を開始した(白軍)。これを鎮圧するためトロツキー率いる赤軍が創設され、内戦が始まった。赤軍と戦う反乱軍の中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍の捕虜で編成されたチェコ軍団という軍団がいた。

 当時チェコスロバキアはオーストリア・ハンガリ帝国の支配下にあり、チェコ人やスロバキア人は東部戦線でロシア軍と戦っていた。その中で独立を目指すチェコ人兵士たちは、自らロシア軍に投降してチェコ軍団を編成し、今度はチェコの独立のためドイツやオーストリアと戦い始めた。ところが、ロシア革命が起きるとロシアは戦線離脱し、チェコ軍団はロシア領内に取り残された。そこで軍団はシベリア鉄道でウラジオストクに行き、そこから船でヨーロッパの西部戦線に向かうことになった。移動を開始してほどなくシベリア鉄道の途中駅で赤軍とトラブルが発生し、戦闘に発展した。軍団はシベリア鉄道沿線の主要都市を制圧したが、食料や弾薬の補給はなく次第に孤立していった。

 連合軍はチェコ軍団の救出に動いた。これがシベリア出兵である。名目はチェコ軍団の救出だったが、真の目的はロシアの革命政権を打倒することだった。アメリカやイギリス、フランスは数千人程度の派兵だった。しかし、領土的野心がある日本は12,000人を派兵、さらに「満州周辺の不穏に備える」との理由で増派を繰り返し、最終的には73,000人もの兵士を送り込んだ。また、ウラジオストックより先には進軍しないという約束を破り、奥地のイルクーツクまで進軍した。

 やがて、ドイツとオーストリアが降伏して第一次世界大戦が終結し、チェコスロバキアの独立が承認された。目的を失った各国の部隊は撤退を開始し、チェコ軍団も帰国の途についた。残るは日本軍だけとなった。陸軍首脳は7万もの大軍を手ぶらで帰す訳にはいかないと駐留を継続させた。しかし、何の成果も得られず、世界の批判を浴び、ようやく1922年になって撤退を完了した。

 この内戦と干渉戦争はボリシェヴィキの一党独裁を強め、ボリシェヴィキ以外の政党は非合法化された。そして反体制派のロシア人が大量に亡命した(白系ロシア人)。


映画ドクトルジバゴ

 チェコスロバキアは、第一次世界大戦後にオーストリアから独立した。1939年にはナチス・ドイツに占領されるが、1945年にソ連軍が解放した。ソ連が崩壊すると共産党体制が崩れ、1993年にはチェコ共和国スロバキア共和国に分かれた。

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 ドクトル・ジバゴはロシア革命に翻弄される医師のジバゴと恋人ララの運命を描いた小説。ソ連のパステルナーク作。 この作品はロシア革命を批判しているとしてソ連でなくイタリアで発表された。翌年、ノーベル文学賞にノミネートされたが、ソ連共産党の反対により受賞を辞退させられた。

【参考資料】
<世界の歴史26> 世界大戦と現代文化の開幕
木村靖二、柴宣弘、長沼秀世 中央公論社
<世界の歴史8> 帝国の時代 J.M.ロバーツ 創元社
帝国主義の時代 西川正雄 南塚信吾 講談社
第一次世界大戦 山室真一、岡田暁生他 岩波書店
第一次世界大戦の歴史図鑑 H・P・ウィルモット 創元社