ラテンアメリカ
ラテンアメリカ

 ラテンアメリカとは、ラテン民族のスペインやポルトガルが支配した中南米やカリブ海地域のことである。その呼称は19世紀半ばにメキシコを侵略したフランスが使い始め、その後中南米の一般的な呼び名になった。

 コロンブスの新大陸発見以来、カリブ海はスペインが支配していた。17世紀に入るとスペインが放置したジャマイカやバルバドスなどにオランダやイギリス、フランスが侵入してきた。彼らは黒人奴隷を使った大規模な砂糖プランテーションを建設し、ばく大な利益を上げた。

 18世紀になるとスペイン継承戦争が起こり、スペインの支配力は更に低下した。1780年、ペルーでインカ皇帝の子孫トゥパク・アマル2世(本名コンドルカンキ)が大規模な反乱を起こした。反乱軍はクスコに迫ったが、体勢を立て直したスペイン軍に鎮圧された。コンドルカンキは馬に引かれる八つ裂きの刑にされた。この反乱は5ヶ月で鎮圧されたが、スペインの威信は大きく揺らぎ、各地で反乱が起きた。また、アメリカ独立戦争フランス革命にも影響され、独立の気運が高まっていった。

ハイチ

 

 

 

 

 

 

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フランスが建設したサン・スーシ城(ハイチ)

 ラテンアメリカで最初に独立した国は、フランスの植民地だったハイチである。ハイチがあるイスパニョーラ島はスペインの植民地だったが、1600年頃から島の西側にフランスやイギリスの海賊が勝手に住み始めた。その後、フランスのルイ14世が進出し、島の西部をサン・ドマングという植民地にした(1697年)。フランス人は砂糖のプランテーションでばく大な利益を上げた。

 フランス革命が起こるとサンドマングで独立運動が始まり、黒人奴隷トゥーサンが率いる反乱軍が全土を掌握、奴隷を解放した。しかし、ナポレオンは大軍を派遣して鎮圧し、トゥーサンを処刑した。「人間の自由と平等」を謳った人権宣言は無視され、奴隷制が復活した。

 奴隷達は抵抗を続けた。ナポレオンに敵対するイギリスやスペインも奴隷達を支援し、アメリカも武器を提供した。その結果1804年に初の黒人共和国としてハイチが独立した。島の東側は、1844年にドミニカ共和国がスペインから独立した。

スペイン植民地の独立

 1805年のトラファルガー海戦でスペイン艦隊は全滅し、イギリスが海上の覇権を握るとスペインの植民地は孤立状態となった。さらにスペイン国王フェルナンド7世がナポレオンによって罷免され、彼の兄のジョゼフが国王になると、本国は内乱状態になった。そして、植民地では、クリオーリョと呼ばれる植民地生まれのスペイン人が主導する独立運動が始まった。とくに次の二人は「解放者」として今でも多くの人に慕われている。

シモン・ボリバル (Simon Bolivar)
1783年にベネズエラの大富豪の家に生まれる。ヨーロッパに留学し、帰国後独立運動に参加した。ベネズエラの首都カラカスで蜂起し、苦難の戦いの末にベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドルを合わせた地域を解放して大コロンビアを建国、大統領に就任した(1819年)。更にペルーやボリビアにも兵を進めて独立を支援した。

シモン・ボリバル(メキシコシティ)
サン・マルティン (Jose de San Martin)
1778年にアルゼンチンの軍人の家に生まれる。7歳の時にスペインに渡り、22年間スペイン軍に所属。アルゼンチンで5月革命が起こると帰国し、独立を勝ち取る(1816年)。その後チリやペルーに遠征し、1818年にチリを、1821年にペルーを解放した。

サンマルティン(リマ)
コロンビア
ベネズエラ
エクアドル
パナマ

 

 

 

 

 

各国の歴史


ピサロが建設したリマのカテドラル(アルマス広場)

 ボリバルは南米に統一的な国家を建設してスペインに対抗しようとしたが、他の国の理解が得られなかった。それどころか1830年には大コロンビア内で反乱が起き、ベネズエラやエクアドルが独立した。夢破れたボリバルはヨーロッパへ向かった。その途上で片腕のスクレが暗殺され、深い喪失感のうちに病死した。南米屈指の資産家だったボリバル家は、全ての私財を独立運動に投じ没落した。一方でかつての部下だった多くの将軍達は、独立戦争で私財を蓄え私腹を肥やした。

 大コロンビアはベネズエラコロンビアエクアドルに分裂した。その後、アメリカがパナマの独立を画策し、コロンビアからパナマが独立した。パナマ運河(Panama Canal)は第一次世界大戦開戦直後の1914年にアメリカの手によって開通した。

 ボリビアの国名やベネズエラの正式国名:ベネズエラ・ボリバル共和国にはボリバルの名前が付けられ、ベネズエラの通貨もボリバルである。ベネズエラの首都は将軍スクレの名前が付けられている(実質的な首都はラパス)。

アルゼンチン
パラグアイ
チリ
ペルー
ウルグアイ

ブエノスアイレス市議会

 イギリスはスペインの混乱に乗じてアルゼンチンのブエノスアイレスを占拠した。クリオーリョたちは反発し、スペインの助けを借りずにイギリス軍を撃退した。1810年、ナポレオンがスペイン本国をほぼ制圧すると、独立の機運が高まりブエノスアイレスで五月革命が起こった。この混乱期に北部のパラグアイは独自に独立し、アルゼンチンは1816年に独立した。アルゼンチンの人口は5月革命の頃は70万だったが、ヨーロッパからの移民を積極的に受け入れ現在は4000万人を超えている。人口の大半はヨーロッパ系の白人で原住民は迫害されている。

 チリはアルゼンチンからアンデスを越えて来たサン・マルティン軍によって解放され、1818年に独立した。サン・マルティンはさらに南に兵を進め、北から進撃してきたボリバルと協力してペルーを解放した。スペイン軍はペルー北部で抵抗を続けたが、シモン・ボリバルの武将スクレによって鎮圧された。

 ブラジルとアルゼンチンはウルグアイをめぐってアルゼンチン・ブラジル戦争を始めたが、イギリスが仲裁して1828年にウルグアイが独立した。

メキシコ

 

 

 

 

 

 

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メキシコシティーのカテドラル

 スペインは南北アメリカ大陸を支配するため、2人の副王をメキシコとペルーに派遣した。メキシコに派遣された副王はヌエバ・エスパーニャと呼ばれ、メキシコ、中米、北米、カリブ海とフィリピン諸島を統治した。ペルーの副王は南米全域を支配した。

 スペインの支配は300年続いたが、1810年に神父ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo)が反乱を起こし、独立運動が始まった。反乱は鎮圧されイダルゴは処刑されたが、スペイン本国で立憲革命(1820年)が起こると独立運動は急展開し、1821年にメキシコ帝国が独立した。

 しかし2年後にはメキシコ帝国は崩壊し共和国になった。この混乱期に中米のグアテマラ、エルサルバドル、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラスなどが相次いで独立した。1898年に米西戦争が起こり、ラテンアメリカの最後の植民地キューバがスペインから独立した。

ブラジル
コルコバードのキリスト像(リオデジャネイロ)

 ブラジルは1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルに発見され、ポルトガルの植民地となった。1807年にナポレオン大陸封鎖令を無視したポルトガルに侵攻すると、ポルトガル宮廷はリスボンからリオ・デ・ジャネイロに逃亡した。本国政府が植民地に移転する形でポルトガル・ブラジル連合王国ができた。

 ナポレオンが没落するとポルトガルで自由主義革命が起こり、 ブラジルに亡命していたジョアン6世はリスボンに帰還した(1821年)。皇太子はブラジルに残留し、ペドロ1世(Pedro)となって、ポルトガルから独立したブラジル帝国の皇帝に即位した(1822年)。その後、軍部のクーデターが発生し、ブラジルは共和制に移行した(1889年)。

【コルコバードのキリスト像】1931年にブラジル独立100周年を記念して建てられたキリスト像。高さ30メートル、左右28メートル。

テキサス

 

 

 

 

 

 

50音別索引


アラモ伝道所(テキサス州サンアントニオ)

 メキシコのテハス州(テキサス)には、多くのアメリカ人が黒人奴隷を連れて入植していた。この入植は「テキサスの父」といわれるスティーブン・オースティンによって推進された。州都オースティンは彼の名前に由来。

 フランス革命の影響でメキシコ政府が奴隷制廃止を宣言すると、アメリカ人入植者が反発、1835年にテキサス独立戦争が始まった。テキサス軍はアラモの戦いで全滅するが、「リメンバー・ザ・アラモ」をスローガンに反撃し、1836年にテキサス共和国として独立した。テキサスでは奴隷制が復活し、その後1845年に28番目の州としてアメリカに併合された。テキサス併合が、米墨戦争のきっかけとなった。

アラモの戦い(Battle of the Alamo)】 1836年2月、メキシコ軍とテキサス軍との間で行われた戦闘。テキサス軍にはテネシー州出身のデイヴィッド・クロケット(David crockett)をはじめアメリカ南部から多くの支援者が駆けつけた。戦いは13日間にわたって繰り広げられたが、テキサス軍は全滅した。

米墨戦争とナポレオン3世のメキシコ出兵
皇帝マキシミリアンの処刑(マンハイム市立美術館)

 アメリカがテキサスを併合し、ニューメキシコの領有を宣言すると、米墨戦争が起こった(1846年)。メキシコは完敗し、テキサスやカリフォルニアなどがアメリカに割譲された。メキシコは国土の半分を失った。

 膨大な債務を抱えていたメキシコは、外国債の利息支払いを停止した。これを口実にフランスのナポレオン3世が、イギリスとスペインを誘って武力介入した(1861年)。イギリスとスペインはすぐに撤退したが、フランスは撤退せずに首都を攻略した。そして、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンをメキシコ皇帝として送り込み、フランスの傀儡政権を発足させた。

 しかし、メキシコ軍の反撃は続き、南北戦争が終わったアメリカがメキシコを支援したため、フランス軍は撤退を開始した。メキシコに残ったマクシミリアンは、後ろ盾を失って各地で敗れ、最後は捕らえられ処刑された(1867年)。35歳だった。

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【参考資料】
ラテンアメリカ 大井邦明、加茂雄三 朝日新聞社