フランス革命
あらすじ

 18世紀後半のフランスは、ブルボン朝の絶対君主制(アンシャン・レジーム:古い体制)が続いていた。一方、ルソーやヴォルテールなどの自由を求める啓蒙思想が、国民の間に広まっていった。イギリスの立憲政治や自由・平等を掲げたアメリカの独立はこの傾向に拍車をかけた。

 1789年7月14日、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃したことを契機に革命が起こり、ルイ16世は処刑され王政は廃止された。その後、ジャコバン派による恐怖政治で混乱するが、1794年のテルミドールのクーデターでジャコバン派が粛清され、ナポレオンの帝政が開始された。

 フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の精神は、民主主義の土台となった。一方で、目的のためには社会の改造や暴力も正当化した点で、共産主義や全体主義にも大きな影響を与えた。


バスティーユ襲撃

三部会の召集

 フランスは莫大な財政赤字を抱えていた。ルイ14世の頃からの対外戦争やアメリカ独立戦争支援などの出費が原因だった。フランスには3つの身分制度があり、第一身分が聖職者、第二身分が貴族、第三身分は平民だった。国は少数の聖職者や貴族たちの特権階級に支配されていた。

 ルイ16世は改革派のテュルゴーやネッケルを蔵相に任命して、特権階級に課税しようとした。しかし、彼らの反発で挫折し、一部の貴族は王権を制限するため三部会の招集を迫った。

 1789年5月、第一、第二身分各300名、第三身分600名の議員がヴェルサイユに集まり、三部会が開催された。会議は最初から議決方法をめぐって対立し、進まなかった。これに愛想をつかした第三身分は、宮殿の球戯場に集り、自分たちが国民の代表であると宣言し、国民議会を発足させた。そして、憲法が制定されるまでは解散しないことを誓った(球戯場(テニスコート)の誓い)。


ベルサイユ宮殿(Versailles)

バスティーユ襲撃

 

 

 

 

 

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 国王は国民議会をしぶしぶ承認した。議会は直ちに憲法の起草に取りかかった。ところが国王は保守的な貴族に動かされ、武力で議会を弾圧した。これが引き金となってパリの民衆は1789年7月14日、火薬庫だったバスティーユ牢獄を襲撃した。パリの争乱はフランス各地に飛び火していった。

 8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を決め、アメリカ独立宣言を参考にしてフランス人権宣言を採択した。この宣言は全ての人間の自由・平等・博愛など近代市民社会の基本原理をうたったものである。しかし、国王はこれを認めず議会を弾圧した。

 10月5日、女性達を先頭にデモ隊がヴェルサイユに押し寄せ、国王と議会に食糧を要求した。そして、国王一族をパリのテュイルリー宮殿に幽閉した。ようやく国王は人権宣言を承認した。

 この時期の革命は、穏健なミラボーラファイエットなどが指導し、王政を廃止するまでの考えはなかった。1790年、三色旗を革命の旗とし、これが現在のフランス国旗になった。


民衆を導く自由の女神(ドラクロワ:ルーブル美術館)

ヴァレンヌ事件

 革命勃発後、多くの特権階級が国外へ亡命し始めた。王妃マリー・アントワネットは愛人のスウェーデン貴族フェルセンとオーストリアへの逃亡を計画した。1791年6月20日深夜、国王一家は秘かにテュイルリー宮殿を脱出した。フェルセンが手配した特別仕立ての馬車は、ゆっくりと国境に向かって進んでいった。

 翌朝、国王の逃亡に気付いた宮殿は大騒ぎになった。パリの民衆は失望し、それは怒りに変わった。もはや国王を支持する者はいなくなり、すぐさま追手が差し向けられた。

 馬車は予定よりかなり遅れてオーストリア国境の町ヴァレンヌ(Varennes-en-Argonne)に着いた。夜の10時を過ぎていた。事前に手配した王の警護兵はすでに解散していた。やがて追手が到着した。午前零時過ぎ、馬車はヴァレンヌの町民たちに取り囲まれ、翌朝パリへ連れ戻された。


パリへの帰還
革命戦争

 国王逮捕のニュースは革命の波及を恐れるオーストリアやプロイセンを驚かせた。特にオーストリア皇帝レオポルト2世は妹のアントワネットを心配していた。両国は「ルイ16世に危害を加えるな」と革命政府を脅迫したが、革命政府は激怒しフランス革命が革命戦争に発展するきっかけになってしまった(ピルニッツ宣言)。

 9月に国民議会は憲法を発布して解散し、有産市民によって選ばれた立法議会が召集された。この議会では、革命の進行を望まないフィヤン派と穏和共和主義のジロンド派が対立した。

 1792年4月、政権を握ったジロンド派は「我々は自由のために戦う用意がある」としてオーストリアに宣戦布告した。しかし、王党派が中心のフランス軍は戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍が国内に迫ってきた。この危機にパリの民衆は、王が外国に通じていると怒り、テュイルリー宮殿を襲った。国王一家はかってテンプル騎士団の本拠地だったタンプル塔に幽閉され、王権は停止された(8月10日事件)。フイヤン派は失脚した。

 革命政府は祖国の危機を訴え、義勇兵を募った。この中で、マルセイユの義勇兵が歌っていたラ・マルセイエーズがフランス国歌となった。フランス軍は反撃に転じ、敵を国外に押し返した。


トリアノン宮殿(Trianon)
ヴェルサイユ宮殿の離宮。マリー・アントワネットに与えられ、彼女はそこに農村に見立てた小集落を作った。

共和政の成立

 1792年9月、立法議会にかわって、男子普通選挙による国民公会が召集され、王政廃止と共和制の樹立を宣言した(フランス第一共和政)。国民公会では、急進的なジャコバン派が台頭し、これ以上革命の激化を望まないジロンド派と対立した。

 12月になるとルイ16世の裁判が始まった。彼は反革命と封建制度の象徴として有罪となり、わずか1票差で死刑が宣告された。彼はもはや国王ではなく、市民「ルイ・カペー」として裁かれた。

 1793年1月、革命広場(コンコルド広場)に太鼓が鳴り響き、馬車が入ってきた。多くの市民が見守る中、太った国王が馬車から降ろされた。国王は指輪をはずし妻に返すように頼み、断頭台を上っていった。「私を死につかせる者を許す。私の血がフランスのためになることを祈る」。最後の言葉だった。

 処刑は終わり、血まみれの首が高々と差し上げられると異様な喚声が嵐のように沸き起こった。


コンコルド広場
マリーアントワネットの処刑

 ルイ16世の処刑はヨーロッパを震撼させた。また、攻勢に転じたフランス軍がベルギーを占領したため、イギリスを中心に第一回対仏大同盟が結成された。フランスは全ヨーロッパを敵に回すことになった。1793年6月、ロベスピエール率いるジャコバン派が指導権を握り、ジロンド派を追い出した。ジャコバン派は急進的な施策を行い、反対勢力を次々とギロチン台に送る恐怖政治を始めた。

 マリーアントワネットは子供達から引き離されて、コンシェルジュリーの独房に移された。彼女はやつれ、髪は真っ白になっていた。10月14日、ついに裁判が始まった。裁判長の質問に彼女は毅然と答えた。しかし、結果は始めから決まっていた。12時間にもおよぶ長い尋問が終わり、死刑が宣告された。

 この日、パリの空はきれいに晴れていた。うしろ手に縛られた王妃が肥車に乗せられてコンコルド広場に現れた。集まった群衆はいっせいに声を上げた。彼女は静かに落ち着いていた。最後まで王妃として優雅で気品を失わずに断頭台を上っていった。

 太鼓の音が止み、群集の喚声が突然静まった。すべてが終わり、鳩が舞い上がった。37歳だった。


囚われのマリーアントワネット
(パリ コンシェルジュリー:Conciergerie)
テルミドールのクーデター

 ジャコバン派は、国家総動員令を出して、敵を撃退した。しかし、独裁政治に対する不満が高まり、またジャコバン派内部でも対立が始まり、急速に民衆の支持を失っていった。 1794年7月27日、国民公会に出席したロベスピエールは逮捕され、断頭台で処刑された(テルミドールのクーデター)。

 ジャコバン派の没落後、温和共和主義者が力をつけ、1795年10月に国民公会を解散して5人の総裁からなる総裁政府ができた。しかし、国内の混乱は収まらず、国民は政治理念よりも、社会の安定を願うようになった。国内の秩序を回復できるのは軍隊しかなく、このような時にナポレオンが登場した。

【フランス革命暦】革命によってグレゴリオ暦が否定され、新たに作られた暦。1792年9月22日から1年が始まり、テルミドールは7月19日〜8月17日、ブリュメールは10月22日〜11月20日である。革命暦はナポレオンによって廃止された。


ロベスピエール
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【参考資料】
王妃マリーアントワネット 遠藤周作著 新潮社