ベルギー、オランダ、ルクセンブルク
ベネルクス (Benelux)

 ベネルクス (Benelux) とは、ベルギー(Belgie)、オランダ(Nederland)、ルクセンブルク(Luxembourg)の3か国のことである。この地域はネーデルラント(低地地方)と呼ばれ、ローマのカエサルが侵攻しローマ帝国領土になった(ガリア戦争)。この頃にユトレヒト、ナイメーヘン、マーストリヒトなどの町が作られた。476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ネーデルラントはフランク王国に支配され、843年にフランク王国が分裂すると、今度は東フランク王国に吸収された。東フランク王国は神聖ローマ帝国に姿を変えていった。

 ネーデルラントは毛織物産業や海上貿易によって栄え、各都市は自治権を持って独立国のようにふるまった。15世紀になるとフランスのブルゴーニュ公(Bourgogne)が支配したが、1477年に国王シャルルが戦死しブルゴーニュ家の血筋が途絶えた。彼の一人娘のマリーはオーストリア大公マクシミリアンに嫁ぎ、ネーデルラントはハプスブルク家の所領になった。マクシミリアンは後に神聖ローマ皇帝となる。

 マリーの長男フィリップはスペインのカスティーリャ女王フアナと結婚し、その子供が神聖ローマ皇帝カルロス5世である。彼は新大陸を含む巨大なハプスブルグ帝国を統治した。彼の退位後、大帝国はオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれ、ネーデルラントはスペイン領となった。

 16世紀になると宗教改革がネーデルラントにも広まったが、熱心なカトリック教徒のスペイン国王フェリペ2世はプロテスタントを厳しく弾圧した。

オランダ独立戦争
(80年戦争:1568〜1648年)

包囲されたライデン(Leiden)の要塞
スペイン軍はライデンの町を包囲し、攻防戦は4ヶ月におよんだ。餓死寸前のライデンは、川の堤防を決壊させる作戦で救われた。その日、ふいに嵐がおこり川は増水し、すさまじい勢いの洪水がスペイン軍を押し流した(オランダ版神風)。

 ネーデルラントの貴族たちはプロテスタントの弾圧に抗議したが、スペインの執政官は彼らを「たかが乞食の群れ」とあざ笑って取り合わなかった。この時から彼らは自らを乞食党(ゴイセン)と名乗った。1568年、オラニエ公ウィレム1世をリーダーにして反乱を起こし、オランダ独立戦争が始まった。フェリペ2世は直ちに軍隊を派遣して反乱を鎮圧、反乱軍は海に逃れて海賊(海乞食:ゼーゴイゼン)となり、スペインの貿易船を襲撃した。

 1572年、26艘の海乞食はネーデルランドに上陸し反撃を開始した。ライデン攻防戦など各地で激しい戦いが繰り広げられたが、反乱軍はスペイン軍を徐々に圧倒した。1579年には北部7州によるユトレヒト同盟(Utrecht)を結成し、ネーデルラント連邦共和国として独立を宣言した。スペインは独立を認めず、オランダはイギリスに支援を要請した。そしてアマルダの海戦が行われスペインの無敵艦隊は壊滅した。1602年にはオランダ東インド会社を設立し、アジアのポルトガルやスペインの拠点を襲撃した。海外貿易によってオランダの財政は潤い、戦いを有利に進めることができた。

 1618年にドイツで始まった宗教戦争(30年戦争)はヨーロッパ全体に広がり、オランダはカトリック側のスペインに対抗してプロテスタント側で参戦した。30年続いたこの戦争は1648年にヴェストファーレン条約が結ばれて終結し、オランダの独立が正式に認められた。独立戦争が始まってから80年が経過していた。

 カトリック教徒が多い南部10州(現在のベルギーとルクセンブルク)では反乱は起きず、スペインの支配が続いた。

オランダの海洋進出

 

 

 

 

 

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長崎の出島(オランダが日本との貿易を独占した)

 オランダは独立戦争を戦いながら、スペインやポルトガルに対抗するためアジア航路の開拓を始めた。1595〜1597年にかけてジャワ島との往復に成功、1602年にはオランダ東インド会社(The Dutch East India Company)を設立した。この会社はポルトガルの貿易拠点を次々に奪ってアジアの貿易を独占した。

出来事
内容
1600
リーフデ号日本に漂着
ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスが活躍
1605
アジアに進出
ポルトガルよりアンボイナ島やスラウェシ島(Sulawesi:セレベス島)を奪取
1619
アジアの拠点を建設
ジャカルタ(バタヴィア(Batavia))に要塞を建設
1623
アンボイナ事件
イギリスをインドネシアから駆逐
1624
台湾占領
明と交戦して占領。1661年に明の鄭成功が奪取
1642
出島のオランダ商館
平戸から長崎出島にオランダ商館が移転
1656
セイロン島を奪取
ポルトガルからセイロン島(スリランカ)を奪取
リーフデ号(De Liefde) リーフデ号(東京 丸の内ビル)

 1598年、アジアを目指す5隻の船団がロッテルダムを出航した。船団はアフリカ西海岸を南下し喜望峰を回ってアジアに向かう予定だった。しかし、航海は大幅に遅れ、このまま喜望峰を目指してもインドに向かう季節風を捉えることは不可能になった。船団は引き返すべきか悩んだが、喜望峰を目指すことを諦めてマゼラン海峡を抜けて太平洋を横断する航路を選んだ。

 航海は苦難の連続で、マゼラン海峡に着くまでに6ヶ月を費やした。季節はすでに冬になり、船団は海峡の氷に4ヶ月閉じ込められた。待ちに待った春が来て船団は動き出した。海峡を抜けて太平洋に出ると今度は嵐が待っていた。船団はばらばらになり、1隻はオランダに引き返し、2隻はスペイン/ポルトガル艦隊に拿捕された。残った傷だらけの2隻は助け合いながら航海を続けた。しかし、またもや嵐が襲い1隻は沈没、残ったリーフデ号が大分県臼杵湾に漂着した(1600年)。 当初110人いた乗組員は24人に減り、その中にオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムスがいた。

 リーフデ号の乗組員は大阪に護送され、当時豊臣政権の五大老の一人だった徳川家康の謁見を受けた。イエズス会(カソリック)の宣教師達は新教国のオランダ人やイギリス人を即刻処刑するよう求めたが、家康は彼らを気に入り外交顧問に登用した。家康はキリスト教の布教を優先するポルトガルやスペインを嫌い、貿易のみを希望するイギリスやオランダに好感を持ったのである。

ウィリアム・アダムス
(William Adams)

ウィリアム・アダムス(伊東 按針メモリアル公園)

 半年後に起こった関ヶ原の戦いでは、リーフデ号の砲や砲員は東軍に従軍し、小早川秀秋の陣を砲撃して参戦を督促したといわれている。彼らの砲はポルトガル製の3倍の飛距離を飛ばすことができた。スペインやポルトガルは最新の技術を日本に教えようとしなかったのである。

 将軍となった家康は、ウィリアム・アダムスに西洋式の帆船を建造するよう命じた。彼は伊東に造船ドックを作り、80tと120tの2隻の船を建造した。家康は大いに喜び彼を250石取りの旗本に召し抱え、三浦按針の名を与えた。彼は初めて来日したイギリス人で、青い目のサムライとなった最初の外国人である。彼の名は按針通り(東京)や按針塚駅(京急)として残っている。

 1609年、マニラからメキシコに向かっていたフィリピン総督(ロドリゴ・デ・ビベロ)の船が、房総の御宿に漂着した。憐れに思った家康は120tの船を提供し、彼は無事メキシコにたどり着くことができた。この船には日本人22人が同乗し、アメリカ大陸へ渡った初めての日本人となった。この船はメキシコではサン・ブエナ・ベントゥーラ号(San Buena Ventura)と名付けられ、その後も航海に使用された。

 同じ年にオランダ船が平戸に入港し、日蘭貿易が本格的に始まった。ウィリアム・アダムスは平戸のオランダ商館やイギリス商館建設に尽力した。家康の死後、海外貿易は低調となった。彼は鎖国でも貿易が許された平戸に移り、細々と貿易を続けた。日本に漂着してから20年、55歳で没した。

ヤン・ヨーステン(Jan Joosten)

 

 

 

 

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ヤン・ヨーステン(左)とリーフデ号(右)
八重洲通り日本橋3丁目交差点

 オランダ人で日本名は耶楊子(やようす)。 日本人と結婚し、八重洲に屋敷を構えた。「八重洲」の地名は彼の名(やようす)に由来する。東南アジアとの朱印船貿易を行いながら帰国するチャンスをうかがっていたが航海中に遭難して溺死した。

【鎖国までの歩み】 1623年にイギリスは業績不振のため平戸の商館を閉鎖、翌年にはスペイン人渡航が禁止された。貿易港は長崎のみとなり、日本人の海外渡航も禁止された(1635年)した。1637年の島原の乱ではオランダが幕府に武器弾薬を援助しポイントを稼いだ。島原の乱が鎮圧されるとポルトガル船の入港が禁止された。オランダ商館は平戸から出島に移転され、日本と貿易できる国はオランダのみとなった。

 リーフデ号の元の船名はエラスムス号といい、その船尾にはエラスムスの木像が飾られていた。この像は龍江院(栃木県佐野市)で貨狄の像(かてき)として祀らた。この像は国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。貨狄とは中国の伝説の王である黄帝の家臣で舟を考案した人といわれている。

アメリカ進出

 1609年、オランダ東インド会社はイギリス人ヘンリー・ハドソンを北米に派遣した。彼はハドソン川を発見し、その流域一帯をオランダ領ニューネーデルラントと宣言した。そして下流のマンハッタン島にアメリカ先住民と交易を行うための拠点ニューアムステルダム(New Amsterdam)を建設した。この町は運河がはりめぐらされ、侵入者に備えて防壁が随所に築かれていた(ウォール街)。

 オランダ独立戦争中の1621年、中南米からスペインに運ばれる大量の銀を奪うためオランダ西インド会社が設立された。この会社は、ギアナ(スリナム:Suriname)やアンティル諸島(Antilles:ベネズエラ沖)へ植民活動を行った。しかし、経営が苦しく1674年には解散した。スリナムは1975年に独立、オランダ領アンティルは現在もオランダ王国の自治領となっている。

 1664年、イギリス軍がニューアムステルダムに侵攻し、第2次英蘭戦争(Anglo-Dutch Wars)が始まった。両国の沿岸では大規模な海戦が行われたが、どちらも決定的な勝利をつかめず和解した。そして、ニューネーデルラントはイギリスに割譲され、チャールズ2世の弟のヨーク公に与えられ、ニューアムステルダムはニューヨークと改称された。オランダは南アメリカ大陸北端のギアナ(スリナム共和国)と香辛料貿易の中心地ラン島(モルッカ諸島)を手に入れた。

名誉革命
イングランドへ向かうオラニエ公ウィレム3世

 1672年、ルイ14世率いるフランス軍はオランダに侵攻し国土の大部分を占領した。オランダはウィレム3世(後のウィリアム3世)を総督に任命して抵抗を続けた。フランスと同盟していたイギリスも参戦してオランダを攻撃、第3次英蘭戦争が始まった。イギリス艦隊はオランダ艦隊の抵抗に手を焼いているうちに、イングランド議会は親仏路線の撤回を国王に要求した。イギリスはオランダと和睦し、ヨーク公の娘メアリーがオランダのウィレム3世に嫁いだ。

 1688年、イングランド議会は反動的な国内ジェームズ2世に退位をせまり、オランダのウィレム3世にイングランドに侵攻するよう要請した。ジェームズ2世は国外へ逃れ、ウィレム3世は妻メアリーとともにイングランドの共同統治者(ウィリアム3世)となった(名誉革命)。

 ウィリアム3世がイングランド王になると、オランダ海軍はイングランド海軍を上回らない条約が締結され、共同作戦の指揮権もイングランドに握られた。そのため貿易や海運もイングランドに牛耳られ、オランダは次第に凋落していった。

フランス革命〜現代


エラスムス像(聖ローレンス教会 ロッテルダム)

 フランス革命が始まるとネーデルラント一帯はフランス革命軍に占領された。ナポレオンは弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命、フランス人によるオランダ王国ができた。世界各地のオランダ植民地は革命フランスが支配することになり、オランダ東インド会社は解散した。フランスに敵対するイギリスは、インドネシアやセイロンなどオランダの海外植民地を接収した。

 ナポレオン戦争が終わると、オランダ領東インド(インドネシア)やオランダ領ギアナ(スリナム)などの植民地はオランダに返還された。また、イギリスに亡命していたオラニエ家一族が帰国し、南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント連合王国が樹立された(ウィレム1世が即位)。その後ベルギーが分離独立(1830年)、1890年にはルクセンブルク大公国が独立した。

 第一次世界大戦ではオランダやベルギーは中立を宣言したがドイツ軍が侵攻し、国土は戦場と化した。第2次世界大戦が始まるとベネルクス3国はナチス・ドイツに占領され、インドネシアは日本軍に占領された。戦後ベネルクス3国は解放され、インドネシアを再植民地化した。しかし、独立戦争が起こりインドネシアは独立した(1949年)。

 オランダは現在でもカリブ海のアンティル諸島に海外領土を保有している。また、オランダ領ギアナだったスリナムは南米で唯一オランダ語を話す国である。

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【参考資料】
航海者(上、下) 白石一郎 文芸春秋