アフリカ諸国の独立
アフリカ諸国の独立

 15世紀になるとポルトガルはインド航路を開拓するためアフリカ西海岸を南下し、各地に交易所(城塞)を築いた。そこでは象牙や金などが友好的に取引された。やがて金に代わって利益が大きい奴隷が貿易の中心になった。オランダやイギリス、フランスがギニア湾に進出してくると、大西洋を越えて新大陸に奴隷を送り込む大西洋奴隷貿易が始まった。アフリカから連れ出された奴隷は1200万人以上といわれている。19世紀になると奴隷貿易は禁止され始めたが、一方でアフリカ内陸の探検が進み、沿岸部から内陸部に押し入って領土を切り取り始めた。

 ヨーロッパ諸国は無秩序にアフリカの領土争奪を行ったが、国家間の争いを避けるためベルリン会議が開かれた(1884年)。その結果、アフリカはヨーロッパの7か国によって分割支配された。独立を保てた国は、エチオピアリベリアの2か国だけだった。第一次世界大戦後ににエジプトが独立し、第二次世界大戦後にリビア、スーダン、モロッコ、チュニジアなど北アフリカ諸国が独立した。1960年代にほとんどの国が独立し、特に1960年には17か国が一斉に独立した。1960年はアフリカの年と呼ばれている。

 独立が遅れたのは、独裁政権が続いたポルトガルの植民地だった。1974年に独裁政権が倒れると、ギニアビサウ、アンゴラ、モザンビーク、カーボベルデ、サントメ・プリンシペが独立した。

 アフリカ諸国は独立を達成したが、多くの国が政治的に不安定で、独裁政治や内戦などの問題を抱えている。その原因は、植民地時代の国境線が民族や宗教などを考慮せずに引かれたため、独立後の国境紛争や部族紛争が頻発した。また、経済基盤が脆弱で、インフラの未整備、貧困など多くの問題を抱えており、独裁的で強権的な政治を行う国が多い。

 アフリカ諸国の統一と連帯を促進するため、1963年にアフリカ統一機構が発足し、2002年にアフリカ連合(AU)に発展した。アフリカ連合は2028年までに統一通貨アフロを導入し、アフリカ経済共同体(AEC)を創設することを目指している。

北アフリカ



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各国の歴史

 エジプトではエジプト文明が、その西のマグリブ地方(Maghreb:日の没する所)では、カルタゴが栄えた。やがてローマ帝国がカルタゴやエジプトを滅ぼし、北アフリカを支配した。5世紀になるとローマは衰退し、ゲルマン人の一派がチュニジアにヴァンダル王国を建国した。それから100年後、ローマ帝国の復興を目指す東ローマ帝国ユスティニアヌス帝がゲルマン人を追い出し、北アフリカをローマの手に取り戻した。チュニジアにはカルタゴの遺跡、リビアにはローマ時代のレプティス・マグナの遺跡が残っている。


チュニジアのローマ遺跡(ドッガ)

 さらに100年経った639年にイスラム軍がエジプトに来襲し、またたく間にマグリブを席巻した。北アフリカはイスラム王朝の時代になり、エジプトのアイユーブ朝のサラディン十字軍と戦ってエルサレムを奪還した。また、モロッコのムラービト朝ムワッヒド朝はイベリア半島に遠征してスペイン王朝と戦いスペイン南部(アル・アンダルス)にまで勢力を拡大した。

 16世紀になると東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が北アフリカを支配した。19世紀になるとオスマン帝国は衰退し、イギリス、フランス、イタリアが北アフリカを支配した。

エジプト
(Egypt)
1.古代エジプト
2.ローマの支配
3.エジプトのイスラム化
4.アイユーブ朝(十字軍との闘い)、マムルーク朝
5.オスマン帝国の支配ムハンマド・アリー朝
6.ナポレオンのエジプト侵攻
7.スエズ運河
8.エジプトの独立
リビア
(Libya)
1911年に伊土戦争が始まりリビアはイタリアの植民地になった。第2次世界大戦後に英仏の共同統治領になり、1951年にリビア王国として独立した。その後、1969年に27歳のカダフィがクーデター起こしリビア・アラブ共和国となった。2011年に内戦が始まり、カダフィは殺害され、42年続いたカダフィ政権は崩壊した。
チュニジア
(Tunusia)
1705年にオスマン帝国から独立したフサイン朝ができた。ベルリン会議でフランスの宗主権が認められ、チュニジアはフランスの植民地になった(1881年)。1956年にチュニジア王国として独立し、翌年には王政を廃止してチュニジア共和国となった。
アルジェリア
(Algeria)
1830年、フランスのシャルル10世がアルジェリアに侵攻して植民地にした。フランスの統治は130年続いた。1954年、アルジェリア民族解放戦線が蜂起し、独立戦争(アルジェリア戦争)が始まった。フランスは10万人を超える軍隊を派遣したが鎮圧できず、1962年に独立した。独立戦争による死者は100万人に達したといわれている。
モロッコ
(Morocco)
1056年にベルベル人がムラービト朝を建国した。この王朝はサハラ南部に遠征してガーナ王国を滅ぼし、さらにイベリア半島に進出してアル・アンダルスを支配する大帝国となった。1130年にはムラービト朝に代わってムワッヒド朝がモロッコを支配し、イベリア半島にも進出した。しかし、1212年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いで敗れ、イベリア半島から撤退した。1550年頃のオスマン帝国の侵攻を退け独立を守った。19世紀になるとヨーロッパ列強が押し寄せてきた。1859年のスペイン・モロッコ戦争に敗北しテトゥアンを割譲、1904年にフランスの植民地になった。1956年に立憲君主制のモロッコ王国として独立した。

西サハラ
(Western Sahara)
 1884年にスペインが保護領にした。1978年にスペインが領有権を放棄すると西サハラ民族解放戦線サハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。しかし、モロッコとモーリタニアも領有権を主張した。モーリタニアは領有権を放棄したが、サハラ・アラブ民主共和国モロッコは現在も領有権を争っている。モロッコは国土の2/3を実効支配し、サハラ・アラブ民主共和国はアルジェリアに亡命政府を作っている。両者の間には砂の壁で仕切られている。日本はサハラ・アラブ民主共和国を承認していない。
紅海沿岸



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各国の歴史

 ナイル川は、ヴィクトリア湖から流れてくる白ナイルとエチオピアのタナ湖からの青ナイルが、スーダンの首都ハルツームで合流しエジプトに流れ込んでいる。ナイル川上流のこの地域は、かってヌビア(Nubia)と呼ばれ、古代エジプトの影響を強く受けた。

 スーダンではBC2200年頃に黒人最古の王国クシュ王国が繁栄した。クシュ王国はエジプトのトトメス1世の侵略を受けるがBC900年頃に再興し、今度はエジプトに攻め込んで第25王朝を興した。5世紀にキリスト教が伝わり、以後1000年近くキリスト教の王朝が続いた。14世紀にイスラム王朝がうまれ、スーダンのイスラム化が進んだ。

 エチオピアはソロモンシバの女王の子メネリクの子孫がBC5世紀頃にアクスム王国(Aksum)を建国した。320年頃にキリスト教を受容し、キリスト教国となった。1869年にスエズ運河が開通すると、紅海沿岸のエチオピア領だったエリトリアソマリアジブチに、イギリス、フランス、イタリアが進出して植民地にした。これらの地域は第2次世界大戦後に独立した。


タナ湖の青ナイル滝

スーダン
(Sudan)
5世紀から1000年にわたってキリスト教王朝が続いた。16世紀にイスラム王朝に代わり、1820年にエジプトのムハンマド・アリーがスーダンを支配した。これに対して宗教家ムハンマド・アフマドが自らをマフディー(救世主)であると宣言して反乱を起こした(マフディー戦争 1881年)。マフディーは17年間スーダンを支配したが、エジプトとイギリスが鎮圧し、北部をエジプトが、南部をイギリスが支配した(1898年)。第2次大戦後、エジプトはスーダンの併合を要求したがイギリスは拒否、1956年にスーダン共和国が誕生した。
南スーダン
(Republic of South Sudan)
スーダンは独立直後から、北部のイスラム勢力と南部のキリスト教勢力が争い内戦になった。内戦は1972年に収束し、南部の分離独立を問う住民投票を行うことになった。ところが南部で油田が発見されると、その約束は反古にされ再び内戦が始まった(1983年)。2011年にようやく住民投票が行われ、圧倒的多数で南スーダン共和国の分離独立が決った。
エチオピア
(Ethiopia)
アクスム王国は、7世紀頃からアラビア半島との交易が断たれ衰退したが、1270年にイクノ・アムラクが王国を再興しエチオピア帝国(ソロモン朝)を建てた。16世紀以降諸侯が乱立したソロモン朝をテオドロス2世が統一した(1855年)。彼は近代化を進めたが、イギリスとの戦いで敗れ自害した。次のメネリク2世はイタリアの侵略を受けエリトリアを割譲したが(1889年)、再度の侵略はアドワの戦いで撃退した(1896年)。その後、ムッソリーニの侵略があったが(1936〜1942年)、第2次世界大戦中に独立を回復した。
エリトリア
(Eritrea)
スエズ運河が開通すると、イタリアはエチオピアに介入しエリトリアを植民地にした(1889年)。第二次世界大戦後エリトリアはエチオピアに返還されたが、1960年頃からエリトリア独立戦争が始まり、30年におよぶ独立戦争の末に独立した(1993年)。
ジブチ
(Djibouti)
エチオピアはイタリアに対抗するためフランスの支援を受け、その代わりにジブチを割譲しフランス領ソマリランドができた(1896年)。第2次世界大戦後もフランスの支配は続いたが、1977年の住民投票で独立した。
ソマリア
(Somalia)
ソマリアは紅海とインド洋に面したアフリカの角に位置する国である。古くはプント国(Punt)が古代エジプトとの交易で栄えた。19世紀末にイギリスが紅海出口の北部を、イタリアがインド洋に面した南部を領有した。1960年に両地域が合併してソマリア共和国ができた。1991年に内戦が発生し、旧イギリス領のソマリランド、旧イタリア領北部のプントランド、南西部の南西ソマリアに分裂した。2012年にソマリア連邦共和国として統一の動きが始まったが今も未解決の状態である。

サヘル地域



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各国の歴史

 サハラ砂漠南側のサヘル地域はサハラ砂漠周辺の乾燥した地域である。サヘルとはアラビア語のサーヒル(周辺、岸辺)に由来し、サハラ砂漠を海にたとえてその岸辺がサヘル地域となる。8〜11世紀にかけて北アフリカとの交易によってガーナ王国が栄え、13世紀にはマリ王国が栄えた。マリ王国の9代目の王マンサ・ムーサは、大量の金と500人の奴隷を引き連れてメッカ巡礼を行った。また、大旅行家のイブン・バットゥータもマリを訪れている。

 15世紀にマリ王国が衰退するとソンガイ王国が勢力を拡大した。しかし、砂漠の中にある岩塩鉱山の権益をめぐってモロッコと紛争になった。モロッコ軍はグラナダの陥落でスペインから逃れてきた数千の兵士に鉄砲を持たせ、数万のソンガイ騎馬隊を撃破したといわれている(アフリカの長篠の戦い)。この地域はモロッコが支配したが、19世紀後半になるとフランスが進出し、フランス領西アフリカとして統治した。


マリ帝国、ソンガイ帝国時代に繁栄した黄金の都トンブクトゥ

モーリタニア
(Mauritania)
古くはガーナ王国やマリ王国、ソンガイ王国が栄えた。19世紀末にセネガルを植民地にしたフランスが進出し、1904年に植民地になった。1960年に独立(モーリタニア・イスラム共和国)。国名はモール人(北アフリカのイスラム教徒、ムーア人)に由来。日本ではモーリタニア産のタコが有名。
セネガル
(Senegal)
1444年にポルトガルがヴェルデ岬に来航し、続いてオランダ、イギリス、フランスが進出した。フランスは1659年に北部のサン・ルイに商館を建設して勢力を拡大し、ナポレオン戦争後のウィーン会議でフランスの植民地となった(1815年)。1960年に独立、首都はヴェルデ岬にあるダカール。独立以来一度も政情不安にならずクーデターも経験していない。
マリ
(Mali)
16世紀末にソンガイ王国が滅亡すると、多くの小王国が乱立した。1880年にフランスが植民地にし、1960年に独立した。最大の輸出品は金である。
ブルキナファソ
(Burkina Faso)
古くからモシ王国が栄えてきたが、1898年にフランスの植民地となった。1960年にオートボルタ共和国として独立し、1984年のクーデターで国名をブルキナファソ(Burkina:高潔な人々、Faso:祖国)に変更した。最近多くの金鉱が見つかっている。
ニジェール
(Niger)
15世紀にゾンガイ王国が栄えたが、ソンガイ帝国の滅亡後は小王国が乱立した。1898年にフランス領となり、1960年に独立した。ウランは世界第3位の埋蔵量を誇り、ウランの輸出が経済の柱となっている。ニジェールとは大河という意味。
チャド(Chad) 1900年にフランスが植民地とし、1960年に独立した。内戦が続き政治は不安定である。おもな輸出品は石油。
 
西アフリカ



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各国の歴史

 アフリカ西海岸地域は、大航海時代を先駆けたポルトガルが進出した。ポルトガルは1415年にモロッコのセウタを占領、そこを拠点にアフリカ西海岸を南下し、1441年に西サハラのリオ・デ・オロ(現在のダフラ)に到達、そこでアフリカ人を捕らえ本国に連れ帰った。これが黒人奴隷貿易の始まりといわれている。1445年にはアフリカ最西端ヴェルデ岬(セネガル)に、1460年にシエラレオネに、1488年に喜望峰に到達した。そして、1498年にインド洋を横断してインド西岸に到達した。

 1482年にポルトガルは奴隷貿易の拠点としてガーナにエルミナ要塞を築き、奴隷貿易を独占した。この頃の奴隷の送り先はヨーロッパだった。17世紀になると、オランダ、フランス、イギリスがギニア湾に進出し、労働力不足になった新大陸に大量の奴隷を送り込むようになった。

 奴隷貿易は次のような三角貿易(Triangular trade)といわれる形態で行われた。ヨーロッパの金属製品や鉄砲をアフリカに持ち込んで奴隷と交換し、奴隷を新大陸の大規模農園に送り込み、農園で作られた砂糖や綿花などの作物をヨーロッパに持ち帰った。奴隷は武器を手にした部族が、対立する部族に奴隷狩りを仕掛けて調達された。このことは現在のアフリカでの深刻な部族対立の一因になっている。

 奴隷たちは、頭を剃られ、所有者の焼印を押され、足に鎖をつけられて船倉にぎっしり詰め込まれ、40〜70日の航海の後、新大陸で売り飛ばされた。黒人は人種的に劣っているとしてその人権は全く無視された。19世紀に入ると人道的な立場から奴隷貿易や奴隷制度に対する批判が強まり、イギリスでは1807年に奴隷貿易が禁止され、1833年に奴隷制度が廃止された。アメリカでは1863年にリンカーンが奴隷解放宣言を行った。

 ギニア湾沿岸地域は、かって胡椒海岸(リベリア)、象牙海岸(コートジボワール)、黄金海岸(ガーナ)、奴隷海岸(トーゴ、ベナン)と呼ばれていた。現在はこれらの名称は使われていない。


エルミナ要塞(ガーナ)

ガンビア
(Gambia)
ポルトガルに続いてイギリスとフランスが進出し、アメリカ独立戦争後のパリ条約でイギリスの植民地となった(1783年)。1965年に独立。
ギニアビサウ
(Guinea-Bissau)
1446年にポルトガルの植民地となり、奴隷貿易の拠点ビサウが建設された。1963年に独立戦争が始まり、1974年に独立した。
ギニア
(Guinea)
1890年にフランスの植民地になった。1958年の国民投票でギニア共和国として独立した。これにフランスは反発し、フランス人の職員や技術者を引き揚げさせた。ギニアの行政は麻痺し1965年に国交を断絶したが、現在は回復している。鉱物資源が豊富で、ボーキサイトの埋蔵量は世界の約3分の1を占めている。
シエラレオネ
(Sierra Leone)
1462年にポルトガル人が来航し、シエラレオネ(ライオンの山)と名付けた。その後、この地域では奴隷狩りが行われた。イギリスは1807年に奴隷貿易を禁止し、1808年にシエラレオネを植民地にした。そして多くの解放奴隷をシエラレオネに移住させた。彼らが建設した町が首都のフリータウンである。1961年に独立したが、1991年からダイヤモンド鉱山をめぐって内戦が始まり、国は壊滅寸前に追い込まれた。2002年に内戦は終結。
リベリア
(Liberia)
アメリカで解放された黒人奴隷がこの地域に入植(帰還)し、1847年にリベリア(自由:Liberty)を建国した。リンカーンの奴隷解放宣言(1863年)より前のことである。首都モンロビアは、モンロー主義を唱えたアメリカ大統領ジェームズ・モンローからとった名前。権力を握った解放奴隷たちは大多数の現地人を「部族民」や「アボリジニ」と呼んで差別した。その状況は長く続き、ついに1989年から2003年にかけて2度の内戦が起きた。現在も世界最貧国の一つになっている。
コートジボアール(Cote d'Ivoire) 15世紀にポルトガル、イギリス、オランダの貿易船が奴隷と象牙の売買に来航した。以前象牙海岸と呼ばれていた(Cote:海岸、Ivoire:象牙)。1893年にフランスの植民地となり、1960年に独立。世界最大のカカオの生産国である。
ガーナ
(Ghana)
15世紀にポルトガルがエルミナ要塞を築いて奴隷貿易を始めた。その後、金が産出し黄金海岸と呼ばれるようになった。1874年にイギリスの植民地になった。第二次大戦後、エンクルマが独立運動を指揮し、1957年に独立した。ガーナの独立はアフリカの多くの植民地に希望を与え、1960年代のアフリカ諸国の独立につながった。
トーゴ
(Togo)
かって、トーゴ、ベナン、ナイジェリアの海岸地帯は奴隷海岸と呼ばれていた。1885年にドイツ領トーゴラントとなり、第一次世界大戦後フランスとイギリスによって分割統治された。1960年にトーゴ共和国として独立した。リン鉱石が主な輸出品。
ベナン
(Benin)
1892年にフランスの保護国となり、1960年にダホメ共和国として独立した。1975年に一党独裁の共産主義国家になったが、民主化運動が高まり、1990年にベナン共和国となった。国名はナイジェリアのベニン王国にちなんで命名されたが、何のつながりもない。
ナイジェリア
(Nigeria)
15世紀にポルトガル人が来航。14〜18世紀にかけてベニン王国(Benin)が繁栄した。彼らはポルトガル人から銃を手に入れ、奴隷狩りを行って勢力を拡大した。ポルトガルやイギリスは奴隷の積み出し港を建設し、イギリスはベニン王国を滅ぼして植民地にした(1900年)。1960年に独立。人口は2022年現在で2.1億(世界7位)、石油の輸出は世界5位である。
中部アフリカ



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各国の歴史

 この地域には14世紀ころからコンゴ王国が栄え、1485年にポルトガルと対等の関係で国交を結んだ。コンゴ王国はキリスト教国となり、積極的に欧化政策を採った。しかし、ポルトガル商人が奴隷貿易を始めると対等な関係は崩れ、ポルトガルの属国となった(1568年)。

 ポルトガルは新たな奴隷の供給地を求めて南に進出、1575年にアンゴラを植民地にし、奴隷の積出港ルアンダ(Luanda)を建設した。ポルトガルの支配に抵抗したのが北アンゴラのンドンゴ王国である。この王国のンジンガ女王(Queen Nzinga)は数十年にわたってポルトガルと戦い、一時はオランダと同盟を結んで戦った。しかし、彼女が亡くなるとンドンゴ王国はポルトガルに征服された。


ポルトガル総督(左)と交渉するンジンガ女王(中央)
ポルトガル総督は女王を見下し椅子を用意しなかった。彼女は召使を椅子にしてその背中に坐り、対等の立場で交渉した。

カメルーン
(Cameroon)
1470年にポルトガルが来航したが、拠点を築かなかった。1870年代になると、ドイツ帝国が入植を開始し、1884年にドイツの植民地とした。第一次世界大戦でドイツが敗れると、北西部がイギリス、東南部がフランスの委任統治領となった。1960年にフランス領カメルーンが独立、イギリス領カメルーンは北部がナイジェリアと合併、南部はカメルーンとの連邦制となった。
中央アフリカ(Central African Republic) 1887年にフランスが植民地化し、1960年に中央アフリカ共和国として独立した。独立直後からクーデターが多発し、現在も武装勢力との抗争が続いている。ダイヤモンドやウラン、金などを産出するが経済は低迷している。
赤道ギニア
(Equatorial Guinea)
1472年にポルトガル領となり、1778年にスペインに割譲した。1968年に赤道ギニア共和国としてスペインから独立した。主な輸出品はカカオとコーヒー、現在は石油になっている。
ガボン
(Gabon)
1470年にポルトガル人が渡来し、17世紀になるとフランスが進出してきた。ベルリン会議でフランスの植民地となり、1960年に独立した。産油国で国民所得は高い。2022年に旧フランス領のトーゴとともにイギリス連邦に加盟した。
コンゴ共和国
(Republic of the Congo)
1880年にフランスが進出しベルリン会議でフランスの植民地となった。1960年にコンゴ共和国として独立。石油が主な輸出品でOPECにも加盟している。
コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo) 1885年にベルギー国王レオポルト2世の私有地となり、その後ベルギー政府が国王から買い取った。1960年にコンゴ共和国として独立したが、すぐに内乱が始り(コンゴ動乱)、1965年まで続いた。1971年に国名がザイール共和国になり、1997年に現在のコンゴ民主共和国になった。金、銀、プラチナ、ウランなど豊富な鉱物資源に恵まれている。ちなみに広島と長崎に落とされた原爆にはコンゴ産のウランが使われた。
アンゴラ
(Angola)
1575年にポルトガルが植民地にした。1961年にアンゴラ独立戦争が始まり、1975年に独立した。独立後内戦が始まり、各国が介入して東西冷戦の代理戦争になった。2002年に内戦終結。石油やダイヤモンドなどの資源に恵まれ経済は回復した。アンゴラうさぎ(Angora Rabbit)とアンゴラ共和国(Angola)とは無関係。

東アフリカ




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各国の歴史

 ソマリア南部からモザンビークまでのアフリカ西海岸にはアラブ人が定住し、イスラム商人と交易する町、モガディシュ、マリンディモンバサ、キルワなどが栄えた。住民たちはイスラム教を信仰し、共通語のスワヒリ語を話した(スワヒリ文明)。

 明の永楽帝は東南アジアやインド洋に関心を示し、鄭和の大艦隊を派遣した。艦隊は7回にわたってインド洋を航海し(1405〜1430年)、東アフリカにも何度か来航した。1498年にはポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って東アフリカにやってきた。彼はマリンディで水や食料を補給し、水先案内人イブン・マージドを雇ってインド航路を開拓した。1586年には少年遣欧使節がヨーロッパからの帰国途上にモザンビークに立ち寄っている。

 16世紀にはポルトガルが東アフリカ沿岸を支配した。17世紀になるとアラビア半島のオマーンがポルトガルを追い出し、ザンジバルを拠点に東アフリカ沿岸を支配した。19世紀になってスエズ運河が開通するとイギリスやドイツが進出してきた。


モンバサに残るポルトガルの砦フォート・ジーザス

ケニア
(Kenya)
古くからアラブ人が沿岸部に定住し、モンバサやマリンディなどの町を建設した。16世紀にポルトガルが、その後アラブ人が奴隷貿易や象牙貿易を活発に行った。19世紀になるとオマーン帝国やイギリス、ドイツが進出し、1920年にイギリスの植民地になった。第二次世界大戦後独立闘争(マウマウ団の乱)が始まり、1964年にケニア共和国として独立した。
ウガンダ
(Uganda)
ドイツとイギリスがこの地域の領有をめぐって争ったが、1894年にイギリスの植民地となった。1962年にウガンダ共和国として独立した。
ルワンダ
(Rwanda)
19世紀末にドイツの保護領となり、第一次世界大戦後ベルギーの委任統治領となった。ベルギーは少数派のツチ族を優遇し、これが民族紛争の火種となった。1962年にルワンダ共和国として独立したが、ツチ族とフツ族が争うルワンダ紛争が始まり、1994年にはルワンダ虐殺で80万もの民間人が殺害される事件も起きた。紛争は2000年に入ると収束し、その後急速な発展を遂げている。
ブルンジ
(Burundi)
ルワンダと同様にドイツ領からベルギー領になり、1962年にブルンジ共和国として独立した。独立後ツチ族とフツ族が争い内戦になったが、2009年に和平した。
タンザニア
(Tanzania)
1885年にドイツの植民地になり、第一次大戦後イギリス領となった。1961年に大陸部のタンガニーカとして独立するが、1964年に島嶼部のザンジバル人民共和国と合併し、タンザニア連合共和国となった。イギリス連邦加盟国。タンザニアにはビクトリア湖があり、キリマンジャロ山がそびえている。キリマンジャロ・コーヒーの産地。
マラウイ
(Malawi)

ザンビア
(Zambia)

ジンバブエ
(Zimbabwe)
19世紀後半にイギリスの植民地となったこの地域は、第二次世界大戦後ニヤサランド、北ローデシア、南ローデシアを合わせてローデシア・ニヤサランド連邦という半独立国になった。しかし、白人中心の政権運営に圧倒的多数の黒人が反発し、1963年に連邦は解体して、ニヤサランドはマラウイ共和国、北ローデシアがザンビア共和国として独立した。南ローデシアは白人政権によるローデシア共和国となったが、黒人側が反発し内戦になった(ローデシア紛争)。1980年に内戦は終結し、黒人国家ジンバブエ共和国として独立した。ジンバブエは2003年にイギリス連邦を脱退している。
モザンビーク
(Mozambique)
16世紀初頭からポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにポルトガルの植民地となった。1975年にモザンビーク人民共和国として独立、内戦後モザンビーク共和国となった。
南部アフリカ


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各国の歴史

 オランダが建設したケープ植民地にはオランダ人の子孫のボーア人(あるいはブール人、アフリカーナ)が住んでいた。彼らは広大な農園を持ち、多くの奴隷を使っていた。フランス革命でオランダ本国がフランス革命軍に占領されると、イギリスはケープ植民地を占領した(1795年)。

 ボーア人は奴隷解放を迫るイギリスを嫌って奥地へ移動(グレート・トレック:Great Trek)、1839年に自分たちの国ナタール共和国を建設した。イギリスはその国を認めず攻め滅ぼした。ボーア人たちはさらに奥地に逃れてトランスヴァール共和国(首都:プレトリア)とオレンジ自由国(首都:ブルームフォンテーン)を建国した。イギリスは両国を承認した。

 ほどなくこの両国で金やダイヤモンドの鉱山が見つかると、イギリスは両国を攻撃しボーア戦争が始まった(1899〜1902年)。ボーア軍は最新のドイツ製武器を装備して善戦したが、イギリスは45万の兵力を投入して制圧し両国を併合した。この戦争中、中国で義和団の乱が起きた。ボーア戦争で手一杯のイギリスは日本と日英同盟を結んでロシアをけん制した。


トランスヴァール共和国の町だったヨハネスブルグ(Johannesburg)

ボツワナ
(Botswana)
ボツワナとはツワナ人の国という意味。1885年にトランスヴァール共和国のボーア人に対抗するためイギリスの保護領となり、1966年にボツワナ共和国として独立した。
レソト
(Lesotho)
レソトとは、ソト語を話す人々という意味。ボーア人のグレート・トレックが始まるとイギリスの保護を受けてオレンジ自由国と戦った。1869年にオレンジ自由国と講和を結び、レソトはイギリス保護領になった。1966年にレソト王国として独立した。
ナミビア
(Namibia)
ナミビアという国名は、同国内にある世界最古の砂漠ナミブ砂漠にちなんでつけられた。1884年にドイツの植民地(ドイツ領南西アフリカ)となり、第一次大戦後に南アフリカの委任統治領となった。1946年に国際連盟が解散すると南アフリカは勝手にナミビアの併合を宣言した。1966年にナミビア独立戦争が始まり、1990年にナミビア共和国として独立した。
エスワティニ
(Eswatini)
エスワティニとはスワジ人の場所という意味。この地にはスワジ人のスワジ王国があった。ボーア人のトランスヴァール共和国ができるとその保護国となり、ボーア戦争後イギリスの保護国となった。1968年にスワジランド王国として独立し、2018年にエスワティニ王国に改名した。
南アフリカ
(Republic of South Africa)
ボーア戦争後に、ケープ植民地、ナタール、トランスヴァール、オレンジの4州から成るイギリスの自治領南アフリカ連邦ができた(1910年)。第2次世界大戦後の1961年にイギリス連邦から脱退し、国名を南アフリカ共和国に変更した。1991年にデクラーク大統領はアパルトヘイト(apartheid)を撤廃、1994年に全人種が参加する選挙が行われ黒人のネルソン・マンデラが大統領に就任した。マンデラとデクラークはノーベル平和賞を受賞。
【セシル・ローズ(Cecil Rhodes)】南アフリカの鉱山王。オレンジ自由国のダイヤモンド鉱山、トランスヴァール共和国の金鉱山を独占して巨万の富を得た。ケープ植民地の首相となり、ジンバブエを占領して自分の名(ローデシア)をつけた。
大西洋の島国




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 大西洋の島国は、大航海時代を築いたポルトガルとスペインの植民地になった。カナリア諸島は現在もスペイン領であるが、カーボベルデとサントメブリンシべはポルトガルから独立した。


カーボベルデのサン・ヴィセンテ島

カーボベルデ
(Cabo Verde)
カーボは「岬」、ベルデは「緑」の意味。国名は「緑の岬」だが島国で、実際のヴェルデ岬は対岸のセネガルにある岬。15世紀にポルトガルが発見し、奴隷貿易の中継基地になった。1975年にポルトガルからカーボベルデ共和国として独立した。
サントメブリンシべ(Sao Tome and Principe) サントメ島プリンシペ島からなる国で、1471年にポルトガル領となった。サントメとはキリスト教の12使徒の一人聖トマスのことで、ポルトガル人がこの島にやってきたのがトマスの日(12月21日)だったため、その名が付けられた。プリンシペはポ ルトガル語で王子の意味で、この島でサトウキビ栽培を始めたポルトガルの王子に由来している。1975年にポルトガルから独立した。
インド洋の島国




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 インド洋の島国は、ほとんどがフランスの植民地だった。レユニオンは現在でもフランス領だが、セーシェルとモーリシャスはナポレオン戦争後のパリ条約(1814年)でイギリス領になった。


セーシェル諸島

マダガスカル(Madagascar) マダガスカル島は、日本の1.6倍の面積を持つ世界で4番目に大きな島である。19世紀にマダガスカル王国ができたが、1897年にフランスが植民地にした。第二次世界大戦中に日本海軍とイギリス海軍がこの島で戦っている。1960年にマダガスカル共和国として独立した。
セーシェル(Seychelles) 1502年にヴァスコ・ダ・ガマが発見、当時は無人島だった。1742年にフランスが進出し、当時の首相の名前セーシェルをこの島の名前にした。1794年にはイギリスが占領し、パリ条約でイギリス領になった。1976年にセーシェル共和国として独立した。
コモロ
(Comoros)
10世紀ごろにアラブ人が移住しイスラム化が進んだ。1841年にフランスが保護領とした。1975年にコモロ共和国として独立したが政治は安定せず、1978年にコモロ・イスラム連邦共和国となり、2001年に現在のコモロ連合になった。
モーリシャス(Mauritius) 1638年にオランダがインド航路の補給地として植民地にした。島の名前はオランダ独立戦争を戦ったウィレム1世の次男マウリッツ(英語読み:モーリシャス)の名前を付けた。しかし、オランダは植民地経営に失敗して撤退(1710年)、その直後にフランスが進出したが、ナポレオン戦争中にイギリスが占領した。1968年にモーリシャス共和国として独立した。
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【参考資料】
新書アフリカ史 宮本正興、松田素二 講談社現代新書