エジプトの歴史 その2

ローマの支配


ポンペイの柱(アレキサンドリア)
ローマのディオクレティアヌス帝が建設(292年)

 BC30年、300年続いたプトレマイオス朝は、クレオパトラの時代にローマのアウグストゥスによって滅ぼされた。エジプトはローマの皇帝の直轄領となり豊かな穀物生産でローマの繁栄を支えた。

 AD40年頃、「マルコによる福音書」の著者であるマルコがキリスト教を伝え、アレキサンドリアに教会を建てた。キリスト教は国中に広まりコプト教会が生まれた。その後、イスラム王朝に支配されると、マルコの遺骨はヴェネツィア商人によってヴェネツィアのサン・マルコ寺院に移された(826年)。

【コプト教会:Coptic Church】エジプトの単性論派教会。マルコが教会を建てたアレクサンドリアはローマやアンティオキアとならぶキリスト教世界の中心地だった。聖アントニウスが修道制を確立したのもエジプトの教会だった。しかしアレクサンドリア教会は、451年のカルケドン公会議の単性論問題で敗北し、その教えはエジプトやエチオピアなどに限られた。
「コプト」とはアラビア語の「Qibt」または「Gibt」から派生した言葉で、「エジプト」を意味するギリシャ語の「Egyptos」に由来している。

エジプトのイスラム化
ファーティマ朝時代に建てられたアズハルモスク
(カイロ)

 395年にローマ帝国が東西に分裂するとエジプトは東ローマ帝国が統治した。7世紀には東ローマとササン朝ペルシアが激しく争い、その隙にアラブに興ったイスラム帝国が勢力を拡大した。

 イスラム勢力は639年にエジプトに侵攻し、ニキウの戦いで東ローマ軍を破ってエジプトを占領した。エジプトは、ウマイヤ朝アッバース朝に支配された。アッバース朝が衰えると、チュニジアで独立したシーア派のファーティマ朝がエジプトを征服した(969年)。ファーティマ朝はカイロを首都とし、エルサレムを含む南シリアまで支配を広げた。

 12世紀後半になるとファーティマ朝は衰え、シリアのザンギー朝十字軍国家が侵攻を繰り返した。ファーティマ朝に内部抗争が起きるとザンギー朝のヌールッディーンが介入し、部下のシールクーフをエジプトの宰相に就任させた(1169年)。彼はわずか2ヵ月後に急死し、シールクーフの甥であるサラーフッディーン(サラディン:Saladin)が宰相に就いた。彼はファーティマ朝の最後のカリフが病死すると、アイユーブ朝を興した(スンニ派)。アイユーブとはサラディンの父(シールクーフの兄)の名前である。

アイユーブ朝
(1169〜1250年)

エルサレム

 サラディンがアイユーブ朝のスルタンになると、主君のヌールッディーンとの関係は悪化、ヌールッディーンの病死に伴いサラディンはシリアに侵攻した。 1187年、サラディンはハッティンの戦いで十字軍を破り、90年ぶりにエルサレムを奪回した。すぐに、イギリスのリチャード1世を中心とした第3回十字軍が派遣されるが和睦に持ち込み、エルサレムなど多くの領土を手に入れた。1193年にサラディンが病死すると、彼の弟アル・アーディルが即位した。彼は西欧諸国と融和を図り、久し振りにエジプトに平和が訪れた。

 アーディルが病死すると息子のアル・カーミルが後を継いだ。彼は第5回十字軍を撃退したが、カーミルに不満を持つ不満分子との戦いに忙殺された。彼は神聖ローマ帝国フリードリヒ2世と和睦を結び、エルサレムを十字軍に返還した。

 アル・カーミルが亡くなり、イスラム軍が再びエルサレムを占領すると、フランスのルイ9世率いる第7回十字軍がエジプトを攻撃してきた。急死したスルタンに代わって、その妻シャジャル・アッ・ドゥッル(Shajar al-Durr) がマムルーク軍団を率いて戦いフランス軍を撃退した。

マムルーク朝
(1250〜1517年)

 

 

 

 

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十字軍の最後の砦:アッコンの要塞(イスラエルのアッコ)

 1250年、マムルーク軍団の後ろ盾を得たシャジャル・アッ・ドゥッルはマムルーク朝を興し、初代君主となった。しかし、女性のスルタンに対する国民の反発は大きく、彼女は軍人のアイバクと結婚して彼をスルタンに就けた。やがて二人の間に争いが始まり、アイバクは暗殺され、彼女もその罪を問われて殺害された。そして、クトゥズがスルタンに就いた。

 1260年、モンゴル軍がシリアに迫ると、クトゥズはアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破った。この戦いの帰路、クトゥズと対立したバイバルスは彼を陣中で殺害した。バイバルスはイルハン朝や、シリアに残存する十字軍国家と戦い、マムルーク朝の支配領域を広げた。十字軍との戦いは1291年まで続いた。

 それから250年間続いたマムルーク朝も衰え始め、1509年にはインド洋貿易で対立したポルトガルとの海戦で敗れた(ディーウ沖海戦:インド)。1516年にはシリアのアレッポ北方で行われたマルジュ・ダービクの戦いセリム1世率いるオスマントルコに大敗した。翌年、セリム1世はカイロに入場し、マムルーク朝は滅亡した。

オスマン帝国期(1517〜1805年)

ムハンマド・アリー朝(1805〜1953年)


ルクソール神殿
(右側にあったオベリスクはナポレオンが持ち帰った。パリのコンコルド広場に置かれている)

 エジプトはオスマン帝国の属州となり、イスタンブールから派遣された総督によって支配された。1798年にはフランスのナポレオンが侵攻し、数週間でエジプトを征服した。オスマン帝国はアルバニア人のムハンマド・アリーを派遣して反撃し、2年後にフランス軍を撃退した。ムハンマド・アリーはエジプト総督(パシャ)になり、軍隊や工業の近代化を進めた。そして1805年にムハンマド・アリー朝を開き、事実上オスマン帝国から独立した。

 エジプト経済は綿花によって支えられていた。しかし、南北戦争を終えたアメリカから大量の綿花が国際市場に流入すると、エジプト経済は大打撃を受けた。更に、スエズ運河建設に伴う財政負担が追い討ちをかけ、エジプトの財政は破綻した。社会が不安定になるとヨーロッパ列強の支配から脱却しようする民族運動が活発になった。陸軍の軍人ウラービー(Urabi)は、エジプトの自立を目指して決起した(ウラービー革命)が、イギリス軍は即座に反乱を鎮圧し、エジプトをイギリスの保護国とした(1882年)。

スエズ運河
スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦ベインブリッジ

 1869年、エジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させた。運河開通によって一番恩恵を受けたのはイギリスで、この運河によりボンベイ(インドのムンバイ)とロンドンを結ぶ航路は喜望峰回りの半分に短縮された。

 最初に運河の重要性に目をつけたのはナポレオンだった。彼はエジプトからインドに進出し、イギリスを圧迫しようと考えていた。ナポレオンの夢を引き継いだレセップススエズ運河会社を設立し、10年後に運河を開通させた。この時のフランス皇帝はナポレオン3世である。開通を記念してヴェルディ作曲のオペラ「アイーダ(Aida)」が作られた。

 運河が開通すると通過船の8割はイギリス船だった。国の改革に失敗したムハンマド・アリー朝は金策のためスエズ運河会社の買い手を捜し始めた。イギリスはこの情報をいち早く入手し、1875年に全株を買い取り手中に収めた。運河がエジプトに戻るのは、1956年のナセル大統領による国有化宣言の時である。その直後に第2次中東戦争が始まり、エジプトはイスラエルやイギリス・フランス連合軍に完敗するが、運河は取り戻した。

 1980年、運河の拡張工事完成記念式典でサダト大統領は日本の貢献に対して謝辞を述べた。日本は外資の36%を援助し、工事の約70%を担当した。

エジプトの独立
ムハンマド・アリ モスク

 1914年に第一次世界大戦が始まると、エジプトの宗主国であるオスマン帝国とイギリスは交戦国になった。イギリスはエジプトの保護国化を宣言し、オスマン帝国から離脱させた。アラビアのロレンスはこの頃の話である。大戦後、大規模な独立運動が始まり、ムハンマド・アリー朝の国王を君主とするエジプト王国として独立した(1922年)。

 第2次大戦後の第1次中東戦争でエジプトは惨敗、王制は支持を失った。1952年には反外国人暴動や軍隊によるクーデターが起こり、エジプトは共和制に移行した。1956年に大統領に就任したナセルは、冷戦下での中立外交とアラブ民族主義を柱とする政策を進めた。スエズ運河の国有化を断行してアラブ諸国の雄となったが、1967年の第3次中東戦争(6日戦争)で惨敗し求心力を失った。

 エジプトは1971年までアラブ連合共和国と称したが、その後エジプト・アラブ共和国に改称した。急死したナセルの後任サダトは、経済政策の転換、イスラエルとの融和政策を進めた。しかし、1981年にイスラム過激派によって暗殺された。続くムバラクは、対米協調外交を進め、イスラム主義運動を厳しく弾圧した。しかしチュニジアで起こったジャスミン革命の余波で政権を失った(アラブの春)。

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【参考資料】