イスラエル王国 |
サウルはペリシテ人の巨人ゴリアテ(Golyat)との戦いに苦しんでいたが、羊飼いの少年ダビデがゴリアテの額に石を命中させて倒した。ダビデの人気は高まり、それに嫉妬したサウルは暗殺を企む。危険を感じたダビデはイスラエルを脱出した。その後サウルはペリシテ人との戦いで戦死し、ダビデは国に戻った。 |
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BC1004-965
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ダビデは多くの妻をめとった。その中にバテシバ(Bathsheba)がいた。バテシバはダビデの部下のウリヤの妻だった。彼女の入浴姿を偶然見てしまったダビデは一目惚れし、関係を持った。彼女は妊娠し、困ったダビデは彼女の夫を前線に送り出して戦死させた。不義を犯したダビデは神の怒りにふれ、息子を次々と失った。しかし、バテシバとの間に生まれた第2子ソロモンは成長し後継者となった。 ダビデはイスラム教においても預言者の1人に位置づけられている。英語圏の男性名デイヴィッド(David)は彼の名に由来する。 |
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イスラエル王となったソロモンは、近隣王国と条約を交わし、 政略結婚を重ね、王国を世界の強国に育てあげた。また、銅の採鉱や金属精錬などの事業を進め、イスラエルに莫大な富をもたらした。 ある夜、神がソロモンの夢枕に立ち、願い事は何かと尋ねた。ソロモンは、国をうまく治められるように知恵を望んだ。神はそれを認めた。彼はエルサレムのモリヤの丘に壮大なエルサレム神殿(第一神殿)を造営し、十戒の石版を安置した。 シバの女王(Sheba)は、ソロモンの物語に登場するアラビアの女王である。シバは南アラビア(イエメン)あるいはエチオピアにあった国の名。シバの女王はソロモンが非常に賢明な王であると聞き、難問を出して彼を試した。しかし、ソロモンはその全てに正解したという。 ソロモンは国を大いに繁栄させたが、国民は労役や重税に苦しんだ。また、自分の出身部族ユダ族を優遇したため部族間に不満が鬱積していった。 |
![]() シバの女王とソロモン サン・フランチェスコ聖堂 アレッツォ, イタリア |
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南北王国時代 (BC930−586) |
ソロモンが亡くなると息子のレハブアムがあとを継いだ。しかし、部族間の対立は深刻で北部の10部族が反乱を起こし、北イスラエル王国(北王国)として独立した(BC922年)。首都はサマリア。残りの2部族(ユダ族とベニヤミン族)はユダ王国(南王国)として存続した。ユダ王国はヤコブとレアの子供であるユダを始祖とする部族で、ユダヤの語源である。 両国はアッシリアやエジプトの脅威にさらされた。BC721年、北王国はアッシリアのサルゴン2世に減ぼされ、10部族の指導者層は奴隷としてアッシリアに連行され(アッシリア捕囚)。10部族は歴史から姿を消した。 サマリアにはアッシリアからの移民が移り住み、残留イスラエル人と、移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれた。サマリア人は純粋のユダヤ人から嫌われた。 |
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ユディト (Judith)
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アッシリアの将軍ホロフェルネスの軍勢がユダヤの町ベトリア(Bethulia)を包囲した。町は水源を断たれ降伏寸前に追い込まれた。この町には絶世の美人ユディトが住んでいた。彼女は信心深く、貞淑な未亡人だった。彼女は町の危機を救うため、美しく着飾り召使いを連れて敵陣に乗り込んだ。将軍ホロフェルネスはユディトを一目見てその美しさの虜になった。
「お前は何しに来たのだ?」 将軍は、彼女の美しさと巧みな話術に気を許し酒宴を催した。そして、彼女を誘惑しようとチャンスをうかがっていたが、不覚にも飲みすぎて眠りこけてしまった。ユディトは神に力を与えてくれるように祈り、将軍の短剣を奪って首を切り落とした。町は救われた。 彼女の話は旧約聖書ユディト記に記されている。また、彼女はトランプのハートのクイーンのモデルになっている。 |
![]() ホロフェルネスの首を斬るユディト (Judith Beheading Holofernes) 国立古代美術館(ローマ) |
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バビロン捕囚 (Babylonian captivity) BC586〜538 |
ユダ王国は、アッシリアの属国として存続していた。しかし、アッシリアが崩壊すると新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされた(BC597年)。神殿は破壊され、ユダヤ人たちはバビロンに連行された(バビロン捕囚)。この捕囚を題材にしたオペラがナブッコである。 バビロンに捕囚されたユダヤ人は、宗教の中心だった神殿を失ったが、その代わりに、安息日の遵守や割礼、カシュルート(食事戒律)を厳しく守ることを宗教儀式とした。この捕囚時代にユダヤ教は体系化され、ユダヤ民族はどんな試練にも耐える強靭な信仰心と団結力を持つようになった。 BC539年、ペルシャ帝国のキュロス大王は新バビロニアを征服し、ユダヤ人を解放した。 エルサレムに帰還したユダヤ人は、破壊された神殿跡に第2神殿を建設した。 |
![]() バビロン捕囚 |
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ヘロデ王 (Herod) |
ペルシアがアレクサンドロスによって滅ぼされると、ユダヤ人はマケドニアやセレウコス朝シリアの支配を受けた。セレウコス朝シリアが衰退すると独立戦争を起こし、BC140年頃にユダヤ人の自治が認められた(ハスモン朝)。 その後、ポンペイウス率いるローマ軍がセレウコス朝シリアを滅ぼし、ユダヤはローマの支配下に入った。ポンペイウスに代わってカエサルが実権を握るとユダヤの自治が認められ、BC37年にヘロデ大王がユダヤ王に即位した(ヘロデ朝)。ヘロデはローマと協調する政治を行い、港湾都市カイサリアや要塞マサダを建設した。また、BC20年には、ソロモン時代を上回る規模の神殿を構築した。 BC4年にイエスがベツレヘムで誕生した。彼は自分の王位を守るため、ベツレヘムに住む2歳以下の男の子を皆殺しにした。ヘロデ大王の息子の嫁がヘロディアで、その娘が洗礼者ヨハネの首を求めたサロメである。 |
![]() 港湾都市カイサリア(caesarea イスラエル) |
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ユダヤ人の離散 |
AD66年、ユダヤ人はローマの支配に対して大反乱を起こした(第1次ユダヤ戦争)。ローマ軍は激しい抵抗にあって苦戦するが、皇帝ヴェスパシアヌスは、息子のティトゥスを派遣しエルサレムを制圧した(70年)。神殿は再び破壊され、西側の外壁だけが残った。この反乱鎮圧を記念してティトゥスの凱旋門(ローマ)が作られた。 エルサレム陥落後も967人のユダヤ人はマサダ要塞(Masada)に立てこもって抵抗した。3年の籠城戦の末、マサダは陥落、ユダヤ人は集団自決した。 132年にはバル・コクバが反旗を翻した。反乱軍は一時ユダヤの独立を達成したが、3年後に制圧された(第2次ユダヤ戦争)。ユダヤ人は奴隷として売り飛ばされ、多くのユダヤ人が離散した(ディアスポラ)。 【嘆きの壁】第2次ユダヤ戦争後、ユダヤ人のエルサレム入城は禁止された。4世紀になってミラノ勅令で年に1回だけ旧神殿の外壁にすがって祈ることが許可された。これが嘆きの壁の由来である。ユダヤ人がエルサレムに自由に入れるようになったのは1967年の第三次中東戦争以降のことである。 |
![]() マサダの要塞(イスラエル) |
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