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フリードリヒ2世
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| あらすじ | ![]() シラクサのローマ遺跡 |
エルサレムをイスラム教徒から奪還した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(イタリア名:フェデリコ2世)は、ヨーロッパで最初の国法典を制定し、科学や芸術に通じた皇帝だった。彼は、多くの民族と宗教が共存するシチリアで育ち、キリスト教的な狭い世界観にとらわれない国際感覚を身に付けた。 彼は、1194年に神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世とシチリア王女のコスタンツァの間に生まれた。父は3歳の時に亡くなり、幼くしてドイツとシチリアの王となった。 彼の後見人が、イングランド王ジョンを屈服させ、イングランド全土をローマ教会に差し出させた教皇イノケンティウス3世である。シチリア王国と幼い王を預った教皇は、パレルモに学者を送り、彼の教育にあたらせた。 彼が育ったシチリアは、ギリシャ人やアラブ人も官僚に登用される多民族国家で、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く暮らしていた。彼は自然に国際的な感覚を身に付け、イスラム文化にも造詣が深かった。 |
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![]() フリードリヒ2世の領土 |
【シチリアの歴史】
シチリア王国の基礎を築いたロベルト・ギスカルド(Ruberto Guiscardo)は、フランスのノルマンディ生まれで、南イタリアに来てシチリアをイスラム教徒から奪回した。その後、甥のルッジェーロ2世(フリードリッヒの祖父)が1071年にシチリア全土を占領し、1130年に教皇からシチリア王国の王位を与えられた。 フリードリヒ2世の領土は、父方からドイツ王国、イタリア王国、ボヘミア王国などから成る神聖ローマ帝国を、母方からはシチリア王国を受け継ぎ、その領地は教皇領をすっぽり包んでいた。 |
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| 教皇との争い |
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1220年、フリードリッヒは神聖ローマ帝国皇帝として戴冠された。しかし、教皇は斬新な考えのフリードリヒを嫌い常に対立していた。それでもフリードリヒは、1228年にエルサレムを交渉によって奪還し、自らエルサレム王に就いた(第6回十字軍)。 その後、フリードリッヒは、教皇や北イタリアの自由都市と対立する。彼は、教皇軍と北イタリアの都市に容赦ない攻撃を行った。教皇派と皇帝派の争いは、都市内での主導権争いが絡んで複雑なものとなった。ロミオとジュリエットの物語は、同じ都市で教皇派と皇帝派の対立を背景にしたものである。 戦いは泥沼化した。フリードリッヒは病に倒れ、1250年に56才の生涯を終えた。彼の死後、次男コンラート4世が後を継いだが、在位わずか4年で死去、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。ドイツ国王を継ぐ家はなく、大空位時代が始まった。 |
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| シチリアのその後 |
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南イタリアには、フランス王シャルル・ダンジュー(ルイ9世の弟)が侵入し、シチリア王国を支配した。南イタリアはかつての栄光を失い、フランスやスペインによる領土争奪戦が始まる。イスラム教徒は消え、異文化共存の伝統も失われた。 激しく争った教皇庁は、フランスによってアビニヨンに移転させられた。北イタリアの自由都市は、ルネッサンスを開花させ、フランスやスペインでは、民族統一と王権による強力な国家が出現した。 【フリードリヒの功績】 |
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【参考資料】
http://www.asahi-net.or.jp/~RB5H-IKD/puglia/federico.htm |