ポーランドの歴史
ポーランド王国

 ゲルマン民族の移動後、ポーランドにはスラヴ人が住みついた。962年、ポラニエ族の族長ミェシュコ1世(Mieszko)がスラヴ人部族を統一し、キリスト教を採用してピャスト朝を立ち上げた。ポラニエとは平原の民という意味でポーランドの語源。

 ミェシュコの後を継いだボレスワフ1世は北はバルト海、西はウクライナにまで領土を広げた。1025年、ローマ教皇からポーランド王に戴冠され、ポーランド王国が誕生した。首都はクラクフ。1138年にボレスワフ3世が亡くなると、息子たちが国を分割相続し、その後多くの公国に分裂した。

 1226年、コンラト1世は異教徒の先住プロイセン人の土地を平定(キリスト教化)する目的でドイツ騎士団を招聘した。騎士団は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世から、異教徒の土地を征服、領有する権利を得ていた(リミニの金印勅書)。騎士団を呼び寄せたことは後世に禍根を残した。


ポーランド王国の首都クラクフの王宮

モンゴルの侵入

 1241年、突然バトゥ率いるモンゴル軍が侵攻し、クラクフ始め多くの都市が蹂躙された。ポーランド軍と騎士団はレグニツァで迎え撃つが惨敗(ワールシュタットの戦い)、国王ヘンリク2世は討死した。

 モンゴル軍が去った跡には荒れた国土が残った。その復興のため、ドイツから多くの移民が入植してきた(東方殖民)。


ドイツ騎士団の居城マルボルク城

ヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)

 

 

 

 

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 14世紀になると国家の再統合への機運が高まり、1320年に即位したヴワディスワフ1世がポーランドを再統一した。次のカジミェシュ3世は、リトアニア、ウクライナなどを支配下に収め、西ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人を保護し、移民も奨励した。このため、ポーランドは発展しヨーロッパの大国となった。

 カジミェシュ3世の没後ピャスト朝の血筋は途絶え、姉の子のハンガリー王ラヨシュ1世が王位を継いだ。ラヨシュの没後、その娘ヤドヴィガ(Jadwiga)がポーランド女王になった。

 1386年、彼女はリトアニア大公ヨガイラ(Jogaila、ポーランド名:ヤギェウォ:Jagiellonow)と結婚し、ポーランド・リトアニア王国が誕生した。この王国はヤギェウォ朝またはヤゲロー朝と呼ばれ、両国が連合したことをクレヴォの合同(Union of Krewo)またはルブリン合同という。この時、ヤギェウォはキリスト教に改宗し、ヴワディスワフ2世となった。


ポーランド女王ヤドヴィガ
騎士団との戦い

 ポーランド・リトアニア王国ができると、リトアニアで異教徒と戦っていたドイツ騎士団は、戦う相手を失った。騎士団はマルボルクを中心に国家を建設した。しかし、強圧的な支配は反感を買い、住民はポーランド王国を頼るようになった。1410年、ヴワディスワフ2世率いるポーランド軍はタンネンベルクの戦いで騎士団を破り、騎士団国家はポーランドに臣従するプロイセン公国となった。

 ポーランド・リトアニア王国は発展し、バルト海から黒海にまたがる大国となった。1558年からのリヴォニア戦争では、スウェーデンと連合してロシアを破った。1587年に即位したジグムント3世は、1596年に首都をワルシャワに移した。また、1610年には、リューリク朝が断絶したロシアに介入しモスクワを占領した。しかし、その後ミハイル・ロマノフ率いるロシア国民軍に敗れ撤退した。

 16世紀の穀物輸出ブームでポーランドは豊かになり繁栄した。クラクフを中心にルネサンス文化が開花し、天文学者コペルニクスや詩人ヤン・コハノフスキが活躍した。

 

衰退

 17世紀半ばになると穀物ブームは去り、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデンとの戦争によって国土は荒廃した。オスマン帝国の侵攻にも悩まされ、ソビエスキを指揮官にしてポーランド軍を再建した。彼は、その後ヤン3世として国王に即位した。

 1683年、オスマン帝国はウィーンを包囲した(第2次ウィーン包囲)。ヤン3世は援軍を率いてウィーン郊外でオスマン軍を破った。この戦いでポーランドは名声を高めたが、ヤン3世没後は国内は分裂し暗黒時代に入った。


ヤン3世ソビエスキ(ワルシャワ ワジェンキ公園)
ポーランド分割

 18世紀になると、周辺諸国が干渉を強めた。1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアが第1次ポーランド分割を行い、国土の約4分の1が失われた。続いて1793年にはロシアとプロイセンが第2次ポーランド分割を行い、1795年の第3次分割でポーランドは地図から消えた。

 タデウシュ・コシチュシュコなどの愛国者たちは独立をめざして蜂起するが、いずれも鎮圧された。

 1807年、ポーランドに進攻したナポレオンは、フランスの傀儡国家ワルシャワ公国を建国してポーランドを再建した。ナポレオンの敗北後は、ワルシャワ公国は解体され、ロシア皇帝が国王を兼ねるポーランド王国が作られた。

 この頃、日本では、『ポーランド懐古』という歌が作られた(落合直文作詞、森重久弥歌)。その一節
  淋しき里にいでたれば、ここはいずこと尋ねしに
  聞くも哀れやその昔、亡ぼされたるポーランド

 第一次世界大戦でドイツが敗れ、1918年にポーランドは独立した。1921年には革命後のソビエトロシアと戦いポーランドは奪い取られた東方領土を獲得した(ポーランド・ソビエト戦争)。


ポーランド分割
第二次世界大戦下のポーランド

 1939年9月、アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発した。またドイツと密約を結んだソ連が東部を占領し、ポーランドは再び地図から消えた。

 この占領時代に多くの人々が犠牲になった。ソ連軍はポーランドの捕虜2万5千人をカチンの森や収容所で銃殺、ドイツ支配下での反ドイツ運動の犠牲者は数百万人を数えた。また、ポーランドにいた多くのユダヤ人はアウシュビッツなどの強制収容所に収監され、数百万人が犠牲になった。

 終戦間近の1944年8月、ソ連軍の呼びかけでワルシャワ市民が蜂起した。しかし、ソ連軍は裏切って進軍せず、20万以上のポーランド人がドイツ軍に殺された。そして、ワルシャワは徹底的に破壊された。


ワルシャワ蜂起記念碑
ポーランド共和国

 第2次世界大戦後、ロンドン亡命政府と共産主義系解放委員会は挙国一致政府を作って独立した。しかし、ソ連の手先である統一労働者党(共産党)が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となった。そして、ソ連に奪われた東方領土は戻らなかった。

 1980年、食肉価格の値上げが発端となり、全国的な労働者のストライキが起こった。自主管理組合連帯ワレサを指導者に選び民主化運動を始めた。1989年に大統領制が復活し、6月には自由選挙が行われ連帯が勝利を収めた。

 1989年に憲法が改正され、国名がポーランド共和国に変更された。政治的には左派・右派の政権交代が相次ぐが、経済発展と西ヨーロッパへの復帰は順調に進み、1999年にはNATOに、2004年にはEUに加盟した。


ワレサが民主化運動を始めたグダンスクの町
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