太平洋戦争(Pacific War)
開戦

 1941年11月26日、択捉島に集結していた日本海軍機動部隊は密かにハワイに向けて出航した。12月8日、ハワイの北方230海里に近づくと6隻の空母から1次攻撃隊183機、2次攻撃隊167機が発進した。日中戦争で豊富な実戦経験を積んだ航空部隊は真珠湾に停泊している艦船に襲いかかった。この日ハワイは7日(日曜)の早朝で、ふいをつかれた米太平洋艦隊は、戦艦8隻をはじめ多くの艦船が撃破され、飛行機230機が破壊された。死傷者は3,800名にのぼった。たまたま湾外にいた空母艦隊は難をのがれることができた。

 ルーズベルト大統領は12月7日を屈辱の日(the day of infamy)と呼んだ。宣戦布告せずに行った日本の攻撃を卑怯なだまし討ち(treacherous attack)と激しく非難し、国民の奮起と団結を呼びかけた。アメリカ国民は怒り、アラモの戦いのスローガン「Remember the Alamo!(アラモを忘れるな!)」をいいかえて、「Remember Perl Harbor!」と日本に復讐を誓った。日本のだまし討ちは歴史に消すことのできない大きな汚点を残した。

 この攻撃によってヨーロッパの戦争に消極的だったアメリカの世論は一気に参戦に傾いた。ただちにアメリカは日本に宣戦布告し、ドイツもアメリカに宣戦布告した。こうしてヨーロッパとアジアで枢軸国と連合国との大戦争が始まった。

日米交渉

 1939年9月、アメリカは日本の中国侵略を非難し日米通商航海条約を破棄した。戦略物資をアメリカに頼っていた日本は窮地に追い込まれた。それでも日本は仏領インドシナに進駐し(北部仏印進駐)、イギリスと戦っているドイツと日独伊三国同盟を結んで、アメリカに敵対した。

 1941年4月、冷え込んだ日米関係を修復するため日米交渉が開始された。この交渉は民間レベルで合意していた日米諒解案をベースに行う予定だった。諒解案とは日本が中国から撤兵し、アメリカの仲介で中国と和平するというものだった。日中戦争に行き詰っていた政府はこの案に飛びついた。ところが日ソ中立条約を締結してソ連から帰国した松岡外相はこの案に猛反対した。

 交渉は当初から難航した。東条陸相は「支那事変で犠牲になった10万の将兵の死が無駄になる」と中国からの撤兵を拒否した。6月に独ソ戦が始まると、ソ連との戦争準備を始めるとともに(関東軍特殊演習)、フランスを脅して南部仏印進駐を強行した。日米交渉は完全に暗礁に乗り上げ、アメリカは対日資産凍結と石油禁輸の処置を行った。石油の8割をアメリカに頼っていた日本は予期せぬ制裁に衝撃を受けた。そして交渉が妥結しない場合は米英と開戦し、東南アジアの資源を確保することが決められた。

 戦争に反対だった近衛内閣は陸軍を説得できず総辞職した。そして、陸軍大臣東条英機が総理大臣になった。11月26日、アメリカは中国や仏印からの完全撤退を求めるハル・ノート(Hull note)を提示した。ただちに御前会議が開かれ12月8日の開戦が決議された。機動部隊には「ニイタカヤマノボレ(戦闘開始)」が打電された。

 多くの国民は開戦に賛成した。国民は蒋介石を援助する米英が日本をいじめていると信じ込んでいた。ドイツ頼みの開戦だったが、真珠湾を攻撃した頃にはソ連に侵攻したドイツ軍はモスクワを目前に撤退し始めていた。


野村大使  ハル長官  来栖大使   

 日本が最後通牒を手渡したのは真珠湾攻撃の1時間後だった。ハル国務長官は野村大使に椅子もすすめず、「このような虚偽に満ちた文書を見たこともない」と突きはなした。

 国際社会から孤立していた日本は井の中の蛙で、欧米との圧倒的な国力の差を知っている人、敗戦を予感できる人は少なかった。

緒戦の勝利

 

 

 

 

 

 

 

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 真珠湾攻撃の1時間前、日本軍はマレー半島のコタバルに上陸、別働隊も中立国タイのシンゴラとバタニに上陸した。ただちに両部隊はシンガポールを目指して南下した。日本軍の動きを知ってイギリスの東洋艦隊はシンガポールを出撃した。艦隊は不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルスと4隻の駆逐艦で、飛行機の護衛はなかった。12月10日、日本の航空隊はマレー沖を航行する艦隊を発見、2時間の攻撃でプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを海底に沈めた。この海戦は航空機の援護がない艦隊がいかにもろいかを世界に示した。マレー作戦は順調に進み、1942年2月にシンガポールを占領し、138,000人のイギリス将兵を捕虜にした。

 中部太平洋に進出した日本軍は、アメリカ領のグァムやイギリスの植民地であるマキンタラワ両島を無血で占領した。しかし米航空基地があるウェーク島攻略では手痛い反撃を受け上陸に失敗した。急遽ハワイ帰りの空母部隊が応援に駆けつけ激戦の末に占領した。日本の委任統治領だったマーシャル諸島やカロリン諸島には米艦隊の来襲に備えて迎撃用の航空基地が建設された。

 中国の日本軍は開戦と同時に九龍半島を制圧し香港に上陸した。イギリス軍の頑強な抵抗を排除して、12月25日に香港を占領した。香港人はこの日のことを黒いクリスマスと呼んでいる。


マレー作戦
フィリピン作戦と南太平洋進出

 フィリッピンには、まず台湾の航空隊がルソン島の米軍基地を攻撃し米空軍を無力化した。続いて陸軍がルソン島の南北に上陸しマニラに向かって進撃した。マッカーサーは司令部をコレヒドール島に移し、バターン半島を要塞化して抵抗した。日本軍は3ヵ月かかってバターン半島を制圧し、76,000名を捕虜にした。捕虜は収容所までの100kmの道を歩かされ、7,000〜10,000名が死亡した(バターン死の行進)。コレヒドールにいたマッカーサーは「私は必ず戻ってくる(I shall return)」との言葉を残してオーストラリアへ脱出した。

 海軍は米艦隊との決戦海域をマリアナ沖と定め、トラック島に一大拠点を建設した。続いてトラックを守る前進基地としてオーストラリア領のラバウルカビエンを占領し航空基地を建設した。さらにニューギニアのラエサラモアにも進出した。

 マレー半島とフィリッピンを制圧した日本軍は、ボルネオ、スマトラ、セレベス島を攻め、最大の目的である油田を手に入れた。さらにイギリスが支配するビルマ(ミャンマー)とインド洋のアンダマン・ニコバル諸島に侵攻した。

 機動部隊は連合軍基地があるオーストラリア北部のダーウィンやイギリス海軍の軍港があるセイロン(スリランカ)のコロンボトリンコマリーを空襲した。オーストラリアへの空爆はダーウィンをはじめブルームやタウンズビルに90回以上行われた。

太平洋戦争戦闘地域

アメリカの反撃開始

 

 

 

 

 

 

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 日本軍の連戦連勝のニュースに国民は熱狂した。開戦前の重苦しい雰囲気は一掃され、政府も国民も有頂天になった。皇軍不敗神話ができ、敵の反攻は早くて1943年以降と決めつけた。そして、ハワイ攻略の前哨戦としてのミッドウェイ作戦と米・豪を遮断するFS作戦(フィジー、サモア、ニューカレドニア占領)が立案された。

 ところがアメリカの反撃はすぐに始まった。空母は無傷だったし、真珠湾で沈没した艦船も引き揚げられて修理された。結局、失った戦艦は旧式のアリゾナとオクラホマの2隻に過ぎなかった。1942年4月、真珠湾の復讐に燃える空母ホーネットが日本近海に現れ、16機の攻撃機を発進させた。ドーリットル中佐率いる攻撃隊は東京、横須賀、名古屋、神戸を爆撃し、日本海を抜けて中国の飛行場に着陸した。

 同じ頃、ニューギニアのポートモレスビーを攻略する部隊がラバウルを出航し、船団を護衛する機動部隊も出撃した。その動きを知った米空母艦隊は珊瑚海で待ち受け、史上初の空母同士の海戦が行われた。日本側は軽空母祥鳳撃沈、翔鶴大破、米側はレキシントン撃沈、、ヨークタウンが大破した。日本軍のポートモレスビー攻略作戦は阻止され、大破した翔鶴と航空隊が壊滅した瑞鶴はミッドウェー作戦に参加することができなくなった。


炎上する空母レキシントン

ミッドウェー海戦

 ドーリットル空襲に衝撃を受けた大本営はミッドウェー作戦を発令した。この作戦はまずミッドウェー島を占領し、ハワイにいる米空母をおびき出して撃滅するというものだった。1942年6月、4隻の空母を中心に空前の大艦隊がミッドウェーを目指した。日本軍の暗号を解読していた米軍はその動きをつかんでいた。ミッドウェーの地上部隊は増強され、3隻の空母がミッドウェー海域に進出していた。そこには珊瑚海で大破したヨークタウンがわずか3日の修理で復帰していた。

 連戦連勝の連合艦隊は敵をあなどっていた。6月5日、108機の攻撃隊がミッドウェー島を襲った。待ち受ける米戦闘機の大半を撃墜し地上施設を破壊した。しかし爆撃は不十分で2次攻撃を要請した。母艦では艦船攻撃用に装填した魚雷を爆弾に付け替える作業が始まった。その間にもミッドウェーから米軍機が来襲してきたが、空母直掩のゼロ戦隊が全て撃墜した。

 ほどなく偵察機から米空母発見の連絡が入った。予期せぬ米空母の出現に慌てて爆弾を魚雷に替える作業が始まった。また、直掩機の発着や帰還した攻撃隊の収容などで空母甲板はごった返した。そこに米空母の艦載機が押し寄せてきた。ゼロ戦隊は必死に反撃するが、その隙を突いて急降下爆撃機が赤城加賀蒼龍を襲った。勝負は一瞬で決まった。3隻の空母は大火災を起こして沈没した。はるか前方にいた飛龍は無傷だった。ただちに攻撃隊が発進し空母ヨークタウンに大打撃を与えた。反撃もそこまでだった。飛竜も米軍機の逆襲を受けて沈没した。

 日本軍は空母4、重巡1、艦載機285を失い3057名が戦死する大敗北を喫した。米軍の被害は空母1、飛行機150機と戦死362名だった。開戦時の快進撃を支えた錬度の高い搭乗員を一挙に失ったダメージは大きく、戦局の主導権は奪われた。海軍はひたすら事実を隠し敗北の原因を追及しようとしなかった。


攻撃を受ける空母飛龍

 日本の空母は防御力が弱く、被弾すると簡単に火災を起こした。赤城は爆弾2発で沈んだが、ヨークタウンは3発被弾しても自力で航行できた。航空機も防弾装備が貧弱で、1発の被弾で簡単に炎上した(ワンショットライター)。日本の兵器は攻撃のみに重点をおき、防御機能には無頓着だった。

 ミッドウェーの陽動作戦としてアリューシャン列島攻略作戦が行われ、アッツ島キスカ島を無血占領した。しかし、戦略的には何の意味もない作戦で、1年後にアッツ島は玉砕、キスカ島からは撤退した。

ガダルカナル

 ミッドウェーの敗戦で日本軍はFS作戦を断念した。その代わりにガダルカナル島に航空基地を建設して米豪分断作戦を行うことになった。送り込まれた飛行場設営隊はブルドーザーやパワーシャベルを持たず、スコップとつるはしで作業した。それでも8月には800mの滑走路が完成した。

 ミッドウェーの勝利で士気が高まった米軍は、1万の兵力でガダルカナルに上陸、設営隊を蹴散らして飛行場を奪取した。ただちにラバウルの航空隊と第8艦隊(重巡5、軽巡2、駆逐1)が出動した。航空隊は往復8時間という長距離攻撃のため戦果は上がらず53機中34機を喪失する損害を受けた。一方第8艦隊は敵艦隊を捕捉し、重巡4撃沈、1を大破する大戦果を上げた。しかし再度反転して輸送船団を攻撃することはできず、米軍は重火器など大量の物資を揚陸することができた(第一次ソロモン海戦)。

 大本営は敵の兵力を2,000名程度と勝手に推測し、ミッドウェーに上陸する予定だった一木支隊916名をガダルカナルに送り込んだ。指揮官の一木大佐は盧溝橋事件の大隊長だった。支隊はただちに夜襲をかけたが、待ち構えていた米軍の一斉攻撃を受け全滅した。


ガダルカナルに上陸するアメリカ軍

血みどろの死闘

 衝撃を受けた大本営は川口支隊を出動させた。その輸送船団を護衛する機動部隊と米空母艦隊がソロモン海で衝突した(第二次ソロモン海戦)。航空隊はエンタープライズを大破したが、消耗も激しく真珠湾以来の歴戦のパイロットのほとんどが姿を消した。川口支隊は米軍機の攻撃で大きな被害を受けながら6,000名が上陸できた。ただちに人跡未踏のジャングルを抜けて飛行場近くのムカデ高地に進出した。そして死にもの狂いの白兵突撃を行い第一線を突破、飛行場の一角に到達した。攻勢もそこまでだった。圧倒的な砲火による反撃を受け押し戻された。

 意地になった大本営は精鋭の第2師団20,000名を投入した。今回は大部隊による正攻法で攻撃する予定だった。しかし、火砲や食料を十分に揚陸できず前回同様ジャングル迂回作戦となった。10月末に総攻撃を行ったが敵陣を突破できず敗退した。さらに11月には38師団を送り込んだが、空襲で僅かの兵しか上陸できなかった。

 日本軍の兵力は3万になった。しかし、輸送船はことごとく沈められて補給ができず、ガ島はこの世の地獄の飢島となった。一方のアメリカ軍は日々増強され、日本軍は飛行場に近づくことさえできなくなった。戦局は絶望的だったが、面子にこだわる大本営は撤退を決断しなかった。その間にも多くの将兵が餓死していった。

 12月になって大本営はようやく撤退命令を出した。奇跡的に11,000名が脱出できたが、多くの将兵はそのまま激戦地に送り込まれた。ガダルカナルで最後の日本兵が投降したのは、1947年10月27日だった。ガダルカナル撤収後、大本営はパプアニューギニアに作戦の重点を移した。


ガダルカナル島で壊滅した第2師団(1942年10月)

 ガダルカナルに上陸した日本兵は31,400名で死者は20,800名、その内戦死者は5,000名で残りの15,000名は餓死または病死だった。米軍は戦死1,598名だった。
 大本営は撤退を転進とごまかし、嘘と誇張で塗り固めたでたらめな発表を行った。「ガダルカナルの部隊は上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより同島を撤し、他に転進せしめられたり。敵に与えたる損害25,000以上、我が方の損害16,734名」

ニューギニア戦線

 

 

 

 

 

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 海からのポートモレスビー攻略に失敗した日本軍は、陸から攻撃が可能か現地調査を始めた。ほどなく大本営参謀の辻正信中佐が訪れ、「陸路攻略が正式に決定された」と偽の情報を伝えた。その後この情報は辻の暴走であると判明したが、それが問題になることもなく作戦は実行に移された。

 1942年7月、攻略部隊(南海支隊)がブナに上陸し、標高2,000mを越えるオーウェンスタンレー山脈に分け入った。想像を絶するジャングルに足をとられ、オーストラリア軍の抵抗を排除しながら進撃した。そして9月にはポートモレスビーを遠望できる地点に到達した。ポートモレスビーの海を見て将兵たちは抱き合って喜んだ。しかし、部隊に撤退命令が出された。ガダルカナルの戦況悪化のためだった。食料の尽きた部隊は飢えと病いとオーストラリア軍の追撃に苦しみながら来た道を引き返した。

 部隊はようやくブナにたどり着いた。しかし、連合軍は米軍も加わって本格的な攻撃を始めた。疲弊した部隊は苦戦し、各地で玉砕が相次いだ。大本営はガダルカナルの撤退と同じ日にブナからラエ方面への撤退を指示した。ブナには11,000名の将兵が投入されたが、ラエに撤収できたのは3,500名に過ぎなかった。


ブナの日本軍を攻撃する連合軍のM3軽戦車
山本長官機撃墜事件

 1943年4月、制空権を奪還するため、山本連合艦隊司令長官はラバウルに進出し航空作戦を指揮した。1週間にわたって延べ680機でソロモン諸島やニューギニアで攻勢をかけたが、戦果は駆逐艦5、輸送船5を撃沈、飛行機25機の撃墜にとどまった。日本側は43機未帰還、18機使用不能の損害を受けた。

 4月17日、長官は最前線の将兵をねぎらうため、ラバウルからバラレ島に向かった。その情報を傍受した米軍はただちにヴェンジェンス作戦(vengeance:報復)を発動した。ガダルカナルを発進した16機の米軍機はブーゲンビル島の上空で待ち伏せ、6機のゼロ戦に守られた長官機に襲いかかった。無敵連合艦隊のシンボルだった長官の死は国民に大きな衝撃を与えた。

 長官の死からほどなくアッツ島が攻撃され、2,600名の守備隊は全滅した。この戦い以後、大本営は全滅を玉砕あるいは壮烈なる戦死と発表するようになった。国民に与える動揺を軽くしようとするごまかしだった。キスカ島の守備隊6,000名はアメリカ艦隊の包囲を破って脱出することができた。


ラバウルで訓示する山本五十六司令長官

カートホイール作戦

 北アフリカで勝利した連合軍は、余った上陸用舟艇やバズーカ砲、ロケット砲などを太平洋に運び込んだ。米機動部隊には新造の空母や最新の飛行機が続々と配備され、本格的な反攻が始まった(カートホイール作戦)。

 1943年6月、北部ニューギニアからフィリッピンを目指すマッカーサー軍は、ウッドラーク島、キリウィナ島を攻略、ニューギニアに上陸してサラモアとラエを占領した。追い詰められた日本軍は、飢えや寒さに苦しみながら標高4,000mのサラワケット山系を越えてキアリに撤退した(サラワケット越え)。すぐに連合軍はキアリにも押し寄せてきた。日本軍はマダンからウェワクへと撤退していった。

 ソロモン諸島を北上するハルゼー軍は、レンドバ島からニュージョージア島に上陸しムンダ飛行場を占領、続いてベララベラ島に進出した。孤立したコロンバンガラ島の日本軍は撤退した。11月にはブーゲンビル島のタロキナに上陸して飛行場を建設し、大規模なラバウル空襲を開始した。日本軍も反撃しブーゲンビル島沖航空戦が行われた。日本軍は空母8、戦艦5、巡洋艦11撃沈と大戦果を発表したが、実際は魚雷艇と輸送船各1隻を沈めただけだった。日本の航空隊は173機のうち121機が未帰還になる大打撃を受けた。

 1943年12月、マッカーサー軍はニューブリテン島のグロスター岬に上陸し島の西半分を制圧した。翌2月にはアドミラルティ諸島を攻撃、日本軍守備隊3,800名は全滅した。ラバウルは孤立し、補給も途絶え10万の将兵は取り残された。このころヨーロッパではイタリアが降伏した(1943年9月)。

カートホイール作戦(Operation CartWheel)

米軍の新鋭戦闘機
 ・グラマンF4Fワイルドキャット(Wildcat:野良猫)
 ・ボートF4Uコルセア(Corsair:海賊)
 ・グラマンF6F ヘルキャット(Hellcat:性悪女)
新鋭機は、燃料タンクを守るセルフシーリング機能や、防弾ガラス、防弾鋼板を装備して大幅に防御力が強化された。このため、零戦の7.7mm機銃では撃墜できなくなった。また、主翼を折畳み式にして空母の収容機数を増やした。

絶対国防圏

 ガダルカナル争奪戦から1年半にわたる南太平洋の戦いで、戦死者は13万、航空機8,000機、艦艇70隻、輸送船115隻を失った。もはや形勢を挽回するのは不可能だった。大本営は戦線縮小を決意し絶対国防圏を設定した。これは戦争継続のために絶対に守らなければならない領域で、西はマリアナ諸島、カロリン諸島からニューギニア西部とされた。国防圏の東側に展開していた30万の将兵は置き去りにされた。

 作戦範囲を縮小しても補給の問題は解決できなかった。海軍はマーシャル諸島で米艦隊を迎撃することにこだわり、輸送船の警護を軽視していた。いまだに日露戦争で勝利した連合艦隊による艦隊決戦を夢見ていた。困った陸軍は内緒で補給用の潜水艦(陸軍潜行輸送艇)を作り始めた。

 連合軍は戦略的に重要な拠点のみを攻略する飛び石作戦に移行した。そのためラバウルやニューギニアをはじめ多くの島で日本兵は孤立した。ニューギニアには20万の将兵が投入されたが、戦後生還者できたのは僅か2万名だった。


ギルバート諸島沖のアメリカ空母レキシントン

大東亜会議とカイロ会談

 

 

 

 

 

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 1943年11月、日本政府は日本の軍政下にある国々の代表を東京に集め、大東亜会議を開催した。そして、共存共栄、独立尊重などの大東亜共同宣言を採択した。主催した東条英機は得意満面だった。しかし、現地の住民は日本軍の残虐行為に強い不満を持っていた。日本軍は現地住民を土人と呼び、日本への絶対服従を強要した。大東亜共栄圏の実体は日本を盟主とする一大植民地圏を作ることで、アジアを解放するという聖戦は、国防資源を獲得するための侵略戦争だった。

 同じ頃、米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、中国(蒋介石)がカイロに集まった(カイロ会談)。そして、日本が無条件降伏するまで戦争を続けることや台湾・満州を中国に返還させる、第一次世界大戦後に日本が獲得した太平洋の島々を剥奪する、朝鮮を独立させることなどが決められた。

 その2日後、米英両首脳とスターリンはテヘランに集まり、ビルマ奪回作戦やフランス上陸作戦について会談した。また、ドイツ降伏後にソ連が対日参戦することも決められた(テヘラン会談)。日本の指導者は世界の動きを知らずに勝ち目のない戦いを続けていた。


大東亜会議参加者
左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪兆銘(中国)、東條英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリッピン)、チャンドラ・ボース(インド)

ギルバート・マーシャル諸島の戦いとトラック大空襲

 1943年11月、米軍はギルバート諸島のマキン、タラワに押し寄せた。ここは絶対国防圏外だったが海軍航空隊は反撃し4次に渡る航空戦が行われた(ギルバート諸島沖航空戦)。大本営は空母8、戦艦5撃沈と大戦果を報じたが、実際は1隻も沈んでいなかった。日本の航空隊173機のうち121機が未帰還の損害を受けた。マキン・タラワの守備隊5,500名は玉砕した。

 1944年1月にはマーシャル諸島のクェゼリン、エニウェトク環礁が攻撃され、守備隊2万が全滅した。攻撃に先立ち米軍はマーシャル諸島やトラック島に大規模な空爆を行い基地航空隊を壊滅させた。海軍の拠点トラック島では、艦艇10隻、輸送船31隻、航空機270機を失った。続いてサイパン島やテニアン島が空爆され飛行機140機を、パラオの空襲では艦艇14隻、船舶18隻、飛行機147機を失った。飛行機や輸送船の不足にあえぐ日本軍にとってあまりにも大きな被害だった。

 パラオ空襲後、連合艦隊司令部の移転が決まり、古賀長官らはパラオからフィリッピンのダバオに向けて飛び立った。途中で天候が悪化し1番機の長官らは行方不明、2番機はセブ島沖に不時着し福留参謀長らがゲリラの捕虜になった。そして作戦計画書や暗号書が奪われ米軍の手に渡った(海軍乙事件)。


トラック島で米軍に攻撃される日本の輸送船
無謀なインパール作戦と大陸打通作戦

 連合軍はビルマでも反撃を開始した。これに対してビルマ方面軍の牟田口中将は守勢から攻勢に転じてビルマを防衛するインパール作戦を主張した。1944年3月、多くの反対を押し切って作戦は実行された。日本軍はチンドウィン河を渡り、急峻なアラカン山系を越えて4月にはコヒマを占領、インパールに迫った。進撃もそこまでだった。補給線の延びた日本軍に連合軍が襲いかかった。食料も弾薬もない日本軍はたちまち総崩れになった。3週間で終わるはずの作戦は3ヶ月過ぎても終わらず雨期が始まった。飢えと病気が兵士を苦しめ撤退路は日本兵の死体で埋まった(白骨街道)。犠牲者は7万人を越え、この自滅戦でビルマ戦線は崩壊した。

 1943年11月に米軍と中国軍は中国奥地の飛行場から台湾を爆撃した。頭にきた大本営は、敵の航空基地を破壊する大陸打通作戦を命じた(1944年4月)。参加人員51万、華北から華南まで2400Kmを踏破する大作戦だった。日本軍は飛行場を占拠しながら南下し、6月には長沙を、11月には南寧を占領し大陸打通に成功した。しかし、作戦が終了した頃にはサイパンやテニアンからB29による大規模な本土空襲が始まり、全く無駄な作戦となった。


追撃する英印軍
サイパンの戦い

 1944年5月、米軍はマリアナ攻撃に先立ち、ニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。連合艦隊は独断で航空隊や艦隊を南へ移動させた。しかし、米軍はサイパンにも押し寄せ、連合艦隊は慌てて北に戻った。見捨てられたビアクの日本軍は2ヶ月にわたって抵抗したが全滅した。

 連合艦隊(空母9、戦艦7など)はマリアナ沖に出撃し、空母15からなる米艦隊に決戦を挑んだ。日本軍は米艦隊を先に発見し攻撃隊を発進させた。米軍はレーダーでその動きを捉えていた。米空母に迫った攻撃隊は待ち伏せしていた米軍機に一方的に打ち落とされた(マリアナの七面鳥射ち)。連合艦隊は空母大鳳翔鶴飛鷹が沈められ、飛行機476機を失った(マリアナ沖海戦)。完敗だった。

 地上では守備隊43,500名が奮戦したが7月に全滅した。島の北端に追い詰められた兵士や民間人は米軍の投降勧告に応じず断崖から身を投げた(バンザイクリフ)。戦闘に巻き込まれた民間人は8,000人にのぼる。サイパンを制圧した米軍はグァムテニアンを占領した。こうしてマリアナ諸島は失われ、絶対国防圏構想は破綻した。東条内閣は総辞職し、小磯陸軍大将が首相となった。もはや日本には戦争を続ける力はなかったが、無責任な指導者たちは誰も戦争を終らせようとはしなかった。


サイパン島のバンザイクリフ

台湾沖航空戦とレイテ島決戦

 

 

 

 

 

 

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 米軍は9月にモロタイ島ペリリュー島を制圧、10月には沖縄、ルソン島、台湾を空爆した。日本の航空隊は反撃し、空母11、戦艦2を撃沈、28隻を撃破したと発表した(台湾沖航空戦)。久し振りの大戦果に国民は狂喜し、台湾沖の凱歌という歌まで作られた。しかし、実際は8隻を撃破したのみで1隻も沈んでいなかった。

 米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。台湾沖で米艦隊を撃破したと思い込んでいた大本営は、ルソン決戦の方針をレイテ決戦に切り替えた。急遽地上軍をレイテに増派し、連合艦隊にレイテ湾突入を命じた。60隻をこえる連合艦隊は4隊に分かれて出撃した。主力の栗田艦隊は出撃直後から潜水艦や航空機の攻撃にさらされ、戦艦武蔵をはじめ多くの艦艇を失った。それでも前進を続け、レイテ湾に突入して護衛空母1と駆逐艦3を沈めた。攻撃もそこまでだった。湾には輸送船や多くの艦艇がいたが何もできずに引き返した。連合艦隊は30隻が沈められ、帰港できたほとんどの艦が傷ついていた(レイテ沖海戦)。

 レイテには84,000の兵が投入されたが実に79,000人が戦死した。補給も途絶えガダルカナルの二の舞になった。レイテを制圧した米軍はルソン島に上陸、日本軍はマニラを放棄し山岳地帯に逃げ込んだ。マニラ放棄に反対した一部の部隊は絶望的な市街戦を繰り広げ、12,000人が戦死、民間人10万人が巻き添えになった。ミンダナオ、セブ、ネグロスを守る部隊も全滅、フィリピンでの死傷者は50万にのぼった。


レイテ島に上陸するマッカーサー
神風特別攻撃隊

 日米の航空戦力の差はどうしようもないくらい広がっていた。飛行機の性能は劣り、搭乗員は未熟、粗悪な燃料しかなく、整備兵も不足していた。万策尽きた海軍は特攻による体当たり攻撃に活路を求めた。レイテ戦さなかの1944年10月、フィリッピンのマバラカット基地を離陸した敷島隊5機は米艦隊に突入し、空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えた。

 特攻隊は陸軍でも採用され、フィリッピンでは535機(670人)が出撃し空母2を含む19隻を撃沈、53隻を大破させた。米軍は予期せぬ攻撃に混乱したが、すぐに対策を強化した。まず大型レーダーを装備した駆逐艦を機動部隊の前面に配備し、早期に来襲を検知し戦闘機で迎撃した(ピケットライン)。重い爆弾を搭載した特攻機は戦闘機の格好の餌食となった。ピケットラインを突破できた特攻機は今度は猛烈な対空砲火に見舞われた。特に命中しなくても近くで爆発して撃墜するVT信管(Variable-Time fuze)は大きな威力を発揮した。その結果、沖縄戦で九州から飛び立った特攻機は敵艦に近づくことさえ難しくなっていた。敗戦までに航空特攻の戦死者は海軍2431人、陸軍1417人だった。

 航空機以外でも特攻が始まった。人間魚雷回天、爆弾を抱えたベニア製モーターボート震洋、体当たり用ロケット桜花、人間機雷伏龍などの特攻隊が戦場に投入された。しかし、多くの犠牲を出しながらほとんど戦果を上げることはできなかった。


敷島隊の特攻で爆沈した護衛空母「セント・ロー」

ヤルタ会談と硫黄島、沖縄戦

 1945年2月、米、英、ソの首脳はクリミア半島のヤルタでドイツ降伏後の体制やソ連の対日参戦について会談した(ヤルタ会談)。スターリンは対日参戦の代償として南樺太と千島を要求し、ルーズベルトは同意した(ヤルタ秘密協定)。ヤルタ会談直後に米軍は硫黄島に上陸した。守備隊は堅固な地下陣地を築いて迎え撃った。激しい抵抗は1ヶ月以上続いたが全滅した。

 4月には戦艦20、空母19を中心とする大艦隊が沖縄を取り巻いた。陸海軍は10次にわたる航空特攻で反撃したが焼け石に水だった。戦艦大和以下10隻も海上特攻を行ったが、米軍機の猛攻で6隻が沈められ4,000人が犠牲になった。6月になると日本軍の組織的な抵抗は終わった。この戦いで軍人85,000名と非戦闘員94,000名が亡くなった。軍は非戦闘員を守る処置をとらず、それどころか日本軍による住民の虐殺も行われた。

 その後、日本のほとんどの都市がB29や艦載機の爆撃にさらされた。釜石、室蘭、日立は艦砲射撃にさらされた。すでに南方からの補給ルートは遮断され、満州や朝鮮からの輸送も困難になっていた。食料やあらゆる資材が枯渇し、飛行機を作ることも飛ばすこともできなくなった。


硫黄島の摺鉢山に星条旗を掲げる海兵隊
ポツダム宣言と降伏

 ついに天皇は終戦を指示した。政府はソ連に連合国との仲介を打診した。対日参戦を決めていたソ連は日本の要求を無視した。

 7月、米英ソの3巨頭によるポツダム会談が行われ、第二次世界大戦の戦後処理が話し合われた。また、トルーマン、チャーチル、蒋介石の連名で日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発表された。この宣言は13項目からなる長文で、軍国主義の駆逐、カイロ宣言の履行、無条件降伏、戦争犯罪人の処罰、民主主義の復活などをうたっている。宣言文はアメリカが作成し、イギリスが若干の修正を加えた。

 日本政府はこの宣言を無視し、本土決戦一億総玉砕と勇ましい言葉を叫んで無益な戦いを続けた。8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、ソ連が満州国に乱入してきた。それでも政府は終戦を決断できず、いたずらに犠牲者は増え続けた。見かねた天皇は聖断を下し8月15日にポツダム宣言を受諾した。9月2日、東京湾に停泊した戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われた。ミズリー号にはペリーが開国を迫った時の星条旗が飾られ、上空には400機のB29と1500機の艦載機が日本をあざ笑うように飛びかった。


ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿
悲惨な敗北

 満州事変日中戦争そして太平洋戦争にいたる15年間で軍人230万、民間人80万(国内50万、外地30万)の310万名が犠牲になった。その大半は、もはや勝ち目のなくなった1944年8月以降の犠牲者である。戦死者のうち140万人は餓死あるいは栄養失調に伴う病死だった。輸送船が撃沈され戦地に向かう将兵や船員の海没死者数も36万人に上った。日本軍の作戦がいかに稚拙だったかを物語っている。ちなみに日露戦争の犠牲者は9万人だった。

 それにもまして日本はアジアの国々に計り知れない損害を与えた。とくに国土の大半が戦場となった中国では軍人400万、民間人2,000万名が犠牲になった。また、日本軍の横暴に抵抗して殺された住民はフィリッピンで100万、ビルマで27万にのぼる。

 この戦争で日本が優勢だったのは、相手が戦う準備ができていない最初の数ヶ月だけだった。その後は一方的に負け続けた。


焦土と化した東京

軍事大国の自滅

 

 

 

 

 

 

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 1853年、アメリカのペリーが武力をちらつかせて日本に開国を迫った。日本は世界が帝国主義の時代になっていることを知り、脱亜入欧富国強兵を叫んでがむしゃらに近代化を推し進めた。日清戦争日露戦争に勝利し、第一次世界大戦で戦勝国になると世界の5大国にのし上がった。軍事大国となった日本は、ペリーにやられたことを中国にやり始め、張作霖爆殺事件満州事変を起こし日中戦争を始めた。

 当時の世界は第一次世界大戦の反省から、戦争の放棄民族自決へと動き出していた。国際連盟が作られ、戦争を放棄する不戦条約や中国の主権を尊重する9カ国条約が結ばれた。日本もこれらの条約を締結したが、それを無視して中国を侵略した。政府は軍の暴走を抑えられず、戦争はずるずると拡大していった。 そこにドイツの快進撃が始まった。幻惑された日本は「バスに乗り遅れるな」とインドシナに進出した。これにアメリカが経済制裁を行うと、日本は反発して真珠湾を攻撃した。中国には85万の軍隊が釘付けになっていたにもかかわらず、今なら勝てるかもしれないと夢想し開戦した。そして敗戦。多くの将兵が戦死し、日本中が焼け野原になった。明治以来獲得した海外領土は全て失い、千島や沖縄も失った。日本本土は連合国の占領下に置かれた。


降伏文書に署名(戦艦ミズーリ号)

時代遅れの日本軍

 第1次世界大戦を経験していない日本は、近代戦は国家総力戦であるということを認識していなかった。バルチック艦隊を破ってロシアに勝った時の夢を追い続け、大きな決戦で勝利すれば戦争に勝てると考えていた。精神力こそが勝利をもたらすと信じ、強力な火力を持つ敵に白兵突撃を行わせた。兵士の装備や兵器は貧弱で、ノモンハンで喫した敗北の経験は全く活かされなかった。また、敵情を知らずに性急に攻撃する作戦が多く、補給も無視された。そのため、投入された部隊は玉砕するか餓死するかしかなかった。

 戦争が始まると政府は言論を統制した。新聞社や出版社は整理統合され、厳しい検閲によって政府に都合の良い記事しか報道されなくなった。撤退を転進、全滅を玉砕とごまかし、でたらめの戦果が平気で発表された。さらに、国家に奉仕せよと説く臣民の道と、死ぬことを名誉とする戦陣訓が国民の精神を縛り付けた。戦陣訓は日本軍の乱れた軍紀を引き締めるために通達されたものだったが、「生きて虜囚の辱めを受けず」などの言葉が強調され死ぬことが強要された。司馬遼太郎は戦陣訓を美文調のチャチな小冊子と批判している。

 戦局が苦しくなったある日、東条は陸軍航空士官学校を視察し質問した。「敵機は何で墜とすか?」、生徒は「機関砲であります」と答えた。東条は「違う!精神力で墜とすのだ。体当たりしてでも撃墜する決死敢闘の精神が重要なのだ!」。これが国を率いる最高指導者の考えだった。

 この戦争は無理に無理を重ねていた。開戦時のアメリカの経済力は日本の76.3倍、石油は527.9倍の差があった。指導者達は南方の石油を手にさえすればなんとかなると考えた。石油欲しさの戦争だった。産油地は手に入れたが、油槽船はことごとく沈められ、結局石油は手に入らなかった。また、国家予算に占める軍事費の割合は、満州事変を始めた1931年は31.2%、日中戦争前の1936年は47.8%、その後増加を続け1944年には実に85.3%に達した。膨大な予算で作られた艦船や飛行機はほとんどが海に沈んだ。

 
長崎原爆で死んだ弟を背負い焼き場で順番を待つ少年
(唇をかみしめ直立不動でまっすぐ前を見つめる少年)
ローマ法王フランシスコは、この写真に「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて核兵器廃絶を訴えた
司馬遼太郎著「歴史と視点」より

 司馬遼太郎は学徒出陣で召集され、戦車部隊の小隊長になった。彼はその体験から無能な戦争指導者たちを発狂者と批判し、軍閥に操られた昭和の日本をインチキくさい国家と断罪している。

 日本軍は「常識では考えられない多方面作戦、大風に灰をまいたような世界戦史に類を見ない国家的愚行」を行った。ノモンハンでソ連に完敗した2年後に米英に宣戦布告するような愚行は政治的発狂者にしかできない。彼らは足腰の立つ国民を総ざらいし、日露戦争程度の装備を持たせ、中国から北太平洋、南太平洋の諸島にばらまいた。そのあと、どうするかの戦略はなく、補給もせず、ただ「生きて虜囚の辱めを受けず」というお題目を唱え続けた。

 彼らは「人事を尽くして天命を待つ」とか「斃れて後休む」といった漢文くずしの格言を多用した。戦争末期には本土決戦や一億総玉砕など勇ましい言葉を叫んで、国民を勝ち目のない戦争に追い込んだ。 当時の日本は、政治とイデオロギーとマスコミだけが異様に加熱していて、事実を知らない国民は彼らの叫ぶ言葉を不思議に思わなかった。1944年2月に毎日新聞が「竹やりでは近代戦は戦えない」と当たり前の記事を掲載すると東條は怒り、記事を書いた記者を弾圧した(竹槍事件)。

 日本の戦車は「ブリキの棺桶」といわれるくらい攻撃力も防御力も貧弱なオモチャのような戦車だった。それでも満州事変では活躍し、新聞は鉄獅子ともてはやした。国民は「日本にはこんなすごいものがある」と感心し、軍の首脳も「日本陸軍は超一流だ」と錯覚した。


戦後、ニューブリテン島で接収された日本軍の戦車

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 孫子は「彼を知り己を知れば百戦殆うからず(あやうからず)」と説いた。日本軍は彼も己も知らずに戦い、負けた。戦争目的はあいまいで、当初は「自存自衛のため」と言い、緒戦に勝利すると「大東亜新秩序を建設する」と耳ざわりのいい言葉に変更した。作文は上手だが大局観のないエリート達は自己過信に陥った。彼らには自分たちがおかした間違いを認める勇気がなく、敗北を嘘で覆い隠し、何ら対策を打たず、何度も同じ間違いを繰り返し、国を破滅に導いていった

【参考資料】
アジア・太平洋戦争 吉田裕 岩波新書
太平洋戦争 児島襄 中公新書
昭和の歴史F太平洋戦争 木坂順一郎 小学館
四人の軍令部総長 吉田俊雄 文芸春秋
昭和史 半藤一利 平凡社
日本軍兵士 吉田裕 中公新書
歴史と視点 司馬遼太郎 新潮文庫