大陸侵攻から満州事変へ
日清満州問題交渉

 日露の講和条約(ポーツマス条約)が調印されると、次に日清間の交渉が始まった。清にとって日露戦争ほど迷惑なものはなかった。日露両国が自国領内で戦争を始めて国土を踏み荒らし、講和条約では清の主権にかかわる問題を勝手に取引したのである。

 この交渉は難航した。結局、ロシアが租借していた旅順・大連の遼東半島を18年間、東清鉄道南部支線(長春−旅順)は36年間、租借することで妥結した。また、日本が兵員輸送のために建設した安奉鉄道やこれから建設予定の吉長鉄道も租借し、鉄道附属地(駅周辺の土地)も鉄道経営に必要だとして利用を認めさせた。

 次にもめたのが鉄道守備隊の駐留についてだった。清とロシアが共同経営する東清鉄道は清が警備しており、清は日本軍の駐留に強く反対した。しかし、ポーツマス条約で「日露両国は鉄道1kmにつき15人以内の守備隊を駐留させることができる」と規定されており、清はこれを認めざるをえなかった。日本が手にした鉄道は1000kmで、約15,000人の守備隊の駐留が可能になった。この守備隊が関東軍に発展していった。

【関東軍】関東とは万里の長城の東、つまり山海の地域のことで、関東軍は日本が租借した旅順・大連の守備と鉄道の警備を行う部隊だった。

米英との軋轢

 日露戦争は米英からの多額の資金援助で開戦することができ、アメリカの仲介で終わらせることができた。この戦争は、朝鮮からロシアの影響力を排除し、満州に居座るロシア軍を追い出しすことが目的だった。その目的は達成し講和条約も締結したのに、日本軍は満州に駐留し続けた。ロシアと同じことをやり始めたのである。

 そして1906年に鉄道経営を行う南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。本来なら満鉄は清と日本が共同経営すべきものだったが、清は排除され日本の単独資本の会社となった。満鉄は鉄道の仮面をかぶった植民地経営を行う国策会社だった。

 清や米英両国は、満州から撤兵せずに満州の権益を独占しようとする日本を強く抗議した。各国の批判が高まると、あろうことに今度は戦火を交えたロシアに接近して日露協約を結び、日本は南満州、ロシアは北満州での権益を認め合った。

 日本は米英の助力があって勝利できたことを忘れ、一人で戦争に勝った気になっていた。調子に乗っていたのである。特に陸軍は「満蒙の権益は10万の兵士の鮮血によって獲得したもので、絶対に手放せない」と国際条約や公約などおかまいなしにやりたい放題のことをやり始めた。日本が租借したのは旅順・大連と一部の鉄道だけだったのに、満州全土が自分たちのものであると主張し始めた。こうして米英との関係は急速に悪化していった。


満鉄が経営した撫順炭鉱

【南満州鉄道株式会社】満鉄は鉄道だけでなく港湾事業や炭鉱経営も行うマンモス企業だった。資本金2億のうち1億は政府が鉄道や炭坑などの現物で出資した。

韓国併合
(日韓併合)

 朝鮮からロシアの影響力を排除した日本は、韓国政府から外交や財政などの権限を奪っていった。国王のもとには外交を管理する日本人の統監が置かれ、初代統監に伊藤博文が就任した。この保護国化の動きに反日義兵闘争が各地で頻発した。

 1907年、オランダのハーグで第2回万国平和会議が開催され、国王の信任状を持った韓国の要人3名が国の窮状を訴えようとした。しかし、韓国の外交権は日本が握っているため会議には出席できず、やむなく現地で抗議活動を行った(ハーグ密使事件)。各国は日本の韓国保護国化を黙認しており、訴えには耳を貸さなかった。日本は密使を派遣した国王の責任を追求した。そして、国王高宗は息子の純宗に譲位した。純宗の母は日本人に暗殺された閔妃である。

 1909年10月、初代韓国統監の伊藤博文は朝鮮独立運動家の安重根にハルビンで暗殺された。この事件を機に韓国併合の動きは加速し、日韓併合に関する条約が締結された(1910年8月)。大韓帝国は消滅して国名は朝鮮に戻り、朝鮮総督府が設置された。

【日韓併合条約】第2次世界大戦後の国交正常化交渉で、「この条約は合法的だったか?」ということが問題になった。押しつけられたとする韓国と、正当なものとする日本の溝は埋まらないまま日韓基本条約が締結された。そのしこりは日韓の相互不信となって今なお残っている。


朝鮮総督府(この建物は1995年に解体された)

辛亥革命
(民国革命)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 1911年になると中国で辛亥革命が起き、清は滅んで中華民国が成立した。革命のきっかけは、清朝の鉄道国有化に対する反対運動だった。これに武昌(武漢市)の軍隊が同調して蜂起した(武昌蜂起あるいは武昌起義)。清朝打倒の運動は全国に広まり、多くの省が清からの独立を宣言した。そして、各省の代表は南京に集まり、孫文を臨時大総統とする中華民国を樹立した。

 清朝は袁世凱が率いる北洋軍を鎮圧に向かわせた。しかし袁は孫文たちと取引して清朝を裏切り、中華民国の臨時大総統に就任した。当時6歳だった清の宣統帝(溥儀、ラストエンペラー)は退位させられ、2000年以上続いた中国の王朝支配は終わりを告げた。

【五族共和】辛亥革命は、5つの民族の協調である五族共和をスローガンに掲げた。五族とは漢、満、蒙(モンゴル)、回(ウイグル)、蔵(チベット)の5民族である。この民族が住んでいる地域を中華民国の領土とした。

 1914年、第一次世界大戦が始まると日本は山東省のドイツ軍を攻撃した。ドイツ軍が降伏しても日本軍は撤兵せず、山東半島の租借や南満州鉄道の租借期限延長などの対華21カ条要求を突きつけた。袁世凱は「日本は中国を友邦と扱わず、なぜに豚狗(ブタやイヌ)の如く、奴隷の如く扱うのか」と怒った。日本は軍事行動をほのめかして受諾させた。中国では反日運動に火がつき、21カ条要求を受諾した5月9日を「国恥記念日」と呼んだ。

 その後、袁世凱と孫文たちの革命政党は対立し、中国は北京政府と南の革命政府に分裂した。袁は自ら皇帝になろうと画策したが失敗し、失意のうちに病死した。袁の死後、外国の支援を受けた軍閥が各地に乱立し、互いに抗争を始めた。その隙に日本の支援を受けた張作霖は満州を制圧して北京に進出し、北京政府も掌握した。


孫文
 1866年に広東省に生まれる。12才で兄のいるハワイに渡りハワイの学校を卒業、その後香港で医学を学び開業するが、「個人より、国を救う国医となるべき」と革命運動を始めた。1905年、清朝打倒を掲げて中国同盟会を立ち上げ三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)をとなえた。

民族自決

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、アメリカ大統領ウィルソンは秘密外交の撤廃や民族自決などの十四か条の平和原則を提唱した。中国はその動きに期待を寄せ、山東半島の返還や21カ条要求の撤廃を訴えた。しかし、訴えは退けられ日本の主張が容認された。この結果に全国で激しい反日運動が起こり(五四運動、1919年5月4日)、中国政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否した。そして、孫文は国民のための政党として中国国民党を、陳独秀らは中国共産党を結成した。

 1921年のワシントン会議では海軍の軍縮と中国問題が取り上げられ、中国の権益を保護する九カ国条約が締結された。これにより日本の強権的な権益要求は抑制され、日本は山東半島を中国に返還した。また、この条約締結によって日英同盟が解消され、日本は外交の後ろ盾をなくした。9カ国とは、アメリカ・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国である。一方、ソ連は条約に加入していないため干渉を続け、外蒙古を中国から分離独立させてソ連の傀儡国家モンゴル人民共和国を作った。

 1924年、孫文は国内統一のため共産党と協力関係を結んだ(第1次国共合作)。彼はロシア革命の教訓から革命達成には独自の軍隊が必要として軍官学校を設立した。その学校の校長が蒋介石で、共産党から派遣された幹部が周恩来だった。さらに、農民運動の指導者を養成する講習所も設立し、毛沢東が所長になった。翌年、孫文は「革命いまだ成らず」という遺書を残して急逝した。59歳だった。彼は辛亥革命や中華民国建国に最も功績のあった人物として、台湾や中国で尊崇を集めている。

 1926年、孫文の遺志を継いだ国民政府は共産党の協力のもと、中国を統一するため国民革命軍(国民党軍)の北上を決定した(北伐)。


五四運動(天安門広場)

【民族自決】最初にレーニンが唱え、アメリカのウィルソンが十四か条の平和原則で提唱した。ヨーロッパではバルト3国やポーランド、チェコスロバキアなど多くの国が独立した。アジアでは中国の五四運動や朝鮮の三一運動など反日独立運動が起こった。

 朝鮮では日本からの独立を求めて三一運動が起こった。警察や軍はこれを徹底的に弾圧した。尾崎行雄らは、「朝鮮人を日本国民と同じにみなすとしながら、多額の軍事費を使って弾圧するとは何事か!」と政府の責任を追及した。

 ワシントン会議を前にジャーナリストだった石橋湛山(当時36歳)は、「一切を棄つるの覚悟」を持てという社説を発表した。

済南事件

 蒋介石が率いる北伐軍は、南京や上海を平定して北上し山東省にせまった。これに日本がすばやく反応し、居留民の保護と称して山東省に出兵した。明らかに9カ国条約違反だった。そして、古都済南で北伐軍と衝突し、中国側は民間人も含めて3,000〜6,000人の死者を出した。日本側の死者は26名だった。済南は日本軍に占領された。

 日本とつながりが深く親日家だった蒋介石はこの事件に衝撃を受け、「このような横暴な国は必ず滅びるであろう。我々は耐え忍ぶしかない」と日記に綴っている。また、この日から「恥を雪ぐ(そそぐ)」という意味の「雪恥」という文字を毎日日記に書き続けた。蒋介石は国内統一を優先し、日本軍との衝突を避けて北京に進撃した。

【蒋介石】1887年に生まれ、20歳のころ日本に留学、その後日本陸軍の砲兵連隊に勤務した。辛亥革命に参加したが、袁世凱の弾圧を受け、孫文とともに日本に亡命した。日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と、賠償を放棄し、日本兵の復員に尽力した。また、連合国による日本の分割占領案にも反対した。


現在の済南市

張作霖爆殺事件

 

 

 

 

 

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 北伐軍が北京に迫ってきた。北京を支配していた張作霖は徹底抗戦を主張したが、奉天軍の幹部たちに反対され満州に撤退することになった。1928年6月、張作霖を乗せた特別列車は北京を発ち奉天(現在の瀋陽)に向かった。あと少しで奉天駅という所で列車は爆破された。張作霖は両手両足を吹き飛ばされて絶命した。

 この事件の主犯は関東軍参謀の河本大作だった。日本の意に沿わなくなった張作霖を暗殺し、その混乱に乗じて一気に満州を占領しようとしたのである。しかし、奉天軍はその挑発に乗らず、関東軍は軍事行動を起こすことができなかった。関東軍の暴挙に日本政府は衝撃を受け、事件の真相をひたすら隠した。国民にはこの事件は国民党の仕業であると嘘をつき、河本も軍法会議にかけない目立たない処分とした。

 奉天軍閥を継いだ息子の張学良は事件の真相を知って激怒し、国民政府と和解した。12月には満州の主要都市で、中華民国の国旗である青天白日旗を一斉に掲げ、満州は中華民国の一部であると宣言した。この行動を易幟(えきし、旗(幟)を代える(易))という。

青天白日旗

 蒋介石が北京に入り、張学良と手を結んだことで、中国は国民党によって統一された。しかしその頃、国民党と共産党は決別していて内乱が始まっていた。


張作霖氏坐乗列車爆破現状絵葉書

関東軍は爆殺事件の絵はがきセットを販売していた。

暴動事件と深まる亀裂

 1930年5月、朝鮮国境の間島で暴動が発生した。元々、間島は中国人と朝鮮人が平和に暮らす地域だった。ところが、日韓併合によって朝鮮人は日本人扱いとなり、治外法権などの特権が与えられた。中国人は「日本は朝鮮人を利用して満州に根を張ろうとしている」と怒り、朝鮮人の土地を取り上げ始めた。そこに共産党が入り込んで反日暴動を煽動し、日本領事館や鉄道施設などを襲撃した。暴動は1年以上断続的に発生し、日本軍が出動して7,000名を検挙した。生き残りは抗日パルチザンとして闘争を続けた。その中に北朝鮮の金日成がいた。

 1931年7月、間島を追われた朝鮮人を日本政府は長春近郊の万宝山に入植させた。これに現地の中国人が反発し、日中の警察官とにらみ合う事件が起きた。この事件が報じられると今度は朝鮮半島で中国人排斥運動が起こり、127人の死者が出た(万宝山事件)。中国は日本が朝鮮人をそそのかして事件を起こしていると激しく非難した。

 1931年6月、陸軍参謀中村大尉ら2人の軍人と同行の民間人2人は、立入禁止区域に入って調査中に中国軍に捕らえられ銃殺された。中村大尉らは農業技師と身分を偽って調査活動をしていたのである。事件が発生していたことを知らなかった関東軍は調査に乗り出し、中国側に事件の経緯説明を求めた。しかし中国側の対応は悪く、1ヵ月後の9月18日に殺害を認める返事が来た。その夜に満州事変が起きた。

暴支膺懲(ぼうしようちょう)】支那事変における帝国陸軍のスローガン。「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲(ようちょう)ス」を短くした四字熟語。「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」の意味。

満州事変

 世界を襲った大恐慌(1929年)は、日本経済に深刻な打撃を与え失業者は町にあふれた。有効な打開策を見出せない政府は、「満蒙は日本の生命線」として満州に活路を求めた。一方、関東軍は反日暴動に手を焼いており、武力で満州を奪う計画を立てていた(満蒙領有計画)。この計画は関東軍参謀石原莞爾中佐が立案し、高級参謀板垣征四郎とともに実行された。

 1931年9月18日夜、関東軍は奉天近郊の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した。爆発は弱いもので、このあとの列車が問題なく通過できた。関東軍は、「この事件は中国軍による日本の施設への攻撃である」とでっち上げ、自衛のためと称して奉天の中国軍を攻撃した(柳条湖事件あるいは9・18事件)。

 この知らせに日本政府は驚愕し、戦火を拡大しないように指示した。しかし、関東軍は事件の対応に右往左往する政府の間隙を突いて、次々と既成事実を積み上げていった。奉天を制圧すると朝鮮からの援軍とともに吉林省に侵攻、1932年1月には南の錦州や北のチチハルを攻撃、2月にはハルビンに侵攻して全満州を占領した。政府は戦争不拡大を口にするが責任ある処置をせず、関東軍が行った既成事実を次々と追認していった。

 満州には張学良率いる15万とも20万ともいわれる中国軍(東北軍)がいた。しかし、蒋介石は共産党との戦いを優先し、東北軍を長城の南に撤退させた。蒋介石は「先安内後攘外:まず国内を安定させ、のちに外敵に当たる」という方針をとった。中国軍の抵抗も、ソ連の介入もなかったため、関東軍はわずか半年で満州全土を占領できた。


チチハルに入城する関東軍(第二師団)
第1次上海事変

 1932年1月、上海で日本人僧侶が中国人に襲われ、1名が死亡、2名が重傷を負う事件が起きた。日本は居留民保護を名目に海軍陸戦隊1,800人が上陸し中国軍と戦闘になった。抗日を叫ぶ中国軍は激しく抵抗し、苦戦する日本軍は巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻と陸軍3個師団を派遣した(第1次上海事変)。

 激しい戦闘で多くの犠牲者が出た。反日感情はますます高まり、国際世論も日本の侵略行為を強く非難した。5月になって米英両国の斡旋で停戦し日本軍は撤退した。戦後になってこの事件は、関東軍の板垣征四郎が列国の目を満州からそらすために仕組んだ謀略だったことが判明した。

 この戦いで肉弾三勇士(あるいは爆弾三勇士)の逸話が生まれた。新聞各紙はこの話を情感たっぷりに記事にし、愛国美談に仕立て上げた。また、映画界では戦場での悲劇や美談をモチーフにした映画が数多く製作され、軍国熱をいやが上にも煽った。

満州国と国際連盟脱退

 関東軍は国際社会の批判をかわすため「満州人の独立を関東軍が手助けする」という屁理屈を考え出した。そして、清朝最後の皇帝溥儀をかつぎだし中華民国からの独立を宣言した。こうして日本の傀儡政権である満州国が建国された(1932年3月)。満州国は五族協和(日, 漢, 鮮, 満, 蒙)と王道楽土を建国理念に掲げた。

 中国政府は国際連盟に提訴し、イギリスのリットンを団長とするリットン調査団が派遣された。日本は「鉄道を爆破したのは中国で、軍事行動は満州人の独立支援のため」と主張したが、調査団はこれを否定し日本の侵略であると報告した。国際連盟は報告書を審議し、賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で日本に対する非難勧告を可決した。日本はこれを不服とし国際連盟から脱退した(1933年2月)。

 連盟を脱退して国際的な監視の目がなくなると、関東軍はすかさず南へ進出し、山海関や熱河省を占領した。侵攻の理由は「満州国の安全を確保するため」だった。勢いに乗る関東軍は長城を越え中国正規軍と対峙した。反満抗日の活動は更に激化し、今度は満州を守るために華北への進出を考え始めた。

 満州には多くの日本企業が進出した。また、貧しい農民たちは満蒙開拓団として送り込まれ、安く買い上げられた中国農民の土地に入植した。五族協和とは真っ赤な嘘で、日本人が支配する差別社会だった。日本人は一等皇民として米と小麦粉が配給され、二等皇民の朝鮮人は米とコウリャンを、三等皇民の中国人はコウリャンのみだった。当然のように抗日闘争は激化し、日本軍による虐殺事件も頻発した。

 1937年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突し、本格的な日中戦争が始まった。日本軍は北京、天津を占領し、続いて上海に上陸、その勢いで南京も陥落させた。日本は南京を落とせば戦争を終わらせることができると考えていたが、蒋介石は重慶に首都を移して抵抗を続けた。こうして日中戦争は泥沼化し、手を引く機会を逸した日本は太平洋戦争へと突入していった(1941年)。 


満州国

統帥権

 統帥とは軍隊を指揮する最高権力のことで、日本では天皇が握っていた。軍を動かすには天皇の命令が必要で、これを奉勅命令という。しかし、天皇が直接命令を出すわけでなく、陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長に委託されていて、彼らが提案する作戦等を天皇が承認する形をとっていた。軍事行動に関しては内閣は(陸軍大臣や海軍大臣でも)コントロールすることができなかった。これを統帥権の独立という。この制度的な欠陥が軍の暴走を許してしまった。

 満州事変では、関東軍や朝鮮軍は奉勅命令なしに軍事行動をおこした。これは明らかに軍規違反であり、死刑に値する重罪であった。しかし、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。陸軍では正規の手続きを踏まなくても結果さえ良ければ何をしてもよいという風潮が蔓延した。満州でやりたい放題のことをやった板垣征四郎や東条英機は陸軍大臣になり、陸軍はますます無統制で無規律な組織になっていった。

 1936年の2・26事件では、若い青年将校が勝手に軍を動かしてクーデターを起こした。クーデターは鎮圧されたが多くの政府要人が殺害された。軍に逆らうと首相でも誰でも殺される時代になり、軍人以外の民間人が総理大臣になることはなくなった。日本は世界から孤立して軍国主義の道を突き進んでいった。


九・一八歴史博物館(中国 遼寧省瀋陽市)
年表に戻る 陸軍の将校たちはエリートを自称し、陸軍=日本と思い上がっていた。そして、自分たちしか国家を救えないと感違いし、5・15事件や2・26事件、満州事変や支那事変を起こした。彼らの多くは視野が狭く、近代的な考えや国際感覚が欠如していた。彼らは弱い中国軍に連戦連勝していい気になり、何の見通しもなく大陸や太平洋で戦争を拡大していった。

【参考資料】
近代史 日本とアジア(上) 古川万太郎 婦人の友社
近代史 日本とアジア(下) 古川万太郎 婦人の友社
昭和史講義-最新研究で見る戦争への道- 筒井清忠
満州帝国50の謎 太平洋戦争研究会 ビジネス社
満州帝国史 太田尚樹 新人物往来社
満州帝国の戦跡 水島吉隆 河出書房新社