クリミア戦争
戦争にいたる経緯
夜のブルーモスク(イスタンブル)

 クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したオスマントルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。

 その発端はエルサレムにあるキリスト教の聖地の管理権をめぐるロシアとフランスの対立だった。エルサレムの町はオスマントルコが支配していたが、聖墳墓協会などのキリスト教関連施設の管理権はフランスが握っていた。しかし、その管理権はフランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後フランスのナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した(1852年)。

 これにロシアは反発、トルコに聖地管理権を戻すように要求し、ギリシア正教徒を保護するためロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。トルコはこの要求を拒否しクリミア戦争が始まった(1853年7月)。ロシアの狙いは地中海への出口確保(南下政策)であり、イギリスやフランスはトルコを支援した。

バルカン半島での戦闘

 ロシア軍はトルコ領のモルドバやワラキアに進軍した。これに呼応してマケドニアやブルガリアなどバルカン半島の反トルコ勢力が立ち上がり、彼らを支援するギリシャの義勇兵も北上してきた。トルコ軍は南北から挟撃され苦戦に陥った。この状況にイギリスとフランスは艦隊を派遣し反トルコ勢力への補給ルートを封鎖した。補給を絶たれた反トルコ勢力は鎮圧され、勢いを増したトルコ軍はロシア軍をドナウ以北まで押し戻した。

 同じ頃、ロシア軍はコーカサス方面から南下し要塞都市カルスを攻撃した。さらにロシア黒海艦隊はカルスへの補給基地のシノープ(Sinop)を急襲した。この襲撃でシノープに停泊していたトルコ艦隊は全滅し、艦砲射撃によって多くの市民が犠牲になった。

 各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、戦争に消極的だったイギリスとフランスの世論も一気に戦争の気運に傾いた。

クリミア半島セヴァストポリ(Sevastopol)包囲戦

 1854年3月、イギリスとフランスはロシアに宣戦布告し、ブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦をたてた。しかし、バルカン半島に進出を目論むオーストリアがワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

 1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。ロシア軍は黒海艦隊の船を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。戦闘は激烈で負傷者はイスタンブルに移送され、ナイチンゲールらの手当てを受けた。

 包囲戦は1年間続き、両軍の戦死者は20万を数えた。1855年3月にサルデーニャ王国が連合軍に加わると戦局が動き、9月にセバストポリは陥落した。

パリ条約

 

 

 

 

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セヴァストポリのギリシア遺跡(Wikipedia)

 翌1856年、オーストリアとプロイセンの調停で和平交渉が始まり、3月にパリ条約が締結された。その結果、ロシアは黒海での艦隊保有を禁止され、エルサレムの聖地管理権もフランスから取り戻すことができなかった。この戦争でロシアの威信は失墜し、国内では農奴解放や軍政改革など一連の改革が始まった。

 トルコは戦勝国となったが、莫大な戦費が国家財政を苦しめた。また、ロシアと同様に黒海艦隊の保有が禁止された。途中から参戦したサルデーニャ (Sardegna)は、1861年にイタリアを統一した。フランスのナポレオン3世は、この戦争で国の威信を高めることができ、その後外征を繰り返した。しかしメキシコ出兵に失敗し、最後はプロイセンとの普仏戦争(1870〜1871年)で惨敗し捕虜になった。

日本への影響
日本に上陸したプチャーチン
(戸田造船郷土資料博物館)

 米墨戦争に勝利したアメリカはクリミア戦争中の1853年にペリーを浦賀に派遣して日本に開国を迫った(黒船来航)。ヨーロッパ列強がクリミア戦争で忙しく、東アジアに目を向ける余裕がなかった隙の来航だった。

 ロシアのプチャーチンも日本に向かっていた。ペリーより少し遅れて長崎に到着したが、クリミア戦争の影響で一旦日本を離れた。彼は翌年に再来航し、1855年2月に日露和親条約を締結した。この条約で両国の国境を択捉島とウルップ島の間とし(北方4島は日本領)、樺太は国境を決めず両国民混住の地とすることが決められた。

 ロシア使節の旗艦ディアナ号は幕府との交渉が行われた下田に停泊していたが、安政の大地震の津波で大破し、修理のため戸田(へだ、沼津)へ回航中に沈没してしまった。プチャーチンは戸田で日本の船大工を集めて代わりの舟(ヘダ号)を建造し、無事ロシアに帰国することができた。

ナイチンゲール
ナイチンゲール像(ロンドン)

 フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)はイギリスの裕福な家庭に育った。彼女はクリミア戦争が始まると看護師を志願し、イスタンブールのスクタリ病院で働いた。彼女は精力的に病院の衛生環境を改善し、当時の傷病兵の死亡率40%を半年後には2%に低下させた。

 彼女は「クリミアの天使」と呼ばれ、彼女をテーマにした映画「白衣の天使」が発表されると看護婦を「白衣の天使」と呼ぶようになった。ナイチンゲールはこの呼ばれ方を嫌い、「天使とは美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と述べている。

 彼女は戦場から戻ると近代看護学を確立し、1880 年に看護専門学校(ナイチンゲールスクール)を設立した。この看護学校はセントトーマス病院内にある。

 彼女は看護と衛生に生涯を捧げ、その活動はスイス人アンリ・デュナンに受け継がれた。そして、「敵味方の区別なく負傷者を救う」という国際赤十字が設立された。


セントトーマス病院
逸話

【ノーベル】 スウェーデン人アルフレッド・ノーベルは、ロシア軍に機雷を納入して大儲けした。戦後、ダイナマイトの発明により大金持ちになり、遺言によりノーベル賞が創設された。

【シュリーマン】 ドイツ人ハインリヒ・シュリーマンは、ロシアに武器を密輸し、莫大な利益を上げた。この資金で子供の頃に読んだホメーロスのイーリアスの発掘事業を行いトロイ遺跡を発見した。

【天気予報】 この戦争で気象の重要性を知ったフランスは、パリ天文台のルヴェリエに暴風雨の研究をさせた。これが天気予報の起源。

【トルストイ】 ロシア軍に従軍したトルストイは、「セヴァストーポリ物語」を著した。反戦作家として日露戦争にも反対した。

【機雷】 イギリスがスウェーデンに参戦を促すためにオーランド諸島を攻撃した時、ロシア軍はバルト海封鎖のため機雷を使用した。この機雷の製造にノーベルもかかわっていた。

【カーディガン】 イギリスの司令官カーディガン伯爵は、負傷兵でも着易い前あきのセーターを考案した。これがカーディガンになった。

【ラグラン袖】 イギリスのラグラン男爵は、あり合わせの生地でオーバーを作ろうとした。戦場でも簡単に袖付けできるように、首の付け根まである袖を考えた。この袖はコートやジャケットにも採用され、「ラグラン袖」と呼ばれようになった。


ナイチンゲールの看護の様子

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【参考資料】
新月旗の国トルコ サイマル出版会 武田龍夫
 バルカンの歴史 柴宜弘著 河出書房新社