日清戦争(1894〜1895年)
概要

 日清戦争は、朝鮮半島の支配をめぐって日本と清(中国)が戦った戦争である。日本が先に戦争を仕掛け、明治維新や西南戦争で実戦経験を積んだ日本軍は清を圧倒し、朝鮮半島や遼東半島を占領した。そして、下関で日清講和条約が調印され、清は朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島・台湾・澎湖列島を割譲、多額の賠償金を支払った。

 中国は古来から周辺諸国と冊封(さくほう)関係を結んでいた。これは周辺国が中国に朝貢し、中国皇帝から官位を授与される(柵封)という制度で、この関係を結んだ国は中国の臣下となった。19世紀になると清は衰え、西欧諸国やロシアが侵略してきた。1884年には柵封国だったベトナムをめぐってフランスと戦いが始まり(清仏戦争)、ベトナムはフランスの植民地になった。柵封国は次々と植民地に取られ、19世紀末に中国と柵封関係を結んでいる主要な国は李氏朝鮮だけとなった。琉球王国も柵封国だったが、廃藩置県で沖縄県となって王国は消滅し冊封関係は解消された。

 日本は欧米の先進技術を取り入れて産業の近代化を急いでいた。しかし国は貧しく、軍事力にしても陸軍は7個師団(7万人程度)、海軍は軍艦を自前で調達できず海外から購入していた。とても対外戦争をやる力はなかったが、武力で朝鮮の主権を踏みにじり、目先の敵と戦うことしか考えずに戦争に突入していった。


魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国、横どりをたくらむロシア(ジョルジュ・ビゴーの風刺漫画:wikipedia)
揺れ動く朝鮮

 明治維新後、日本は新政府発足の通知と国交を望む使節を朝鮮に派遣した。朝鮮は交渉に応じず、朝鮮では排日運動が、日本では征韓論が沸き起こった。日本政府は西郷隆盛を派遣しようと準備していたが中止させられた。

 1876年、日本は朝鮮沿岸を測量する名目で軍艦2隻を漢城(ソウル)近くの江華島(カンファド)に派遣した。この挑発によって軍事衝突が起き、日本は江華島を占領した(江華島事件)。事件後、日本に有利な日朝修好条規が結ばれ、朝鮮は開国させられた。つい少し前まで鎖国していた日本が強引に朝鮮を開国させたのである。この翌年に西南戦争が起こっている。

 当時の朝鮮国王は高宗だった。彼は11歳で即位し、成人するまで実父の大院君が政治を執り行った。成人した高宗は1873年に親政を開始した。しかし、政治には無関心で、実権は王妃の閔妃(びんひ:明成皇后)が握った。彼女は大院君を追放し、清を宗主国として鎖国を貫く政策を行った。

 1882年、政権に不満を持つ大院君が反乱を起こし、政府の高官や日本の軍事顧問を殺害した(壬午事変(じんごじへん))。閔妃は王宮を脱出し、朝鮮に駐屯していた清軍に保護を求めた。清軍は直ちに出動して反乱を鎮圧した。日本も公使館警備のため軍隊を派遣した。反乱は鎮圧後も日中両軍はそのままソウルに駐留し、朝鮮に影響力を強めたい日本と、冊封体制を維持したい清とのにらみ合いが始まった。

甲申政変こうしんせいへんと甲午農民戦争(東学党の乱)

 

 

 

 

 

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 1884年、朝鮮の開国と独立を望む開化派が反乱を起こし、王宮を占領した(甲申政変)。日本はこの反乱を支援し、日本軍は王宮の守りについた。朝鮮政府は清に救援を求め、清軍は王宮を攻撃した。日本軍は数10名の犠牲者を出して撤退し、クーデターは鎮圧された。この事件で偶発的に戦争が起こる危険を感じた両国は天津条約を結んだ。これは「両軍は朝鮮から撤兵し、万一出兵する際には相手国に通知する」という内容だった。

 開国した朝鮮には多くの外国製品が流入した。経済は混乱して民衆の生活は苦しく各地で反乱が起きた。この頃、民衆に影響力のある宗教は東学だった。東学とは朝鮮独自の宗教で、キリスト教を意味する西学に対して名付けられた。1894年、東学党の指導者が武力蜂起し、全国的な内乱に拡大した。反乱軍は数万人に膨れ上がり、各地で政府軍を打ち負かした(甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう):東学党の乱)。

 朝鮮政府は清に反乱鎮圧を要請した。清は天津条約に基づいて日本に派兵する旨を伝え、精鋭部隊約3,000名を牙山に送り込んだ。そのころ日本は条約改正交渉に行き詰まっていた。政府は国民の信頼を失い、国民の目を外にそらす必要があった。朝鮮の反乱は「渡りに船」だった。ただちに清との開戦が決定され、在留邦人を保護する名目で1個旅団約8,000名の大部隊を派兵した。


逮捕された東学党の指導者(Wikipedia)
開戦

 日本が朝鮮に上陸した時にはすでに反乱はおさまり、日本は派兵の名目を失った。しかし、手ぶらで撤兵させる訳にもいかず、清との開戦の口実を探していた。そして、宣戦布告していないのに「清軍と接触した場合は戦闘状態に入れ」という命令が出された。

 1894年7月25日、清の輸送艦隊と日本艦隊が豊島沖で遭遇した。豊島沖海戦(ほうとうおき)が始まり、日本海軍は多数の清の艦艇に損害を与えた。この海戦に参加していた巡洋艦「浪速」は、清の増援部隊1100人を載せたイギリス船籍の高陞号(こうしょう)を発見し撃沈した。艦長は日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎だった。日本軍は清の将兵を見捨て、イギリス人船員のみを救助した。この行為は国際的な批判を受けたが、東郷は国際法に照らした正当な処置だったと反論した。

 日本は開戦するために強引な行動に出た。まず、朝鮮王朝に「清軍を撤兵させるように」と無理な要求を突きつけた。朝鮮王朝がこれを拒否すると、日本軍は王宮を占拠し、嫌がる大院君に親日政権を樹立させた。そして、この新政権に清軍の掃討を依頼させたのである。戦う名目を得た日本軍は直ちに牙山の清軍を攻撃し、清軍は多くの死傷者を出して平壌に敗走した(成歓(せいかん)の戦い)。この戦いで木口小平の「死んでもラッパを口から離しませんでした」という逸話がうまれた。

 8月1日、日清両国は宣戦布告した。日本の戦争目的は「朝鮮の独立と改革の推進」であった。これは弱い朝鮮をいじめる清を懲らしめて朝鮮の独立を助ける「正義の戦争」と宣伝されたが、実態は朝鮮から清を追い出して、朝鮮を日本の保護国にすることだった。

 日本の総理大臣は伊藤博文、開戦に積極的だったのは外務大臣陸奥宗光だった。清は光緒帝の時代で、政治の実権は西太后が、軍事面では北洋艦隊と淮軍を率いる李鴻章が握っていた。


高陞(こうしよう)号撃沈の場面(Wikipedia)

朝鮮半島制圧

 

 

 

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 平壌には最新兵器を装備した清軍15,000人が立てこもっていた。日本軍は平壌を3方から攻め、数日間の戦闘で平壌を占領した。清軍は中国本土に撤退した。

 黄海では連合艦隊12隻が清の北洋艦隊14隻と遭遇し、黄海海戦が起こった。連合艦隊は火力では劣っていたがスピードで優っており有利に戦いを進めた。北洋艦隊は山東半島の威海衛などの港に逃げ込み、日本軍は黄海の制海権を握った。その結果、兵員と物資の海上輸送が可能となり、陸路輸送の苦しみから解放された。

 朝鮮国内では反日運動が激化し、農民軍が再蜂起した。日本軍は朝鮮政府軍とともに鎮圧部隊を編成し、反乱軍を徹底的に殲滅した。この戦いで3万人以上の農民が犠牲になったといわれている。


平壌の戦い
旅順攻撃

 10月になると日本軍は鴨緑江を渡って中国国内に侵攻し、遼東半島の旅順を目指した。旅順攻撃の司令官は日露戦争で活躍する大山巌で、乃木希典も旅団長として従軍していた。11月21日に旅順攻撃が開始された。日本軍は防衛線を次々に突破し1日で旅順を占領した。

 翌日からの旅順市内の掃討作戦が始まり、日本軍は大量の市民を虐殺する事件を起こした。この事件は、日本ではあまり知られていないが、国際的に非難された。中国や欧米では旅順虐殺事件(the Port Arthur Massacre)として知られている。中国では中国人2万人が犠牲になった事件として学校で教えられている。旅順には「万忠墓博物館」が建てられ、日本軍国主義の侵略性を示す象徴的な事件として展示されている。

Port Arthur:旅順港のこと。アヘン戦争の時、イギリス海軍アーサー中尉が寄港したことで「Port Arthur」と名付けられた。


旅順口大捷之図
講和条約

 11月頃からイギリスやアメリカによる講和が打診された。日本はそれを断り、山東半島や台湾の澎湖諸島に進出する作戦をたてた。講和交渉を有利に進めるための作戦である。1895年1月、北洋艦隊がこもる山東半島の威海衛を攻撃した。威海衛には強力な要塞が構築されていたが清軍の抵抗は弱く数日で占領した。停泊していた北洋艦隊の艦船は撃沈された。3月には台湾海峡の澎湖諸島に上陸し占領した。

 1895年3月、清の全権大使李鴻章が来日し下関で講和交渉が始った。交渉中に日本の暴漢が李を狙撃する事件が起きた。慌てた日本側は早期決着を目指し、4月に日清講和条約(下関条約)が調印された。清は朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲し、多額の賠償金(日本の国家予算の4年分)を支払った。日本はアジアで唯一植民地を持つ国になり、帝国主義諸国の仲間入りをした。そして、朝鮮や中国をはじめアジアの国々を蔑視する風潮が広まった。

 ロシアはシベリア鉄道を完成させ、満州進出を狙っていた。ロシアは講和条約の「日本への遼東半島割譲」に反発し、フランス・ドイツを巻き込んで返還要求を突きつけた(三国干渉)。講和条約調印後6日目のことだった。日本はこの3国に抵抗する力はなく遼東半島を返還した。日本の世論は激しく反発した。日本は帝国主義国家間の勢力争いに巻き込まれ、軍国主義の道を突き進んでいった。

 日清戦争は世界から見ればアジアの片隅で起こった後進国同士の戦いだった。眠れる獅子の清が小国日本に敗れて弱体化が露呈し、欧米列強は中国侵略を加速した。ドイツはドイツ人宣教師が殺された事件を口実に膠州湾を、ロシアは旅順・大連を、イギリスはロシアに対抗して威海衛を、フランスは広州湾を次々と租借した。


講和交渉が行われた春帆楼(下関)

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【参考資料】
日清戦争 大谷正 中公新書
近代史 日本とアジア(上) 古川万太郎 婦人の友社
日清・日露戦争 井口和起 吉川弘文館