バウンティ号の反乱 (Mutiny on the Bounty)
パンノキ
西インド諸島

 イギリスはスペインから奪ったジャマイカなどの西インド諸島で、大規模なサトウキビ農場を経営していた。農場ではアフリカから連れてきた黒人奴隷を働かせた。アメリカ独立戦争が始まると、アメリカからの食糧輸出が止まり、奴隷達は飢えた。イギリス政府は西インド諸島で食料を自給させるため、南太平洋のパンノキを移植する計画をたてた。

 1787年12月、パンノキ移植の命令を受けたバウンティ号は、イギリスのポーツマス港を出航した。アフリカの喜望峰を経由し、オーストラリア沖を通ってタヒチに向かう困難な航海だった。乗組員は46人、植物の専門家も乗船した。艦長はクックの航海で航海長をつとめたウィリアム・ブライだった。ブライは経験豊富だったが規律に厳格で、乗組員から嫌われていた。

 1788年10月、バウンティ号はようやくタヒチに到着した。苦しい航海に耐えた乗組員にとってそこは天国だった。彼らはパンノキの採取をしながら島での生活を楽しみ、現地の女性と結婚する者も現れた。

反乱発生
バウンティから追放されるブライ船長たち

 1789年4月、パンノキを満載したバウンティ号は、喜望峰経由で西インド諸島に向けて出航した。乗組員たちは、島での安楽な生活に未練を残しながら、艦長の怒鳴り声に耐えた。そんなある日、パンノキが枯れ始めた。飲み水はパンノキに注がれた。

 出航して24日目、バウンティ号がトンガ沖を航行中に、乗組員の不満が爆発した。海軍士官クリスチャンがリーダーとなり、ブライ艦長とその部下18名を救命艇に追放した。パンノキはブライの目の前で海に捨てられた。

 反乱者を乗せたバウンティ号はタヒチに戻り、16人が島に残った。残りの8人は現地人(男6人、女11人)を連れてピトケアン島(Pitcairn)に逃げた。そこはイギリスの海図に載っていない無人島だった。彼らはバウンティ号を沈め、島での生活を始めた。

 ブライ達を乗せた救命艇は、41日かけて奇跡的にチモール島(インドネシア)にたどり着いた。ブライはイギリスに戻り、事件を報告した。ただちにバウンティ号捜索隊が出航し、タヒチで14人を逮捕した。しかし、ピトケアン島に逃亡した反乱者を見つけることはできなかった。

ピトケアン島
南太平洋

 事件から19年が経った1808年、アメリカの捕鯨船がピトケアン島に立ち寄った。そこで、ただ一人生き残っていた水夫ジョン・アダムスと10名の女性、20数人の子供を発見した。他の男達は病気や女性をめぐる殺し合いですでに死んでいた。

 アダムスは恩赦となり反乱の罪は赦された。彼は1829年に61歳でピトケアン島で死去、島の集落は彼の名をとってアダムスタウンと命名された。島は1829年にイギリスの植民地となり、今でも反乱者の子孫達が住み着いている。ブライは別の船の艦長となり、1791年にパンノキを西インド諸島に運び込んだ。

【ラム酒】西インド諸島のサトウキビから作られた酒。
【三角貿易(奴隷貿易)】西インド諸島→ヨーロッパ→西アフリカを結ぶ貿易。アフリカから西インド諸島に奴隷を運んで砂糖と交換、砂糖はヨーロッパでラム酒や武器と交換、ラム酒や武器はアフリカに運ばれて奴隷と交換された。奴隷の一部はアメリカ南部に運ばれ、綿花栽培の労働力となった。

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【参考資料】