ペルシア帝国
ペルシア帝国

 アッシリアの滅亡後のオリエントは、エジプト、リディア、新バビロニア、メディアの 四国が分立した。BC8世紀、アーリア人の一派ペルシア人が、族 長アケメネスに率いられてイラン南東部に移り住み、メディアに従属していた。ペルシアとは、メディア人がペルシア人の居住地を「辺境:ペルシス」と呼んだことに由来している。

 BC552年、キュロス大王(キュロス2世)は、メディアに反旗を翻してこれを滅ぼした。続いてBC547年にリディアを、BC539年には新バビロニアを滅ぼし、広大なペルシア帝国を建設した。BC537年、バビロニアに捕囚されていたユダヤ人は解放された。

 BC525年、彼の息子のカンビセス2世はエジプトを征服し、古代オリエント世界を統一した。


ペルシャ帝国の首都ペルセポリス(Wikipedia)

ダレイオス1世

 3代目ダレイオス1世(Dareios:BC521〜BC486)は、、エーゲ海からインダス川におよぶ大ペルシア帝国を築いた。首都はペルセポリス(Persepolis)。

 彼は、帝国を20の州に分け、各州に知事(サトラップ)を派遣した。さらに、知事を監視する監察官も派遣し、サトラップの動きを牽制した(王の目、王の耳)。また、広大な領土を貫く王の道を建設し駅伝制を確立した(2400kmを7日で結んだ)。

 ダレイオス1世は、自分の即位の正当性を示す文章とレリーフをベヒストゥン磨崖碑(Bistoon Kermanshah)に刻んだ。ダレイオスに背いた9人の王を後ろ手に縛って王の前に引き立てている。この遺跡は、楔形文字解読の手がかりとなった。


ベヒストゥン磨崖碑 (イラン ケルマーンシャー州)
ペルシア戦争

 トルコ南西部にあるギリシア植民都市ミレトスは、ペルシアに対して反乱を起こした(イオニアの反乱)。アテネはこの反乱を支援するがBC494年、ラデ島沖の戦いで敗北し反乱は鎮圧された。

 ダレイオスは帝国に背いたギリシャに激怒し、遠征を開始した。ここにペルシャ戦争が始まった。第一回の遠征はアトス岬沖で大しけに遭い、ペルシア軍はそのまま撤退した。

 BC490年、今度は本格的な軍を派遣するが、アテネの重装歩兵により、マラトンで大敗する。ダレイオスは次の遠征準備中に死亡した。

 BC480年、ダレイオスの後を継いだクセルクセス1世が、1207隻の軍船を率い、自ら遠征した。スパルタの軍勢を打ち負かしアテネを占領するが、サラミスの海戦で敗れ撤退した。結局、ギリシア侵攻は失敗し、カリアスの和約により和睦する。


ミレトスの遺跡

皇位継承争いそして滅亡

 

 

 

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 ダレイオス1世の死後、宮廷内で皇位継承争いが発生した。ギリシャ遠征を行ったクセルクス1世は皇太子に殺され、その皇太子も殺された。そして最後の皇帝ダレイオス3世が即位した。

 そのころ、エジプトを征服したアレクサンドロスは、メソポタミアへ進軍していた。BC331年、両軍がぶつかったガウガメラの戦いでペルシアは敗れ、アケメネス朝は滅亡した(BC330年)。

 西アジアはヘレニズム時代に入った。


ダレイオス1世謁見の図:イラン国立博物館