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イスラムの発展と分裂
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| 正統カリフ | ![]() |
ムハンマドの死後、イスラム共同体の指導者カリフを選出した。カリフは代理人/後継者の意味で、アブー・バクルが初代カリフに選ばれた。以後、カリフはイスラム教の最高権威者の称号となった。
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| シーア派とスンニ派 | ![]() スレイマンモスク(ロードス島) |
アブー・バクルとウマルはムハンマドを支えた教友で、スンニ派からは正統カリフとして尊敬されている。ムハンマドの血統を重視するシーア派は、ムハンマドの従弟アリーを初代カリフとする。シーア派にとってアブー・バクルとウマルは、アリーの初代カリフ就任を妨げた悪人。スンニ派とシーア派は1000年以上対立している。 【スンニ派】 スンニ派は予言者ムハンマドのスンニ(慣例)に従う人々で、イスラム教徒の8割を占める。正統派ともいわれる。 |
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シリア総督ムアーウィヤ(Muawiya)は、ビザンツ軍と戦いキプロス島やロードス島を征服、シリアに強力な地盤を築いた。第4代カリフのアリーと激しく対立し、661年にアリーがクーファで暗殺されるとカリフに就任し、ダマスカスにウマイヤ朝を開いた。 彼はカリフ選出をめぐる混乱を恐れ、選挙制から世襲制に変えた。以後ウマイヤ家のみがカリフとなった。これに反対したのがアリーの一派、シーア派である。彼らはクーファを拠点に反ウマイヤ家の活動を開始した。アリーの息子フサインはその活動中に、クーファの西北カルバラで戦死した(680年10月10日)。シーア派はこの日をフサイン殉教の日として追悼式を行っている。 |
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ウマイヤ朝6代カリフのワリード一世の時、対外軍事行動は活発化しイスラム帝国が築かれた。東方のホラズムを攻撃、ブハラやサマルカンドを占領、続いて東イランやアフガニスタンを占領した。また、南イランからインダス川を遡ってパンジャーブに進攻し、北インドをイスラム化した(712年)。 北方では、ソグド人を圧迫しながらシル川を越え、中央アジアに進出した。北アフリカでは、マグリブを占領、頑強に抵抗したベルベル人を制圧し、征服事業に協力させた。 711年、ベルベル人の将軍ターリク・ブン・ズィヤード指揮下のイスラム軍はイベリア半島に進出し、西ゴート王国を滅ぼす。その後フランク王国に侵入したが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れ、フランスから撤退する。 ウマイヤ朝は支配者のアラブ人に多くの特権を与えた。征服地の先住民にはジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課した。ジズヤは異教徒が支払う人頭税で、税金を払えば信仰の自由は認められた。 ウマイヤ朝の支配地域は広大で、ムハンマドの召命から100年で急速にイスラム化が進行した。そして、地中海ではイスラム教とキリスト教の対立が激化した。 |
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| アッバース朝 Abbus |
シチリアは9世紀にアラブが統治し、それは1130年にシチリア王国が開かれるまで続いた。 |
ウマイヤ朝は広大な領土を支配するため中央集権化を図ったが、しだいに地方分権化が進んでいく。南イラクに支持基盤を持っていたシーア派は、ウマイヤ朝カリフを認めず対立する。ムハンマドの叔父アッバースの子孫イブラーヒムは、東イランでウマイヤ朝に反旗を翻した。 750年、ダマスカスに侵攻してウマイヤ軍朝を滅ぼし、イブラーヒムの弟サッファーフがカリフとなりアッバース朝が始まった。 751年、高仙芝が率いる唐軍とタラス河畔(現カザフスタン)で戦い撃破した。この戦いで捕虜になった中国人から紙の製法がイスラム圏に伝えられた。 第2代カリフ:マンスール(754〜775)は、新しい都バグダードを建設する。アッバース朝は、千一夜物語(アラビアン・ナイト)にも登場するハールーン・アッラシード(786〜809)の時が最盛期だった。 |
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| イスラム世界の分裂 |
【サラセン(Saracen)】 古代ギリシア人はアラビア半島やシリアのアラブ人のことをサラセンと呼んだ。その後、イスラム教徒のことに使われた |
809年にハールーン・アッラシードが亡くなると、徐々に地方の統制がきかなくなり、エジプトやイランのアミール(地方の行政官)が独立し始めた。そして10世紀になると、イスラム世界には3人のカリフが並立するようになった。
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| セルジューク朝 (Salajiqa) |
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10世紀末、トルコ系民族の族長セルジュークは、一族を率いてカスピ海から南下した。この部族はサーマン朝に仕えてイスラム教に改宗し、力を蓄えていった。1038年、孫のトゥグリル・ベク(Tughril Beg)は、ニシャープール(イラン東部のホラーサーン)に入城し、セルジューク朝を開く。 彼は、1055年にブワイフ朝を倒してバグダッドに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。以後アラブ人に代わってイスラム世界の指導権を握った。 11世紀後半には、シリア・パレスチナからエジプトのファーティマ朝の勢力を追い払い、また1071年、マラズギルトの戦い(Malazgirt またはマンツィケルト)でビザンツ軍を破り、ビザンツ皇帝ロマノス4世を捕虜とした。この事件が、十字軍の引き金となった。 |
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| ルーム・セルジューク朝 |
アナトリア(現トルコ)にはセルジュク朝の分家:ルーム・セルジュク朝(1077〜1308)ができた。ルームとはローマのことで、東ローマ帝国領を領土とし、住民も大半がキリスト教を信仰するギリシア人だった。 セルジュク朝は、2代目、第3代目スルタンの時が全盛で、その後、内紛により急速に衰退する。1157年、セルジュク朝から分離したホラズムやカラ・キタイ(西遼)の侵略により滅亡する。 |
セルジュク朝滅亡後もルーム・セルジューク朝は存続したが、1243年にモンゴルの支配下に入り、1308年に最後のスルタンが亡くなって滅亡した。
1258年、バグダード周辺にわずかに勢力を保っていたアッバース朝カリフは、フラグ率いるモンゴル軍に滅ぼされ、カリフ制が絶えた。その後、イル・ハン国が建国され、このモンゴル帝国もイスラム化していった。 |
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| イスラム文明 |
アラビア数字と角数(数字は角の数で決められた) |
イスラム帝国は古代文明の栄えた地域に建設された。その文化遺産をイスラム教とアラビア語によって発展させたのがイスラム文明である。この文明はイスラム教を核とする普遍的な文明で、イスラム世界のいたるところで受け入れられた。 ヨーロッパも11〜13世紀にかけて、スペインのトレドのイスラム教徒の著作をラテン語に翻訳して学び、のちにルネサンスを開花させた。イスラム文明はギリシア文明を西ヨーロッパに伝える上でも重要な役割を果たしたのである。 算用数字「1、2、3、4」はアラビア数字と呼ばれ、これはローマ数字「T、U、V」に対してつけられた名前である。インドで創られた数字が8世紀にアラビア諸国に伝わって発展し、12世紀にヨーロッパに伝わった。アラビアから伝わったためアラビア数字というが、アラビア人はインド数字と呼ぶ。 |
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【参考資料】
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