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スペインの歴史
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| イベリア半島 | ![]() イスラム教徒の攻撃に備えて築いた城塞都市アビラ(Avila) |
BC8〜7世紀頃、イベリア半島にはフェニキア人やギリシア人が植民活動を行った。フェニキア人はカディスやマラガに殖民都市を建設した。ギリシア人は、南フランスのマルセイユに殖民都市を建設し、地中海沿いに南下してきた。 BC540年、カルタゴはアラリアの戦いでギリシアを破り、イベリア半島の貿易を独占した。そして、第1次ポエニ戦争でローマに敗れると、本格的にイベリア半島に進出し、カルタヘナやバルセロナなどの町を建設した。第2次ポエニ戦争でローマは地中海沿いに南下してカルタゴを滅ぼし、600年にわたってイベリア半島を支配した。 6世紀になるとゲルマン人の一派の西ゴート族が侵入し、712年からはイスラム勢力の支配が始まる。やがてキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)がおこり、800年のイスラム支配から脱却して大航海時代をに突き進んでいった。 【イベリア】…古代ギリシア人は先住民を「イベレス」と呼び、ローマ人はヒスパニア(ウサギの多い国)と呼んだ。 |
| 西ゴート王国 | ![]() 西ゴート王国の首都トレド |
バルト海のリトアニア付近に住んでいた西ゴート族は、375年にローマ帝国領内に進入する。ローマの傭兵だった西ゴート族は次第に力をつけ、410年にはアラリックがローマを制圧する。アラリックの死後ガリアに移住、バルセロナを占領し、419年にトロサ(トゥールズ)を首都とする西ゴート王国を建設した。 507年、西ゴート王国はヴィエの戦いでフランク族に敗れ、ガリアからイベリア半島に逃れた。首都はトレドで、基本的にローマ時代と同じ統治を踏襲した。そして、589年にはアリウス派からカトリックに改宗した。 やがて、イスラム教徒によって地中海の貿易ルートが遮断され、西ゴート王国は次第に衰退していった。また王位をめぐる争いが起こり、チンダスビント家のロドリーゴが国王に就任すると、対立するバンパ家はアフリカのイスラム教国に支援を求めた。 |
セウタから見たジブラルタル海峡 |
イスラム帝国は東ローマ帝国からエジプトを奪還し、西方のマグリブ(日が没するところ:チュニジア、アルシェリア、モロヅコなどの北アフリカ)に向かって進撃した。698年に、カルタゴを占領、707年にモロッコを制圧する。 711年、アフリカ総督ムーサーは、ベルベル人ターリクにスペイン攻略を命じ、7000人の部隊がジブラルタルに上陸した。北部パンプローナでバスク人と戦っていた西ゴート王ロドリーゴは急遽南下するが、グアダレーテ川付近でイスラム軍に破れる。勢いに乗ったターリクは、トレドに向かい、また別働隊をコルドバやムルシアに派遣した。 【ジブラルタル】 海峡入口にある岩山は、対岸のモロッコの山とともにヘラクレスの柱と呼ばれた。ターリクがイベリア半島に侵入し、この岩山はターリクの山(ジャバル・アル・ターリク)と呼ばれ、それがジブラルタルとなった。 |
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| アル・アンダルス | |
わずか数年で、カンタブリア山脈とピレネー山脈を除くイベリア半島の大部分がイスラムの支配下となり、アル・アンダルスと呼ばれるウマイア朝の属州が生まれた。首都はコルドバ。ウマイヤ朝はアミールと呼ばれる総督を派遣した。 アル.アンダルスの大多数は、キリスト教徒(モサラベ)とイスラムに改宗したムワッラドであった。キリスト教徒は人頭税を支払って、土地の所有と信仰の自由を得た。ユダヤ人も、信仰の自由と自治を保証された。また、サカーリバと呼ばれるスラブ人などのヨーロッパ人奴隷も多く住んでいた。 征服者のイスラム教徒は一枚岩ではなく、アラブ人とベルベル人の対立、アラブ人とシリア人との確執があった。また、多様な宗教と民族を抱えたアル・アンダルスの政情は不安定で、716〜741年の間に15人もの総督が交代した。 その後、フランスにも進出するが、732年トゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルに敗れ、イベリア半島に封じ込められた。 |
| 後ウマイヤ朝 | ![]() コルドバのメスキータ |
750年、ウマイヤ朝がアッバース朝に倒されると、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がモロッコ経由でイベリア半島に逃れてきた。そして、756年コルドバでアミールを宣言し、後ウマイヤ朝を興す。778年にはフランク王カール・マルテルの進入を撃退、この戦いがローランの歌のベースになった。 929年、第8代アブド・アッラーフ3世は自らカリフを名乗り、北部のカスティリャ、アラゴンなどのキリスト教国を圧倒した。また、ファテーィマ朝と北アフリカ領有権を争うなど、黄金時代を築いた。 後ウマィヤ朝には東方から多くの文化人が移住し、ヨーロッパにサラセン文化を伝えた。首都コルドバは、バグダッドやカイロとともに文化の中心地で、メスキータと呼ばれる大モスクが建設された。コルドバ゙で開花したイスラム文化は、ラテン語に翻訳されてイタリアに伝わり、ルネッサンスに大きな影響を与えた。 後ウマイヤ朝は、1031年に権力闘争によって滅亡、小王国乱立の時代になった。 |
| レコンキスタの開始 | 1487年に攻略されたマラガの城塞 |
西ゴート王国滅亡後、西ゴート貴族ペラーヨ(Pelayo)は、カンタブリア山脈に逃れた。722年、コバドンガの戦い(Covadonga)で初めてイスラム軍を破り、アストゥリアス王国を建設する。3代目のアルフォンソ2世の時、12使徒の一人ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見され、レコンキスタの機運が高まった。そして、首都をオビエドに移し、ドゥエロ川流域に進出してレコンキスタが開始された。 次のガルシア1世は首都をレオンに移し、レオン王国が誕生する。レオン王は、ナバーラ王やカスティーリャ伯の支援を得て、後ウマイア朝とドゥエロ川をめぐる激しい戦いを繰り広げた。しかし、常に劣勢で、一時は後ウマイア朝のアル・マンスールに国内を蹂躙される危機的な状況に陥った。 |
| 小王国乱立 | ![]() |
後ウマイア朝の崩壊は、大きな転換点となった。アル・アンダルスは、セビリア、トレド、サラゴサ、グラナダ、バレンシアなどの小王国に分裂した。王国間の紛争は絶えず、イスラムの結束力は弱まり、キリスト教国に対する軍事的優位も失われていった。 1085年、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世はトレドを攻略した。また、彼の臣下エル・シドは、1094年にバレンシアを占領する。エル・シドとは、アラビア語の「わが主」という意味で、ムーア人が彼の勇敢さを讃えて付けた名前である。本名はロドリーゴ。 トレドの陥落は、イスラム諸国に深刻な打撃を与え、北アフリカのムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィーンに援助を求めた。 【ムーア人】 北西アフリカのイスラム教徒。スペインではモーロ人、主としてベルベル人のこと。 |
| ムラービト朝からムワッヒド朝へ | ![]() アルファフェリア宮殿(サラゴサ) |
1086年、ユースフはイベリア半島に渡りサグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破った。そして、1102年までにマグレブ、セビリア、グラナダ、バレンシア王国を征服、北アフリカからアル・アンダルスに至る大帝国を建設した。しかし1147年、イスラム改革を目指すムワッヒド軍に敗れてムラービト朝は滅亡した。アル・アンダルスは再びグラナダ、マラガ、バレンシアなどの小王国に分立した。 1150年、北アフリカを統一したムワッヒド朝は、イベリア半島に進出し、アル・アンダルスの大部分を征服する。しかしその支配も長続きせず、1212年、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いで、カスティリャ、アラゴン、ナバラの連合軍に破れアル・アンダルスから撤退した。 |
| レコンキスタの進展とポルトガル | ![]() |
アルアンダルスは再び権力の空白状態になり、ムルシア王国、バレンシア王国、グラナダ王国などが乱立する。各王国は、キリスト教諸国に個別に攻略され、レコンキスタは最終局面に入る。 1236年、コルドバが、1238年にはバレンシアが陥落、1244年にムルシア、1246年にハエン、1248年にセビリャが次々と攻略された。イスラム勢力は、グラナダ王国のみとなった。 ポルトガルは、カスティーリャ・レオン王国に属していたが、ポルトカレ伯アルフォンソ・エンリケスが反抗し、1139年のオウリケの戦いでアルフォンソ7世を破り、1143年に独立した。ポルトガルは首都コインブラを拠点にレコンキスタを展開し、1147年にリスボンを攻略、1249年に全てののレコンキスタを完了した。 |
| ナスル朝 | ![]() アルハンブラ宮殿 |
1236年のコルドバ陥落後、イスラム教徒はグラナダにナスル朝を興し、アルハンブラ宮殿を建設した。 1479年、アラゴンの皇太子フェルナンドとカスティリャの王女イサベル((Isabel)の結婚によりスペインは統一され、スペイン王国(Espana:エスパーニャ)が誕生した。二人は平等(タントモンタ:Tanto
Monta)の扱いでスペインに君臨した。後に教皇からカトリック両王の称号を与えられる。そして、悪名高い異端審問を開始し、何千人ものユダヤ人、非キリスト教徒を追放または処刑した。 1492年、カトリック両王はグラナダを包囲、最後の王ムハンマド11世はグラナダを無血開城し、涙を浮かべて城を去った。8世紀以来、イベリア半島を支配したイスラム軍はモロッコに去り、レコンキスタは完了した。同年、カトリックに改宗しないユダヤ人も追放された。 |
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【参考資料】
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